白か黒か、それともブラウンか

第14話

 天照らす陽光の栄華、ここに極まれり。


 もうすぐ立秋、という今日この頃。あたしはコーヒーの香りに包まれていた。クロックヴィクリアンのカウンターの前に立つと、机上の敵をギロリと睨む。

 フラスコは白くぼやけていた。爛々らんらんと燃えるアルコールランプの炎が、フラスコの底に当たっている。フラスコ内は過半数を液体が占めており、ぐらぐら、ぐらぐらと煮立たせようと必死だ。お湯を作ってから入れているから、水よりかは簡単だろうけど。



 でも、でもだ。フラスコの表面が湯気で見えないのはいただけない。あたしは更に眉を寄せた。

 沸騰したら漏斗の準備をせねばならないのだ。これじゃあタイミングがわからない。それにフラスコは火に当て過ぎてもいけないらしい。壊れる原因になるとかで。

 だからフラスコが白く曇って中が見えないのは非常に、ひッッじょーッに、困る。困ったところで何も解決しないけどさ。



 どうしようかな。

 あたしはサイフォンを観察した。


 背伸びして上から見たりしゃがんで下から見たり、少し後ろに下がって斜めから見てみたり。フラスコは動かさないように、アルコールランプと火には触れないようにしつつ。


 丸裸にさせるくらいに観察して、重く溜め息をついた。全然、解決策が見つかりませんでした。


 肩を落としていると、後ろから乾いた足音が聞こえた。

「どうかしたの、波須歯はすばさん」

 カウンター奥の控え室を背に水野さんは言う。人の良さそうな顔に疑問符を貼って、あたしを覗く。

 あたしは温め中のサイフォンを示した。


「フラスコが真っ白になっちゃって。沸騰してるかどうかわかんなくなっちゃったんです、どうしたら良いんでしょうか」


「あぁこれね。そういうときはフラスコの底を見てご覧よ、波須歯さん」

「底ですか」




 あたしは首を傾けながら、フラスコの丸い底辺部分を見る。お湯があるエリアは透明なままだった。もちろん水面近くになると白くて中身は見えない。でも遠くから見てもわかるくらいには、くっきり二つに分かれていた。

 水野さんはあたしの隣へゆっくり来る。人差し指の先をくるりと回して、底を示した。


「この辺りに、小さい泡みたいなものがあるだろう?これは気泡でね、出てきた直後に沸騰するってサインなんだ」

「そうなんだぁ。って、えッ、あッ。ででで、でも気泡ならお湯を作ってるときにも出てたんですけど、あれとは違うんですか?」


 はわわ。タ、タメ口で話しちゃった。あたしは焦った。焦った拍子に心の中身をそのまま吐露してしまう。

 ま、まぁ、水野さんは優しいから許してくれると思うけどさ。ここの店長だしあたしよりずっと年上だし、そういうところはあんまり甘えちゃだめだよね。きっと。


 思った通り、水野さん本人は態度も雰囲気も同じだった。むしろ気にしてないって感覚が近いのかもしれない。すっごい、大人だ。

 水野さんは続ける。


「確かに、広く見れば仲間と言えなくもないんだけれどね。最初の気泡は冷水の中にあった空気から出来たもので、沸騰するときに出来る気泡とは別ものなんだよねぇ」




 水野さんはそこまで言うと、サイフォンを見て短く声を上げた。つられてあたしも視線を移せば、フラスコの中のお湯はマグマみたいになっていた。

 やばッ。


「あわわ、波須歯さん波須歯さん、お湯沸いてる沸いてるッ」

「ほほ、ホントですねッ準備します!」

 言いながらあたしは漏斗をセットした。


 瞬間。

 ずごごごと喚きながら、お湯が漏斗へ吸い込まれていく。

 漏斗の蓋を開けると、あたしの周囲を豆の香りが一斉に駆け抜けた。刺すような香ばしい煙の中に、ぱん、ぱん、ぱん。クラッカーみたいにレモンの香りが鳴った。


 はぁ、良い香り。

 思わず浸りそうになって、あたしは首を振った。ここからは時間との勝負なのだ。止まっている場合じゃない。



 漏斗の中は並々ならぬ速さで水位が上昇していた。セットしてからずっと、休むこと無くどんどんお湯を吸いとっているからだ。だから、もうすぐフラスコからお湯が無くなりそうである。

 嗚呼でも、ちょっと面白いや。容器内はあまりにもスピードが速い。まるで動画を早送りしているみたいだ。


 なんて思っていれば、ぴたっと上昇が止まる。そろそろだぞ、頑張れあたし。あたしはセットしていたタイマーのスイッチを押す。そして、傍らに置いていた木ベラを漏斗の中へ突き刺した。




 ぐるぐる、ぐるぐる。


 漏斗内でお湯と粉が溶けていく。

 透明なお湯が黒く鈍く光るように。もっさり沢山あった粉がすっかり減って消えるように。徐々に確かに容器内は変化していく。


 コーヒーの粉の粒々が見えなくなってきたくらいで、タイマーの音が鳴った。あたしはランプの火を消す。ゆっくり水位が下がる漏斗の中、少し冷気が染みるようになった手であたしは混ぜる。


 液体の表面に、白っぽい泡が大量に出来る頃。漏斗の中は空っぽになった。フラスコを見れば黒くて煌めくコーヒーが、香りを放っている。量はなんとなくだけど、最初に入れたお湯と同じくらい。ということは、完成。


 や、やった。

 あたし、一人で最後まで出来たんだ。




 脱力するあたしの横から水野さんの腕が伸びる。真面目な顔でフラスコを取ると、小さいカップへ少しだけコーヒーを注ぐ。そのまま水野さんは飲んだ。


 自然と、あたしの木ベラを掴む力が強くなる。忘れていた。コーヒーは味が肝心だった。

 ど、どうかな。上手く出来ているのかな。

 時計の針の音が、ずっと遠くから来ているみたいに聞こえてくる。あたしは水野さんの様子を見ていた。暫くして、水野さんは静かにあたしへ向く。



「うん、ばっちり。美味しく出来てるよ、波須歯さん」


 そしてにっこりと笑った。

 よ、良かったぁ。今度こそほっとして、あたしは大きく息を漏らした。

「良かったです。フラスコがぐつぐつしてたときはどうなるかと思いました」


「あぁ、大丈夫大丈夫。あれより激しく煮立つと不味いことになるけど、ギリギリ許容範囲だったよ」

 水野さんは軽快に笑った。


 そうなんだ。あたしは深く呼吸しながら頷く。

 コーヒーを淹れるのって奥が深い。ちょっと過ぎただけでも大惨事なんて。次は気をつけよう。フラスコが曇ったときは、底にある気泡を見るんだよね。


 あ、そうじゃん。

 あたしは水野さんに問た。

「あのぅ。さっきの続きって教えていただけたり、しますか」

「え?あぁ、そういえば気泡の話が途中だったね。良いよ良いよ、お答えしようか」




 水野さんは鷹揚に頷く。

 しかし、突然ぴたりと止まった。


 口は半開きにしたまま。表情も一緒に固まってしまった。「あのぅ」と、あたしが軽く声をかけてみてもダメだった。変わらない。いきなりどうしたんだろう水野さん。


 あたしは木ベラを置いた。水野さんの様子が変わる瞬間をじっと待った。

 すると、耳はこんな音を拾った。


「そ……えば……たし……さっきギリギリだったときって僕が話しかけちゃったときだし、もしかして波須歯さんが危うかったのって僕の所為なんじゃ……あっ僕はまた…あぁ」



 あたしは聞かなかったことにした。





 しばらくしてから。フリーズの溶けた水野さんは口を開く。

「お湯が沸騰すると水蒸気になることは知っているよね」

「はい。液体から気体になるんですよね、学校で習いました」


 答えつつ、ほわんほわんとあたしは理科の実験を頭に浮かべる。イメージの中では、網の上のビーカーが三脚の下のアルコールランプで温められていた。

 わかった。この映像、小学校二年生でやったときの実験だ。楽しかったけれどマッチが上手く付かなくて苦戦したのをよく、よぉく覚えている。意外と漫画みたいには出来ないんだよね。ささっとやるには特殊な訓練がいるんだろう。きっと。


 ちなみにこのお店はライターで火をつけている。めちゃめちゃ簡単でした。



 水野さんはシンクの蛇口を一瞥した。

「お湯に始まったことではないんだけれど、水って色んなものが含まれているんだ。例えばカルキ、いや、今の子は塩素って言うんだっけ。塩素とか窒素とか、あとは酸素とかね」


「へぇえ。あれ、でもなんか聞いたことあるような」

「あぁそうか、波須歯さんはまだ高校生だったね」

 ならもう習ってたかな。言いながら水野さんは微笑んだ。


「ま、そんなわけで水には色々な気体が含まれているんだけど、何がどれくらい溶けてるかなんて見えないよね。それらは液体の水の中にいるから見えないんだけど、水を温めてお湯にしていけば、波須歯さんはどうなると思う?」




 水野さんの言葉に、あたしは腕を組んでみる。

 えっと、水をお湯にするんだよね。温めると液体は気体になるんだから、結果的に水の量は減っちゃうじゃん。

 でも温めているのは水で塩素とかには何もしてないから、塩素とかの量って変わらないんじゃないのかな。


 あッ。

 あたしは顔を上げた。


「気体の溶ける場所が少なくなりますッ、だからお湯を作るときは気体も水からいなくなっていくんですね」

「うんうん、大体そんな感じかな」

「やったぁッ」


 両手であたしはガッツポーズした。実験では活躍できてもテストになると、あたしは平均を彷徨さまよう羽目になりがちだ。だから今みたいに褒められることはあんまり無いし、嬉しい。

 水野さんもにこにこしながら解説を続けた。


「水に熱を加えてお湯にするときは、溶けている気体も熱によって力が溜まっていくから、自分から揮発していくんだよね。お湯を作るとき、全く沸騰しそうにないのに気泡が出来るのは、その揮発の所為だよ」

「そうだったんですね」




 あたしはサイフォンを見る。さっき水野さんが手にしたフラスコは、いつの間にか定位置にいた。


 中では黒々としたコーヒーがいた。水面は照明の光を纏って揺蕩たゆたいつついる。あのコーヒーの中にも、目に見えない何かが沢山いるのかな。いるのかも。


 水野さんにべこりと頭を下げた。

「水野さん、ありがとうございました。また次に作るとき、頑張ってみます」

「うんうん、よろしくね波須歯さん。コーヒー美味しくできてたから、この調子で頑張って」


 水野さんはそう言うと、笑ってグッドサインをしてくれた。あたしは元気に答える。つい嬉しくて、またしても両手でガッツポーズを作っていた。


 あたしは褒められるとすっごくやる気が出るのだ。ふふん。そうよ、あたしは単純だよ。単純で何が悪い、むしろ単純上等でしょ。

 よぉし、他の仕事も頑張るぞッ。

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