第15話
鼻息荒く意思を固めたあたしだったけれど。
指南を受ける前から、実のところピークタイムなる時間は過ぎていた。当たり前だ、初心者によるはじめてのサイフォンコーヒーだもん。忙しいときに失敗しちゃったらフォロー大変だもんね。
まぁその。だから今のクロックヴィクトリアンのお客さんの入りは、まちまちの状態で。もっと言えばお客さんは店内にゼロの状況で。
ということで。
あたしの気概はちょっとずつ、ちょっとずつクールダウンしていき。結果的にはコーヒーを作る前と同じように、店番をしていく熱量まで落ち着いた。
つまりは、いつも通り。
こればっかりはしょうがない。お客さんにも都合があるもんね。なんて思いながら、あたしはモップで床を掃除していた。そんな頃合いだった、かもしれない。
誰かの声が聞こえた。すぐさまあたしは顔を上げる。聞いたことがない人の声だった。誰だろう。
周りをぐるぐると見渡してみたけど、誰もいない。最後のお客さんは帰って、数分くらい前から誰も来ていないのだ。当たり前である。
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そう、一人なわけで。
まさか、幽霊。
ふとすればあたしは口元を両手で覆っていた。
あたし、霊感なんてあったかな。無かったはず。毎年テレビでやっている心霊現象24時とか廃病院で撮った写真とかでも、何にも聞こえなかったし見えなかったし。
だけどだけど、確かに今、なんか聞こえちゃったッ。それに今もほら、ずっと、聞こえて。
む。
むむむ?
燦々と窓から差す陽光をバックにあたしはぴたりと固まった。だっておかしいよ、今って真っ昼間じゃん。この声ってホントに幽霊かな。
眉を寄せて再度あたしは耳を澄ませる。声は壁の外から聞こえていた。なら幽霊じゃなさそう。ということは生きている人の声だ、良かったぁ。
だけど、すっごい大きな声だなぁ。
あたしはモップを片付けながら考える。このお店、道路沿いにあるのに静かなんだよね。街頭の光や歩く人の影なら、窓際からちょっと見えるけれど。
例えば車のエンジン音。
或いは行き交う人の足音や犬の鳴き声。
雑踏にありがちな音は店内まで一切届かないのだ。
静かでくつろげる場所にしたい。
そんなことを水野さんが前に言っていたっけ。正に言葉通りだ。
クロックヴィクトリアンは常にゆったりとした空気が詰まっている。耳が拾うのは軽快なオーケストラとコーヒーの淹れる音と、たまに零れるクーラーの稼働音くらい。どんな人でもマイペースにいられるのだ。
だから、今みたいに外からの音がこっちにまで聞こえてくるなんてほぼあり得ない。この前のにわか雨なんかは例外中の例外。記録的なっていうか、今日初めて聞いた。びっくりだ。まだ今も聞こえるし、え。
今も?
あたしは首を傾げる。
そういえばお店の出入り口にどんどん近づいてきているような。何を言っているかまではちんぷんかんぷんだけど。
声は近づくにつれ、勢いもボリュームも大きくなる。あ、これ、女の人と男の人の声だ。高めだから年は近そう、あたしや晃さんくらいかも。と、悠長に考えていたら。
バタンッ。
「ひぇ」
扉が勢いよく開かれた。聞いたこともないくらい大きく鳴るドアノッカーの下で、二人の人影がドスドスと店内に入り込む。
予想通り男女の二人組だ。見たこと無いから、新しいお客さんだろう。いや、あたしは大体見たことない人なんだけど。こんなときに晃さんがいてくれたらなぁ。
女の人は大きめのリボンがついたカンカン帽を被っていた。緩く化粧をした顔の横でセミロングの髪が揺れる。白いレース生地のフレアスリーブブラウスが、膝下の青いスカートに軽く仕舞れてふわふわ、ふわふわ。柔らかそう。
男の人は分厚いショルダーバッグを掛けていた。垂れ目がちな目の近くで短く黒いマッシュヘアがさらさら吹かれている。細身だけど質量のある二頭筋が半袖のシャツの口から、ちらりと覗かせていた。
特筆して美人ではない。けど、ペアでまとめると絵になりそう。
「だーかーらッ、あたしはそれが
「はぁあ?どこがそんなに気に触るとこがあるんだよッ、意味がわかんないよ」
めッッちゃめちゃ、お取り込み中みたいだけどねッ。
顔を合わせていがみ合いつつ、二人はステップを降りていく。二つの声は音楽をかき消し、背後には絶えず雷が落ちている、ような光景を幻視してしまう。
はわわ。あたしは笑顔でレジの前に立ちながら、内心震えていた。絶えずぶつかる剣幕の圧がすごい。バイト中ってことを覚えておかないと潰れちゃいそう。
店内の床に足が着いた頃、二人は同時にあたしへ向いた。
荒ぶる瞳が4つ、バチっとあたしの目を射抜く。ひぇ。背中でぞわりと、生温いものが這ったような感覚がした。
しかし二人は示し合わせたように口を閉じると、ずんずんとあたしの前へ寄っていく。二人三脚みたいにスピードが一緒だ。逆にすごい。あたしと話せる距離まで来た頃には、厳しい表情も少しむすっとした顔つきくらいまでには緩まっていた。
「いらっしゃいませ、ご注文はお決まりでしょうか」
声を震わせないように、すぼめないように。あたしは営業スマイルでメニュー板を出す。おかげさまで二人は差し出されるがままに首を下げた。入店したときが嘘みたいに、騒がず眺めてくれる。
しばらくした後、ほぼ同時に顔を上げた。
「あたしはミドルのホットコーヒーを」
「俺はミディアムのアイスカフェオレで」
言い終わるが否や。
二人は目をいっぱいに開くと、また険しい顔で互いを睨んだ。
わぁあ、ものッすごい剣幕。今にもバチバチと火花が散りそうだ。ううん、もうずっとさっきから散っていたようなものか。嗚呼、折角収まったと思ったのに。
でも。喧嘩が始まったらお店としては困る。あたしは慌てて口を開けた。
「エ、Mサイズのホットコーヒーとアイスカフェオレですねッ。合計で850円になります」
クロックヴィクトリアンは前払い制だ。
レジの前にメニュー看板があり、そこへドリンクやフードの名前と料金が書いてある。お客さんに何を頼むか決めてもらい、オーダーして精算を済ませてから客席でゆっくり楽しんでもらう方針なんだそう。
ちなみに追加で何か飲食したい場合は、再度レジで頼んでもらうシステム。なので各卓上の隅っこには、小さくなったメニュー表が常備されている。
女の人は金額を聞いて、肩にかけていたバッグをいそいそと開ける。ベージュの長財布を取り出したところで、男の人がすっと前に出た。
「はい。まとめてお願いします」
言うが否や。男の人はお金を置くトレー、カルトンの上に千円札をさっと置いた。
おや、おや。カルトンに手を伸ばしつつ、あたしは瞬きをする。
ちょっと意外だった。だって、今も怒っているみたいだったから。怒りに任せて、もっと雑に音を立てて置かれるかな。なんて思っていた。失礼だったかも、ちょっと恥ずかしい。あとはもう1つ──
「ちょっと、何で全部払ってしまうの」
──なんて思っていたら。
目の前で女の人が男の人へ食ってかかっていた。怖い。ついでにお金を回収しようとした手の
ただし。女の人の言ったことはあたしの疑問そのものだった。そう、男の人は女の人の分まで払おうとした。この二人は喧嘩中なのに。そこまでする必要あるかな。
「別に良いだろ。彼女なんだし」
男の人は眉を顰めて、女の人から顔全体を逸らした。吐き捨てるみたいな言い方だ。余程嫌なんだろう。全身から不機嫌さが露呈している。
でもでもッ。今の言葉を聞いたあたしは、心の中で大いに沸き立っていた。
彼氏、彼氏ってことはだよ。この人たち付き合っているんだ。この人たち恋人同士だったんだッ。
すごいすごいッ。
こういうのってカレカノ、カレカノっていうんだよね。人が恋で付き合っている様子なんて初めて見る。だって中学は周りにいなかったし、いても秘密で知らなかったときとかあったし。
大人のカップルって、なんか格好良いんだよね。
しゅっとしてて、きらきらしてて。一組一組が宝石みたいに強く綺麗に輝いて見えるんだ。うふふ。あたしも大人になって彼氏ができたら、きらきらするのかな。格好良くて可愛らしい彼女さんになれるかな。
あれ、でも。
あたしの心は、急速にトーンダウンする。カレカノなら、カップルなら。なんでこんなに空気悪いんだろう。
「彼女とか彼氏とか、そんなの関係ないわよ。あたしのはあたしが持つから」
彼女さんは語気を荒げた。前に出ようとして、彼氏さんを全身で押した。彼氏さんは短く呻く。口をへの字にして、空いている左手で彼女さんを押し返した。
「要らないって言ってるだろ。出てこないでいいってば」
「何それ、ここにいるんだから当たり前よ。本当、勝手が過ぎる」
「勝手も何も、そういうものだって。いい加減引き下がってくれよッ」
ぐいぐいと二人は押し合いへし合いを始めた。
あわわ。結局元通りだ。怖い。あたしは頭を抱えたくなった。
しかもだ。目下、あたしの存在が忘れ去られている。二人はお互いしか見ていない。カルトン前のおしくらまんじゅうに集中しているみたいだ。
どうしよう。あたしは二人をじっと見つめた。
今はお客さんいないけど、この後絶対に来ないなんて言い切れないし。それ以前に、このままずうっと喧嘩されるのも良くないよね。
まずは、この光景を崩さなきゃ。えーいッ、度胸だ。
あたしはくわっと口を開く。
「あのッ。いいい、
言い終わってから、じわじわとあたしの顔は熱くなっていった。
ううう、少し声が震えちゃった。ちょっと恥ずかしい。でも、きちんと言えたぞあたし!すごい!えらい!頑張った!
二人はあたしの声に、はたと動きを止める。ゆるゆるとあたしを見て、それから互いから距離を開けた。見てわかるくらいばつが悪そうだ。つられてあたしもちょっとだけ心がきゅっとした。
彼氏さんは頭を下げてから答える。
「はい。このまま、精算お願いします」
彼氏さんの後に、彼女さんも同じように頭を下げた。良かった。心の中でほっとしてから、あたしは営業スマイルでカルトンを引き寄せた。
「準備が出来次第、お持ちします。お席でお待ちください」
あたしはお釣りを載せたカルトンと札を差し出す。彼女さんが札を持つと、二人はそそくさと客席へ消えていった。あたしも手を洗って、食器棚の方へ足を進めた。
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