第16話
Mサイズのグラスとマグカップを手にしたとき、控え室の奥から足音が聞こえた。振り向けば丁度、ぎぃと小さく扉が軋んだところで。水野さんが入ってきた。
「少し騒がしかったようだけど、
「はい、なんとか」
えへへだなんて言いながら、あたしはカップ類を置いた。
水野さんは胸を撫で下ろして、続ける。
「駆けつけられなくてごめんね。大事なくて良かったよ」
「大丈夫ですよ。それに、あたしには丁寧でしたから」
「あたしには?」
ぱちぱちと水野さんは瞬きした。あたしは無言で客席へ指を差す。二人はトイレ側にある壁際の席にいた。ただし、一人ずつ別々の席で。
クロックヴィクトリアンの店内はほとんどがカウンターの席だ。
桐崎さんが座っていた窓際にボックス席が二つあるけど、それ以外はみんなおひとり席。元から席数が多くないお店とは言えど、チェーン店のカフェと比べたら少ない方かもしれない。
なんて、昨日
なお晃さんはというと。背後の水野さんの存在に気づいても、表情も意思も変化しなかった。相変わらずである。
指の先を見た水野さんは、物憂げに声を漏らす。
「なるほど。でも、理性的なお客さんで良かったね」
「そうで、うーん、いや。どうなんでしょうか」
頷こうした頭を、あたしはストップする。
氷の入ったグラスにコーヒーを注ぎながら、首を捻った。だって本当に落ち着いている人たちなら、さっきみたいなことしたかな。入店時も姦しく音を鳴らしていたし。精算のときも喧嘩を再開させちゃうし。十分に本能で動いているような。
水野さんは緩く腕を組んだ。
「僕は理性的だと思うよ。感情的な人なら声を荒げたり八つ当たったり、喧嘩相手とは別の人へ矛先を向けることも珍しくはないからね」
「そう、なんですかねぇ」
銀トレイ、所謂プラッターにマグカップを置いて、あたしは回顧する。
言われてみれば。あのカップルはあたしへ突っかかって来なかった。矛先はずっとお互いにしか向いていなかった。確かに一時的に蔑ろにされたことはあるけれど、最後は二人とも謝ってくれたよね。
そっか。存外に真面な人たちなんだなぁ。なら、悪い人たちではないのかも。
水野さんに見送られて、あたしはスイングドアから躍り出る。
心が随分と軽くなった気がする。もしかして、ただの喧嘩している人たちだとわかったからかも。だって、さっきよりも怖い気持ちが小さくなったから。上々だ。
なのに。
近づくにつれて、あたしの足は重くなっていった。というのも。
「大体、束縛きつすぎだよお前。友達関係までに口を出す必要はないだろ。彼奴等、人としてなんら恥ずかしいところないのに」
「勘違いしないで、友達との関係を絶ってほしいなんて一言も言ってない。自由席でわざわざ隣に座ったり、二人きりになったりするをやめてほしいって言ってるの」
「友達なんだし、隣に座るくらいなら良いだろ。例え友達でも女子が混ざるときはきちんと報告してるし、人数合わせの合コンの話も断ってる。どこか不満なんだよ」
絶賛、喧嘩の真っ最中だからである。
自然と、視界に足の甲が映った。
梅雨空の湿気の中より重たい空気が肺を満たしていく。あんな戦地に、今から行かなきゃいけないなんて。白状するとこのままカウンターへ戻りたい。
でも。
険悪な二人をちらりと見た。あたしたちお店側に配慮してくれているんだろう。ボリュームは店内の音楽より小さかった。
どうやら、二人とも相当に感情を抑えてくれているっぽい。
しかしながら。いつカッとなって、ヒートアップしてもおかしくはない。
だってそれが喧嘩ってものだもの。
家でもそうだ。
喧嘩中のお父さんとお母さんは、最初は同じ熱量で言い争っていたのに、いつの間にかお母さんがお父さんへ謝って終わってたりお父さんがお母さんへ延々と土下座していたり。喧嘩という怪物は、どう変態するかわからないのだ。きっとそうだ。
プラッターの上を見て、あたしは深呼吸する。これが冷めて温くなっても大問題だ。だったら、比較して大人しい今のうちに行った方が良いよね。
よぉし、突撃だッ。
わざと軽やかに靴を鳴らして、あたしは笑顔で客席へ寄る。
「大変お待たせいたしました、こちらホットコーヒーとアイスカフェオレになります」
あたしが来た途端に、二人はぴたりと会話を止めた。雛鳥のように顔を上げて、静かにあたしを見つめる。
勿論、気にしていない体を装って、あたしはそれぞれの机にマグカップとグラスを置いた。
しみじみしながら置き終わった直後のことだ。
まるで示し合わせたかの如く、二人は机へ視線を落とした。
彼女さんはマグカップを両手で持ち、彼氏さんは開けたストローをグラスに刺す。そして、同じタイミングで飲んだ。ちなみにあたしが飲んだって分かったのは、二人の首の動き。それっぽいのが目の前で見えたのだ。寸分違わず、双子のように。
おお。歓声みたいなものが出そうになった。
なんかすごい。カップルの行動って、ここまでぴったり合うものなんだろうか。あ、もしかして大人同士だから。あたしみたいな高校生の、子供のカップルじゃないから合うものかな。
ほぅ、と二人の口からまたしても同時にため息が出る。ドリンクもご満足頂けたみたい。良かった。
しかし、二人は今のため息を聞いてハッとした顔つきになった。白けた顔をすると頭を動かさず、お互いを疎ましげに見る。
「今のはここのコーヒーが美味しかっただけ。他意は無いから」
「わかってる。しかも、それ俺の台詞。俺だって誰かがいてもいなくても同じことしてたから」
瞬時、彼女さんは彼氏さんへ向いた。
「はぁ?あたしは要らないとでも言いたいのかしら」
「そんなこと一言も言ってない。さっきからずうっとそうだ。一々曲解するのはやめてくれないか」
「そう、否定しないのね。言ってないも何も、そういう意味で言ったのでしょうに」
「違うって言ってるだろ、揚げ足取るのは止してくれ。全く、もう少し淑やかに振る舞えないのか」
彼氏さんは顔を歪ませて、顔を背ける。呆れたように息を吐いた。
彼女さんも彼氏さんが『淑やかに』と言った途端、「私だって」と割り込もうとして、すぐに歯を食いしばった。すっと彼氏さんから目を逸らして、俯いた。泣いているわけでは無さそう。でも、じいっと何かを堪えているような気配がした。
どうしよう。
あたしは汗が背中を伝うのを、しっかりと感じる。
タイミングを逃した。
今すごく、すっごくカウンターに戻りづらい。何か話しかけられたわけでも、板挟みにされたわけでもない。あたしの姿は多分、この二人の視界の端にちょこっとだけしか映ってないと思う。
けれども。
何か音を立てたり仕草や移動といった行動を起こして、二人に存在を認識されるのが良くない。根拠は全くと断言できるレベルで無い、ただの勘。でも非常に不味い気が、凄まじい勢いでする。うう。誰か、誰かあたしをカウンターまで、違和感なく移動させてくれないかな。
目だけを動かす。カウンターでは水野さんがこっちを見守っていた。すると、水野さんとぱっちり視線が合わさる。チャンスだ。助けてくださいと意味を込めて、あたしはばちばち瞬きする。伝われ。
水野さんは目を大きく開けた。顎に手を当てて、何か考えるようなポーズをする。あたしは小躍りした。やったぁ!しかし、水野さんは瞼を閉じて小さく首を振る。もちろんあたしの心は急降下した。なんでよ。
白んだ目線を送っていると、水野さんの口が小さく動いているのが見えた。あたしは目に力を入れた。水野さんは数泊置いて、同じ言葉を繰り返しているようだ。どれどれ、えっと。も、う、す、こ、し、ま、っ、て。
もう少し待って、だ!
理解してすぐ、じわりじわりと口の両端が上がるのを実感する。慌てて、表情を変えないように顔を固めた。良かった。あたし、見捨てられたわけじゃなかったんだ。
そぞろに壁時計を見ながらあたしは考える。もうちょっと、ってことは今は無理ってことだから。チャンスが来るか水野さんが作ってくれるまで、待っててってことだよね。そういうことならあたし、頑張りますッ。
鼻息荒く、あたしは前へ向き直る。
眼前はヘルプコール前と一切変化が無かった。こっちに気が逸れてる雰囲気も無い。付け加えるなら、互いの視線も絡まず方々に、異なる場所へある。
なのに、だ。抜き身の包丁を一斉に突き立てられているような、
というか、今もひしひしと空気感が伝わる。むしろ空気に叩かれている。
やっぱり、今すぐ助けてくれませんか。
唾と一緒に恐ろしさを飲み込んで、あたしは心で懇願した。
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