第18話
今、目の先のカップルが一組、破局しようとしている。
彼女さんは腕を組んで窓の向こうを、彼氏さんは頬杖をついてテーブルの上をじっと見つめるばかりだ。
うんともすんとも言わない代わりに、二人の間へ流れる空気は最悪で。義憤と失望と憫然が同じ体積で、彼処にみちりと詰まって漂っているのだ。
当事者ではないのに、見ていると土下座したくなってくる。怖い。
って、それよりも。わなわなと震える口元をあたしは両手で覆った。あのカップル、本当に別れちゃうのかな。え、本当に?あの口喧嘩だけで?
そりゃさぁ、あんまり仲良しには見えなかったけど。来店した時点から、する前の街中から言い争っていたんだし、すこぶる険悪なんだろうけど。
でもなんか、なんだか、煮え切らないや。
きぃと、控え室のドアの音がした。
「店長。荷物を仕舞い終えたから俺は帰るよ」
半開きの扉から
「わかったよ。お疲れ様、明日またよろしくね」
「わかった。
晃さんは言葉を連ねつつ、水野さんからあたしへ顔を向ける。しかし、途中でその口は止められた。そこからは唯々凪いだ表情で、あたしをじいと見つめるだけ。何も言わないし動かない。え、何。一体どうしたんだろう。
背後の水野さんも晃さんを眺めている。怪訝な顔つきだ。じゃあ水野さんは知らないってことかな。本当に晃さんの事情で、今の空気になっているんだ。
「晃さん。何かありましたか」
あたしは僅かに首を傾けた。だってあたし、そんなに可笑しいことしてなかったよね。少なくとも今は。もうしゃがんでいないし。
晃さんは唇を少し開けた。
かと思えば再度閉じて、つと、卓上のサイフォンを見る。
「なんだろう、なんだろうね」
ぱちり、ぱちりと瞬きをして晃さんは目を伏せた。白魚のような左手がカウンター上を二、三度行き交う。
いやいや、なんだろうはこっちの方なんですけど。そう言えば良いんだろう。あたしにはその権利がある。でも、あたしの口は動かなかった。
既視感があった、今の晃さんには。だからだと思う。
あたしは時計を見る。
丁度おやつの時間になったところだった。
盤上でかちかちと針は刻み、刻刻と時分は流れていく。振り子の見える窓の奥は、大きいものから小さいものまで沢山の歯車がひしめき嘶く。
寸分の遅れもない、日常の一欠片。
かつと前で床を穿つ音がした。
オーケストラより小さく、短い音だった。いつもなら全く気づかないし気にも止まらない音だった。なのに、耳にこびりついて消えない。あたしは時計から音源の方向へ向く。
まっすぐにこちらを見る晃さんがいた。
「ねぇ、波須歯さん」とほんのり紅い唇が動く。
「どうかしたの」
「どうか、って、何が」
どうにかあたしは返事をした。急に上手く息を吸えなくなっていた。少し早くなった心臓の上を、そっと右手で抑える。晃さんは一度瞬きをすると、カウンターの端へ左手を移す。
「波須歯さん、元気が無さそうだったから。俺が裏へ回る前はもっと活気に満ちていたのに」
「活気って、別に。いつも通りでしたよあたし」
「そうかな。店長はどう思う」
晃さんは水野さんへ首を向ける。水野さんは頓狂な声を上げた。
「僕に振るのかい。えぇと、そうだな。確かにさっきより今の方が元気は無さそう、かも」
「ほら」
「ほらぁ、じゃないですよ。み、店長も無理に話合わせなくて良いんですよッ」
両手で握りこぶしを作って、あたしは抗議した。
でも晃さんはしれっとした顔のままだ。困ったように笑う水野さんとは雲泥の差。もうちょっと申し訳ない表情して欲しい、切実に。
あたしの願いが届いたのか。晃さんは静かに右手を顎に添えた。
「だってほら、あれ。えぇと柴犬、秋田犬、紀州犬、そうだ土佐犬。威嚇する土佐犬みたいな顔をしていたのに」
「土佐犬」
無意識にあたしはオウム返しをしていた。
晃さん全然反省してなかった。
って言うか、土佐犬ってあれだよね。めちゃめちゃ厳つくてごつい犬だよね。高知県の海辺にある偉い人の像の足元にいる犬、あれ。なんか違う。東京都の駅前にある偉い人の像の足元の犬だっけ。ハチ公はもっと違う気がするし。
兎に角、全然かわいくないのは覚えているけれど。仮にも女子に、現役女子高生に言う言葉じゃないよ晃さん。
水野さんも後ろで「あぁ課題の。最近、犬を調べていたもんなぁ晃」って、表情和らげてほんわかしている場合じゃないです。
お願いだから否定かフォローしてください。
え、それともそんなにごついのあたし。そんなことないよね、平均だよね。
ぐるぐる頭の中身を回していると、晃さんが言葉を紡ぐ。
「それで。何があったの」
こてりと。あたしを覗き込むように、晃さんはちょっぴりと顔を傾けた。
あたしはのけぞった。あわわ、話が戻っちゃったよ。目まで回ってきそうだ。
なんだっけ、何を考えていたんだっけ。わかんないや。言い出しづらいことだったことだけはしっかりと覚えているけど、それ以外がてんで駄目だ。うーん。
あたしはため息をついた。
今、水泳の授業を二時間やった後みたいに、気分が重たい。
もう良いや、そのまま言っちゃおう。なんだか言わないよりも良い気がしてきた。それに言っちゃ駄目なことなら、きっと言ってくれるよね。駄目だって。
すっきりとした空気を肺に入れながら、あたしは小さめに口を開けた。
「あのぅ。人と人って、あんなに簡単に別れちゃうものでしょうか」
「別れる。何、どういうこと」
僅かに晃さんの眉が寄る。
やっぱり言っちゃ駄目なことだったかな。どきどきしながら次の言葉を待つけど、晃さんは一向に何かを言う素振りを見せない。
すると、水野さんが会得顔で頷いた。
「あぁ、そういえば晃は知らないか。ちょっと色々あったみたいでね」
ほら。
水野さんは自分へ振り向いた晃さんに目配せをした。示した先は客席。勿論、あの二人のいる場所である。
晃さんは頭を動かすことなく眺めつつ、別れる、別れると小さく呟いた。
「そういうこと。波須歯さんはあっけなく恋人同士が別れる理由がわからないと」
晃さんへ短く肯定しながら、あたしは客席を盗み見る。
二人は微動だにしていなかった。あたしたちが小声なのもあるのか、カウンターへ気を向けている様子もない。
良かった。いくらなんでも本人たちに聞かれてたら、罪悪感がすごいもんね。
ほぅと胸を降ろしつつ、あたしは言う。
「だって、カレカノになったっていうことは、ですよ。二人ともお互いのことが好きになって、一緒にいることにしたんですよね。なのにたった一度の喧嘩で、ほんの一つの言葉で簡単に今までを全部無くすなんて、ちょっと変な気がして」
言いながら、あたしはもやもやする。
だって、本当にちょっとしたことなのだ。第三者の、外野のあたしでもわかるような、すッごく単純な行き違いじゃないの。
お互いがお互いに自分の感情をぶつけて、相手の感情を見ないままにして。
正確な判断ができているはずがないのに、大事なことを簡単に決めちゃって。
やっぱり納得できない。
良いわけがないよこんなの。
しかし。
「ふぅん。そうなの」
晃さんの反応はとても淡白だった。
そうなの、そうなのって言ったよこの人。そうなのって何よ。あたしは口をあんぐりと開ける。
大きな雷に打たれた気分だ。っていうか、淡白なんてレベルじゃない。流されたんだこれ。ちょっとちょっと、いくらなんでも酷くないかな。
確かに酷いと思った。
思ったけれど。静まり返る胸の奥にあたしは惑った。いつもと違って怒りの気持ちが沸いてこないのだ。本来は怒るべきなんだろう。
でも、なんか怒れない。
なんでだろう。誰からどう見ても軽い感じで流されたのに。
「こら、晃ッ。そんな言い方じゃあ、波須歯さんの言葉をぞんざいに受け流した印象になってしまうよッ」
黙って理由を考えていると、水野さんが慌てたように言った。
え、ちょっ、何が起きたの今。ぎょっとしていたら水野さんは頭を掻いた。
「あぁもう、本当にごめんね波須歯さん。こいつさ、人の感情の移ろいに疎くて。特に恋愛に関しては非常に、非ッ常に鈍いんだ」
「え、えええッ」
あたしは水野さんを凝視してしまう。そして、水野さんの言葉に納得した雰囲気を醸す晃さんに度肝を抜かれそうになった。
あ、ごめん。
抜かれそう、だなんて嘘ついちゃった。
多分もう抜かれている。そんな気分だから。実際に、晃さんをあたしは高速に二度見していた。ううん、三度見だったかもしれない。
そっか、そうだったんだ。
晃さんの言葉にまるきり悪意が無かったから。
だからあたしは怒る気がしなかったのだ。
思い返せば、晃さんの纏う空気は変だった。
あれはまるで予想外の、まっさらな新しい知識を得たような反応。言葉は理解できるけれど、何故その感想を持つのかわからないという反応。
簡潔に言えば、全く響いていない。
意識が戻ると、硬い面持ちの晃さんがいた。
「波須歯さん、嫌な想いさせてしまってごめん」
「い、いえ。大丈夫ですよッ」
あたしは胸の前で両手を振っていた。
だってあまりにも申し訳なさそうに言葉を紡ぐから。だってあまりにも切なそうに頭を下げるから。
あたしは困ってしまう。まるで、ずうっと歩いていたコンクリートがいきなりぼろぼろと割れて、真っ逆さまに落ちているような。
今にも、訳もなくわきわきと指を閉じたり開いたりと、忙しなくしちゃいそうになる。
優しい顔で、ぽんと水野さんが晃さんの肩を軽く叩いた。
「波須歯さんもこう言ってくれてるし。そろそろ顔を上げなよ」
晃さんは黙って頷くと、言われた通りにした。
晃さんの顔は変わらず乏しい。
少しは察せるようにはなったけれど、今も何を考えているのか全くわからない。でもよくよく見れば口角が極々僅かに下へ下がっている、ように見えた。
それがわかっただけで、胸に燻った火はふっと消えていった。
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