第13話

 あたしの視線に女の人はぼんやりするのを止めた。

 ゆっくりと自分の頬に手を当てて、ぱ、と目を開く。


「あ、あれ。どうして、私」

 困惑した声をあげて、目尻を強く擦った。それでも女の人の涙は止まらない。決壊したダムのように、涙は頬を伝い机に染みを作っていく。弾かれたように、女の人はあたしを見た。みるみると顔が林檎みたいに染まる。


「あっえっ、あの、あのッ。こここれはちが、違います、違いますッ。かな、悲しいのではないのです、泣きたいわけではないのです」

「え、は、はい」


 そう女の人は言ってあたしから顔をそらす。目元をごしごしと擦っている。目の下の蒼白い隈と擦りすぎて赤くなってきた目尻がランプの光に当たる。女の人の急な変化にどうすればいいかわからなくて、言われるままにあたしはこくこく頷いた。

 酷く慌てて女の人は言う。



「すみません、取り乱してしまって」

「いえッ、全然です。泣いてもいいじゃないですか、それくらいしても良い話ですよこれ」

「そう、なんでしょうか」


 女の人はもごもごと口をわななかせる。窓へ壁へ天井へと視線を動かし、再び机上へ向けた。

「あれからずっと、仕事をしていても身が入らなくて。上司に怒られたり、先輩や同僚に心配されたり。ひたすら辛くてやめたくて、何もかも全部捨てて壊して逃げたくて。消えたくてどうしようもなくなって」


「そう、だったんですか。お仕事、続けていらっしゃるんですね」

 あたしの問いかけに、そのままの姿勢で女の人は肯定した。



 女の人の様子に、あたしの胸の奥へ一つの疑問が落ちてきた。それはじわりじわりと心に根を張り、巣くっていく。


 あたしは緩く唇を食んだ。これは、この疑問は言うべきなのかな。でも、言ってしまったら更に傷つけてしまうかもしれない。それは嫌だ。あたしはこの人に傷ついて欲しいわけじゃない。どうしよう。こんなとき、あきらさんならどうするんだろう。


 浮かんだ脳内映像は、初めて会ったあの日を映していた。過去の晃さんは、あたしの言葉を全部聞いて、あたしの顔を見て、それから何を言うか考えていた。


 いや、違う。顔だけじゃない。あたしは記憶の中の晃さんをじっくり回顧する。そうだ。思えば、あたしという存在全てを見ていたような気がする。あたしの仕草や視線、醸す雰囲気を視て、どんな言葉をかけるか考えてくれていたんだ。



 あたしは女の人へ目を向ける。女の人はあたしを不安げに見ていた。女の人からしてみればいきなり黙り込んだようなものだもんね。仕方ない。だけど、ぼんやりとランプを見つめていたときより、一緒の場所で生きている感じがした。よし。あたしは女の人へ口を開く。


「辛いのって、それは今もですか」

「はい。そうです、ね」

「やめたいって気持ちもですか」

「はい」


「じゃあ、本当にお仕事をやめないのは、どうしてですか」





 女の人の顔が驚きに染まる。

 口元に手を当てて、あちこちへ視線を忙しなく動かした。


「なんで、でしょうね。わわ、私にもわからないです」

 なんでだろうと女の人は繰り返す。わからない。その言葉があたしの口の中でも反芻する。やっぱり、そうなんだ。そう思うのと同時に、心を絡む根っ子が塵芥になっていくのを感じた。


 この人が体験したことは、すごく残酷なことだ。

 ずっと目指していた目的を、すごく自分本位な理由ですごく理不尽な行為で滅茶苦茶にされる。それはきっと、ものすごく辛いことだ。


 あたしには夢なんて立派な意志はない。だから想像しかできない。

 だけど女の人が受けたことが、耐えきれないくらい壮絶で惨たらしい体験なんだろうということは察知できる。


 例えば、夢を諦めて、歩くのを止めてしまうくらいには。



 なのにどうだろう。

 この人は残酷な経験をしたのにも関わらず、デザイナーの仕事をやめない。


 しかもどうしてか、って聞いたときに女の人は返事に窮した。お給料が無くなるから生活費が無くなるだとかすぐやめたら人目が気になるとか、あり得そうな理由は沢山あるのに。理由すら自分で見つかっていないのだ。

 だったらやめない理由はきっと、これしかない。



 あたしは続ける。

「デザイナーのお仕事は好きですか」

「はい、だ、大好きです」

「なんで大好きなんですか」


「そそそ、それはですねッ。いっぱい、いっぱいありますッ」

 女の人は勢いよく顔をあたしへ向ける。最大限に開かれた瞳は、酷く透明だった。


「まず自分のデザインが形になったときは、やり遂げた達成感や自分の考えを形に出来た嬉しさがあります!次は私の作品を見てもらったり、他の人の作品を拝見したりしたときですね。こんなときって、これが私だよって分かってもらえる機会ですし、同じ趣味の仲間を見つけることができるチャンスなんです!それに他の人にもっと自分の作品を良くするヒントを貰えたり、他の人の作品を通して新しい世界を知れたりするのが、とてもとても楽しいんですよッ。あとはですね、あと、は」


 そこまで言うと、女の人は固まる。さっきとは違う理由で赤い顔のまま、声の出ない口をはくはくと動かす。沢山瞬きを繰り返していた。しばらくして、女の人は動きを止める。半開きの口から「あぁ」と落ち着いた声が漏れた。


「そっか、そうなんだ。私、私、まだ好きだったんだ。好きでいられたんだ」

 岩に染み入るような響きだった。胸に手を当てて、女の人は瞼を閉じる。雫が一つ、ほろりと机上へ零れていった。


 女の人がデザイナーをやめない理由。それは、デザイナーの仕事が好きだから。デザイナーの仕事を続けていきたいから。夢はいつの間にか、現として女の人の傍にいたのだ。



「まだ好きなら、続けたいって思ってくれているのなら。あたしは続けてほしいって思います、すごく身勝手なお話だと思いますけど」


 あたしは優しく言った。

 正直、外野でしかないのに何言ってんのって感じだけど。でも、この人には頑張って欲しい。デザイナーとして報われて欲しいって強く思えたのだ。

 女の人は首を振りつつ、涙を拭う。


「そんなことないです、絶対ないです。嬉しいです、とても、とても嬉しい、です」

 そして、「ありがとうございます」と笑った。泣きはらした目に青々とした隈。真っ赤な顔に添えられた爪の痕が残る手。すごく不格好な笑顔だ。


 だけど、どこかほっとできる、とても大好きな笑顔だった。





 からんからんとドアノッカーが鳴る。女の人は帰っていった。「行かなきゃいけないところがあるので」と、晴れ晴れとした顔でドアの向こうへ消えていった。机を拭き、マグカップとタオルを持ってあたしはカウンターへ向かう。いつかまた、あの女の人が笑って来てくれると良いなと思いながら。


 マグカップを洗っていると、待合室の方から足音がした。

 思わずあたしは顔を向ける。

「いつの間にかいなくなっていたからびっくりしましたよ、晃さん」


「うん。ちょっと裏で用があって。一人にしててごめん」

 晃さんは店内を眺めつつ告げる。表情はやはりというかなんというか、無に近い澄まし顔で固定されていた。むむむ、晃さんってば本気で謝るつもり無いでしょ。

 あたしはそっぽを向いた。


「別にぃ、晃さんがいない間はいっぱいお客さん来たわけじゃないのでぇ。大丈夫でしたけどッ」

「そう、なら良かった」

 こともなげに晃さんは頷いた。


 ぐぬぬ、やっぱり口だけじゃないか。

 あたしはマグカップを拭きながら頬を膨らませる。まぁ、晃さんのことだから、言葉通り何か向こうでお仕事していたんでしょうけど。サボっていたわけじゃないんでしょうけどねッ。



「で。どうだった、あのお客さん」

「ん?あのお客さんって、さっきの女の人ですよね」

 あたしの言葉に晃さんは短く肯定する。それからハッとした。今日は晃さんへ口を聞かないつもりだったのに。常識的な対応をしちゃった。


 ぐぅッ。本当に意志が弱いなぁあたし。気分の持ち方だけでも晃さんを追い越したいのに。こんなことで勝てるようになるんだろうか。とはいえ、あたしが決意してから喋ってしまったのは変わらない。引き下がれなくなってしまった。悔しい。

 渋々と、あたしは言葉を続けた。


「先程帰られましたよ、行くところがあるって」

「そう」

 またもや短く答えて晃さんは黙り込む。えぇ。あたしはため息をつきたくなった。リアクション薄くないかな。そっちが聞いてきたのに。


 カップをしまうのと同時に晃さんを見る。晃さんは出入り口を見ていた。ふざけているようには一切思えなかった。それを見たら、胸の中のもやもやが消えていった。

「夢があって、でもそんなに順調ではなかったみたいです」


 あたしは晃さんにそんなことを言っていた。「そう」と晃さんは相槌を打つ。

「夢は叶えるのが大変だ。あのお客さんのような種類の夢は、特に」


 あたしは静かに頷いた。夢は叶えられないから夢、なんて言葉もあるくらいだもの。簡単にはいかないと思う。抱くだけでも難しいのに、実現させるのは更に困難だなんて。生きるのも楽じゃないんだなぁ。



 晃さんは「でも」と呟く。透き通る瞳があたしを映した。

「叶うと良いね。きちんとした人なら、尚更」

「はい、はいッ。すごい人なので、きっと叶えられると思いますッ」

「へぇ、そうなんだ。どういう風にすごい人なの」


 晃さんは首を傾げる。ふふんとあたしは鼻を鳴らした。早く教えてあげたい、そんな気持ちがどんどん沸いてきて止まらない。それが嬉しくてたまらなかった。どう伝えようかな。何て言えばわかってくれるだろう。


「あのですね――」

 わくわくしながら、あたしは口を開いた。



 窓からは柔らかな陽光が燦々と注いでいた。

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