第10話

 はてはて。

 何をしようかなと、歩きながらあたしは考える。暇なのだ、丁度お客さんがいなくなったから。最後のお客さんの後片付けはやっちゃったし、掃除もしたし。本当にやることがない。こんなに暇で良いのかな。


 ーー珈琲の淹れ方を教えられるかもしれないな。




 あっ。

 今日聞いたばかりのハイトーンボイスが頭の中で反響した。やることあったじゃんッ。


 あたしは冷蔵庫の左横へ近寄る。両扉の棚には様々な食具が収納されていた。いつも洗ったお皿をしまっているだけに、愛着も湧いてきた場所でもある。


 ただし今回のお目当ては中段にあるマグカップ。大きさは違えどデザインが同じなので、見分けがつかないのである。というのもあたしは、中サイズのマグカップしか扱ったことがない。しかも配膳と洗浄のときだけ。

 だから仕舞う場所なら完璧にわかるけど、こう並べられるとちんぷんかんぷんなのだ。


 扉のガラスからあたしは内側を観察する。

 同じ造形のマグカップは口を塞ぐように収められていた。


 むむ、むむ、やっぱり全部同じに思える。戸棚から出して並べても、ぱっと見同じ大きさに見えるんだよね。把手とかになんか見分けるポイントないかなぁ。例えばプラスチック部分の色が違うとかね。みんな同じ色だからその方法は使えないけど。ぐぬぬ。ここは、一番小さいサイズと大きいサイズを覚えるしかないか。



 扉越しに格闘していると、入り口の方向で軽快な鐘の音がした。びく、と心臓が飛び上がって一気に縮んだ。気がした。

 やばッ、お客さんが来たッ。お仕事しないと。よぉし笑顔笑顔。あたしやればできる子。頑張るぞ。


 あたしは振り向く。

「いらっしゃいませ、クロック=ヴィクトリアンへようこそ!」

 そして、そのままぴしりと固まった。


 入り口のマットレスには、ロングヘアの女性がずぶ濡れで立っていたからだ。






「どうぞ。ホットラテです」

「あ、ありがとうございます」

 あたしはことりと女の人の斜め右にマグカップを置く。女の人はマグカップを一瞥すると、上目遣いでぎこちなく会釈した。


 あの直後、あたしと女の人は目が合った。すると女の人はびくりと全身を震わせて、あわあわとこちらへ来ようと一歩を踏み出し。

 盛大にずっこけてしまった。


 居た堪れなくなって、大丈夫ですかという声と共にあたしは駆け寄り、あれよあれよと客席までご案内して、現在いまに至る。



 晃さんへ相談して貸し出したタオルを肩に掛けて、女の人はおそるおそる両手を伸ばす。ふぅふぅと幾度も息を出して、ちびりと中身を含めれば瞳が丸く煌めいた。

「美味しい」

「ありがとうございます!」


 あたしの言葉に女の人はびくりと背を伸ばした。その拍子に手の中のマグカップが少し下へずれたようで、「あぁあッ」と女の人は弱々しく叫んだ。


 熱々なマグカップを、全身を使って抱え込む。お陰で、マグカップはテーブルに落ちなかった。功を奏したのかもしれない、抱え込んだ直後に彼女の目尻がランプの光にきらりと反射したことを除けば。


 はわわ。

 たらぁ、とあたしは背中に一滴、汗が落ちていったのを知った。

 も、もしかして、あたし何かやっちゃったかも。いや、絶対にやっちゃった。だって今の言葉、絶対独り言だもん。なのに反応してお客さんを驚かせるなんて。ダメじゃんあたし。




「す、すみませんッ。大丈夫ですかッ」

 慌てたあたしは女の人の横から声をかけた。なんとなーく火傷とかは無さそう。


 でも絶対、あの瞬間は熱かったはずだ。あたしは心の中でしみじみした。

 だって手元にあるのは熱々ホットラテのマグカップ。誰だってそう感じる、あたしならそう感じる。いや、一度やった。そう、あたしは一度やった。



 ぶんぶん。音が鳴るくらい女の人は頷く。

「は、はいぃ。わ、私は大丈夫ですッ。それに、それに、か、カップも無事ですよッ。お、落としそうになってしまいすみませんでしたッ」


「いえいえッ。こちらこそ驚かせてしまってすみませんでした、お怪我がなくて良かったです」

 女の人に釣られてあたしもぺこぺこ頭を下げた。あっと思ったけど、申し訳ない気持ちは本物。あたしは止めるのをやめた。女の人はといえば、今度はあわあわして両手を顔の前で降っている。


「そんな、そんなことないです。私の独り言が大きくて、だから、すみません」

「そんなことないですよ!あたしも、勝手にお客様のパーソナルスペースに入ってしまってすみませんでした」

「いえ私こそ」

「いやあたしが」


 そこまで言っていたとき、あたしと女の人の顔がばちりと合った。立つ者と座る者、更にお互いにすみませんすみませんとぺこぺこしていたこともあって、あたしたち二人は視線すら絡まなかった。

 それが今、正面衝突してみれば、ぴたりと言葉が止んだ。




 女の人は呆けているようだった。隈のある細い目は一杯に開かれ、黒目はあたしだけを映している。微かに紫色の残る唇はあんぐりと空いていて、閉じる様子は無い。タオルで拭いた髪は未だ水気を含んでいて、紙のように白い肌にぺたりと付いて雫を垂らしていた。


 そんな女の人を見ていたら段々と、あたしの胸の奥からは何か熱いものが競り上がってきた。どんどんと強くなる其れは、強くなったら死んでしまうとかそんな悲観的で深刻なものでは無い。


 けれど、表現するのはちょっと恥ずかしいし後ろめたいので、あたしは堪える。そう、あたしは耐えている、耐えてはいるのだ。でも其れは、あたしの想像よりずっと強くて、ぐんぐんと強く大きくなって止まらない。

 あっ、もうダメ。そう思った瞬間、小さく息が溢れた。


「「ぶふっ、あっはははッ」」


 ほぼ同時だった。あたしたちはお腹を抱える。あぁダメ、止まらない。笑ってはいけないのに、おかしくておかしくて笑わずにはいられない。楽しいことのはずがないのに、楽しくて楽しくて仕様がない。肩を震わせ口に手を当て、出てきた涙を拭う。数分の間は笑い上戸しかいなかった。




 ひぃひぃと満身創痍で呼吸を整えて、あたしは言う。

「じゃ、じゃあお互いにダメだったということで」

「そ、そうですね。両成敗で」


 こくこくと女の人は頷くと、気が抜けたように微笑んだ。その表情を見ると、とても息がしやすくなった。まるで、低反発クッションに身体を埋めているような、そんな気分になる。あたしもつられて口角が上がった。


 女の人はカフェラテを飲む。今度はすんなりとマグカップを傾けていた。

「やっぱり、ここの珈琲は美味しいですね。飲みやすいです」

「ですよねですよねッ。ここのおみ、いえ当店のコーヒーはサイフォンで作っているので一味違うんですよ」


 ふふんと鼻を鳴らす。褒められたのが嬉しい。何故ならあたしもこのお店のコーヒーは大好きなのだ。最初に水野さんに淹れてもらったコーヒーを飲んで、あたしは晃あきらさんとあんな話ができた。そしてアルバイトの話を聞いて、働きたいと強く望めた。コーヒーのお陰で今があるようなものだ。コーヒー様々である。




 女の人もそうなんですね、と微笑を深くする。かと思ったら、「まぁ」と開いた口に手を添えた。

「このお店ってさささ、サイフォンで作られているんですか。私、エスプレッソとか、もっと別のものだと思ってました」


「え。はい、サイフォンですよ。ほら、あそこにありますよね」

 あたしはカウンターを指差す。カウンターの上にはあのアンティークじみたサイフォンがあった。ついでにその奥には、カウンターテーブルを拭く晃さんもいた。女の人は吐息を漏らした。


「すごいですね。サイフォンってあ、あんまり良い話を聞かなかったので。びっくり、しました」

「え、そうなんですか」

「は、はい。し、失礼なんですが、サイフォンで作った珈琲はすごく苦くて癖が強くて不味いって話で」


 へぇえ。

 女の人をガン見して頷く。そんな噂があったんだ。あたし、このお店コーヒーを飲むまで全然興味なかったもんなぁ。知らなかった。


 あ、言われてみれば。晃さんの言葉があたしの脳裏に浮かぶ。そんなに簡単な作業じゃないって言っていたような。言っていたよね。

 ササッと作っていた晃さんの姿を目の前に浮かべた。実感は浮かばなかった。むむ、美味しく作るって難しいんだなぁ。


 すると、女の人はあわあわと自分の顔の前で両手を交差させる。

「でで、でも、ここの珈琲は飲みやすい癖の強さですし、じわじわ浸透する苦さなので美味しい、と思いますよッ」

「え、あ、はいッ。ありがとうございます」



 あたしの言葉に女の人は安心したような顔をした。両手は机上のマグカップを包んでいた。ありゃりゃ。考えてたら気をつかわせちゃったみたい。


 怒ったり悲しくなったりしたわけじゃないんですよ。

 なんて言おうとして、止める。ここで謝っても、また謝罪合戦に戻る予感がしたからだ。戻るのはちょっと、嫌だな。

 反省だけはしておこうっと。

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