その煌めきは透いて明るい

第9話

 7月の終わりが見えてきた今日この頃。

 あたし、波須羽はすば澪羅れいらは本日もクロックヴィクトリアンでアルバイトに勤しんでいる。そして今あたしがいるのは化粧室、つまりトイレだ。もちろん休憩のためではなく、お仕事として。


 あたしは手を軽く洗うと、右手をサロンのポケットに突っ込む。わさわさ布の擦れる音が鳴ったかと思えば、すぐに消音した。その静寂の中だ。

 かちり。

 右手を入れたポケットの中で小さい音が鳴る。あたしは右手を引き上げた。


 右手の場所にはーーボールペンを握る手があった。



 あたしは大量に息を吐く。

「最終確認、します!」

 言い終わるが否や、あたしはドア近くのトイレの壁に向き直る。ドアの真横にあるその壁には、ある一枚の紙が貼られていた。その紙を印刷された綺麗な升目に沿って、あたしは手早くレ点を描く。


「床掃除は、した。鏡も便器もやった。壁は今回は無し。トイレットペーパーもアメニティもゴミ箱も確認しました、っと。ハンドソープとペーパータオルは、3分の1になっていたから補充したし。良し、完了完了ッ」


 あたしは腕組みをして頷く。ボールペンを離した紙の上では、一列がレ点で埋まっていた。一番左に片仮名の苗字を書くと、あたしは悠々とトイレから出て行った。



「随分と賑やかな最後だったね」

「わぁあッ」

 掃除用具を片付けて手を洗い、サロンを前掛けに付け替えてホールへ戻る。カウンターにいる晃さんが珍しい動物を見る顔をしていた。

 あたしは黙ってスイングドアから作業スペースに入る。途端にスイッチが入ったみたいに、わなわなと身体が震えた。


「き、き、きッ。聞こえてたんですかッ、あれでも小さい声だったのに」

「それがどうかしたの。聞こえてなかったら言っていないよ」


 耳打ちするみたいにこそこそし始めたあたしを、晃さんは怪訝に見つめた。いや、まぁ、そりゃあ、晃さんのおっしゃる通りなんですけどねッ。


 そう。勢いだけなら叫び声レベルのものだったけど、あたしは本当に小声で点検をしていたのだ。どれくらいかって言えば、喋っているあたしがギリギリ聞こえるか聞こえないかくらい。


 ぐぬぬと内心唸っているあたしを気にしないで、晃さんは宙を見ていた。方向から考えてトイレだろう。なんて思っていたら晃さんは、ふ、と軽く息をついた。


「うん、まぁ。終わって何より、お疲れ様」

「はい、ありがとうございます!バッチリですよ」

 そう、とだけ言えば晃さんは時計へ目を向ける。つられてあたしも時計を見た。


 時間は15分を過ぎたところ。時計の1と2の間のときにトイレに入ったから、良い感じのタイムだ。

「かかる時間も短くなってきたし、うん。良いんじゃないかな」

「やった!」

 あたしは勢いよく万歳した。




 晃さんの言葉はいつも直接的で飾り気がない。ただただ真実のみを伝えてくれているから。怒られたときとかはかなりぐさっとくるけど、同じくらいやらかしたときもわかりやすく言ってくれるのだ。


 一体全体、自分のやり方でどこが良くてどこが悪かったのか。これが非常に見直しやすいし改善しやすい。何なら晃さんはアドバイスもくれる。これにはあんまり頭が良くないあたしも、すっごく有り難いとわかった。

 尤も、最初のときは虚を突かれまくりで毎回頭が漂白されていたけれど。この事実は絶対に秘密にしておこう。恥ずかしいもんね。

 

 そして。今みたいに、褒めてくれるときはストレートに褒めてくれる。だから晃さんに褒められるとあたしはすごく嬉しい。その言葉が本心だってひしひしと伝わってくるから。

 え。美人でそつがないって何ですか神ですか。


 晃さんはサイフォンへ目を流す。

「これなら次の次くらいには、珈琲の淹れ方を教えられるかもしれないな」

「本当ですか!?わーいッ」

「ふぅん。そう、そこで喜ぶんだ」

「えっ」



 大きく肩が跳ねる。弾かれたように晃さんを見た。な、何、どうしてそんな言葉を言うの。あたしはさっき言われて嬉しかったし、普通喜ぶべきところだよね。そうでしょ。晃さんは音が鳴りそうな睫毛を瞬かせた。


「君、今のところ洗い物しかキッチンの仕事やっていないのに、いきなりドリンクを作るんだよ。確かにサイフォンはエスプレッソより淹れる技術が要らないけれど、一筋縄に行くほど簡単でもない」


 それに。

 言葉を切って晃さんはカウンターを見る。視線の先にはカウンターのサイフォンメーカー。電光で金色に照り返すメーカーは卓上にどかりと座している。

 晃さんは続けた。


「うちの珈琲メーカーは特に凝った作りをしているから、扱いも一苦労だ。ねぇ。珈琲の淹れ方を覚えるってことは、準備から片付けまでできるようになるって意味になるけれど。どう、覚えられる?」

「ひぇ。そ、それはそうですけど」



 つつつとあたしは後ろに下がる。

 確かにその通りだ。自然とカウンターの木目に視線が吸い寄せられた。


 実のところ、未だにあたしは食器の種類すら覚えきれてない。

 しまう場所はメモを大丈夫になってきたけど、大きいサイズのときのマグカップとかどれを使えばいいかがうろ覚えだもんね。うう、晃さんがまともに見れない。あたしはカウンターの端っこで小さくなった。


 小さくも軽やかに、息が漏れる音がした。顔を上げると、晃さんが自らの口元に緩く右手を当てていた。

「ごめん、冗談。少しからかっただけ」


 言い終えると晃さんはあたしから目を逸らす。覆いの取れた口元は一の字だったけど、目元は下がっている。というか、えッッ、冗談だったの。

「ちょ、ちょっとッ。もう、冗談だったんですか、酷いですよッ」

「ごめんって。まぁ、君まだアルバイト始めて2、3週間でしょう?しかも初めてのアルバイトなのに、そんな期間で仕事を全部完璧に覚えてできるわけがないだろう」


 え。

 突き上げた拳が固まる。これ、晃さん、あたしのこと褒めてくれている?褒めているよね、そうだよね。まさか褒められるとは思ってなかった。やだ、どうしよう、どう反応すれば良いんだろう。あたしは腹の位置まで下がっていた手を胸で組み換える。熱くなってきた頬が堪えられなくて、客席へ目を向けた。



 「つまり」と晃さんは前置きをした。

「気負わなくて良いよ、って言いたかっただけ。まぁ君は元々やる気だったし、少しずつだけどきちんと出来上がってきているから心配してはいないかな。覚える作業が増えることは本当だから、そこは仕方ないけれど」

「は、はいッ」


「いずれは覚えることだったから、それが少し早まっただけって話。少しずつ教えていくつもりだけど、きっちり詰めていくからよろしく」


 晃さんはゆったりと目尻を緩めた。目の奥は澄んでいて、鮮やかな茶色がしっかりと浮かんでいる。睫毛の影が瞳に降りて、静かに熱を帯びている様は艶やかで心がぐらぐらする。晃さんの頭に当たるランプの光が、重力みたいに有無を言わせない雰囲気を一層漂わせている。


 まさに一種の絵画の如き立ち姿。あたしはほぅ、と息を漏らした。


 やはり晃さんは神だった。それもちょっと悪魔に近い神だった。




**** *****



 それから少し経っただろうか。

 直後に来店したお客さんが帰り、マグカップを回収して机を拭いていたときのことだ。


 バシャバシャバシャバシャッッ。


 窓の方からけたたましく、何かを打ち付ける音が轟いた。

「わぁあ、何よ何よ何よッ」

 あたしは飛び上がった。思わず窓へ顔を向ける。窓ガラスは亀裂一つなく、当然のようにそこへ居た。


 そうだった。あたしはハッとする。うちのお店は曇りガラスだから、見ても外の様子なんてわかんないや。焦ってすっかり忘れていた。ばーかばーか、あたしのばーか。


 あたしは布巾を畳んで、前掛けのポケットにしまう。それからそぉっと店内を見た。

 現在お店にはお客さんはいなかった。つまり、今まさに拭き終えたテーブルの主が最後のお客さんだった。良かったぁ。さっきの叫び声、聞かれていなくて。あたしは胸を撫で下ろす。



 ゆったりとした足取りで窓へ近づく。やはり窓ガラスを見ると傷一つない。さっきの音は、ヤンキーが窓を蹴ったとかバットで殴ったとかじゃなさそうだ。良かった。でも、それなら何だろう。


 耳を澄ませるまでもなく、奇怪な音は続いていた。心なしかさっきよりボリュームダウンしているけれど、止む気配はしない。窓の外を見ると少し薄暗かった。丁度太陽が雲に隠れているんだろう。夏特有の鋭利な熱光線も緞帳どんちょうじみたシルエットも見当たらない。



 どうやら風も強いみたい。

 ばたはたと揺れて、今にも飛んでいきそうな街路樹の枝枝へ目を向ける。勿論、曇りガラス越しではよく見えないから、これは殆どあたしの妄想。でも何となくそうっぽい。


 ふと、ヘドバンしてるギタリストが脳内に浮かんだ。きっと今、外はロックフェスが始まったんだ。そう思うと楽しい気持ちがぐんぐんと湧いてきた。


 ロックフェス、ロックフェスかぁ。あたしはテレビのエンタメニュースを回顧する。そういえば、ロックフェスって夏に海の近くでやるんだよね。湘南とかみたいなワイワイしたところで。

 半袖シャツにショートパンツを着て、肩にはフェスで買ったフェイスタオルをかけて、スポドリ片手に会場のみんなと一体になって。ふふん。楽しそう、良いなぁロックフェス。いつか行ってみたい。



 あれ?


 あたしは窓の外をもう一度見た。外の風景は変わっていない。街路樹の枝や葉っぱの形が見えるのもそのまんまだ。そう、そのままなのである。


 曇りガラスはざらざらしていて、すごく不透明だ。店の窓があたしの背丈以上の大きさをしているのに、外から店内が丸裸にならないのもそのお陰である。だけど曇りガラスは、水に濡れると透過性が上がる。

 つまり、隔てた向こう側がよく見えるようになってしまうのだ。


 まぁ普通の窓ガラスみたいに、百パーセント見えるってわけじゃないんだけど。このお店の窓だって、ちょっと輪郭がぼやけて浮かんでくる程度だし。カメラのピンぼけみたいにね。


 え、じゃあ、この音って。

「雨が、降ってるの」



「にわか雨だね」

「ひぇッ」

 透いたテノールが耳に触れて、またしてもあたしは飛んだ。振り返れば、茫洋ぼうようとした顔で晃さんはいた。声はすごい近くから聞こえた気がしたけど、彼がいたのは二三歩後ろだった。び、びっくりした。


 あたしは両手で心臓の位置を抑える。心拍が止まるかと思った。っていうか、息が苦しい。これ、ホントに息止まっていたでしょあたし。死ぬじゃん。


 ばくばく心音をたてながら、あたしは晃さんを注視した。

「お、驚かさないでくださいよ。何事かと思ったじゃないですか」


「何事かなんてこっちの台詞だよ。短く叫んだかと思えば窓の席に近づいて、ずっと外を見ているんだから。何がしたかったの君」

「全部見てたんですか!?」

「そうでもないよ。調理台の掃除とか備品の詰め替えとかしていたからね」

「すみません……」



 うう。

 忙しかったと言われたみたいだった。言葉に出来なくてあたしは目を逸らす。察するに、晃さんは心配して来てくれたらしい。あたしってば、すっごい自意識過剰。あぁ恥ずかしい。


 しかも今、第三者あきらさんの口で聞いて思った。あたし、すごく不審者じゃん。お店の制服に身を包んでいなかったら、ただの変な人だ。間違いなく通報案件である。あたしならそうする。


「大丈夫だよ、何もなかったみたいだから。お客さんいなかったし」

 晃さんはあたしを見据えて言った。振り返る前より、厚みがあってゆったりとした声色だった。よく見れば晃さんのまなじりが下がっていた。ホントに心配してくれていたみたいだ。


 うん、気をつけよう。晃さんへ視線を合わせてから、あたしは頷く。不審者からちょっと変な女の子くらいにはランクアップしたいもんね。



 それに、と告げて晃さんは窓を見る。

「雨が降ってきたなら傘立ての準備をしないといけないからね。波須歯はすばさん、置いてある場所はわかる?」

「いえ、知らないです」


「そうなの。いや、うん、そっか。そういえば波須歯さんが入ってから初めての雨か。わかった、案内するからついて来て」

 こっちだよと晃さんに先導されて、あたしは待合室の扉の横まで歩く。


 扉を開けると、トイレより少し広いくらいの部屋が広がっていた。店内にある椅子の予備や積載された段ボール、洗剤の詰め替えなどが置かれた金属ラックなど室内は物で溢れていた。

 その中から晃さんは黒い傘立てをあたしの前に置く。



「これを入り口の扉の横に置いてきて。扉を開いて左側に、空いているスペースがあるよね。そこに置いてくれれば良いから」

「わかりました」


「そこそこ重みがあるから気をつけて。じゃあ、よろしく」

 あたしは元気に返事をして、傘立てを掴んだ。言われた通り、ずっしりとした重さがある。でも持てない重さじゃない。あたしは店内に戻った。


 鮮やかなランプに照らされて、円柱形の傘立てはメタリックに光る。黒一色の傘立ては、それでも洗練されていた。

 主軸になる柱がある他には、側面は空いている。だけどその柱と柱の間に蔦みたいな造形の模様が入っていて、それが柱と柱、入り口と底を繋げていた。


 たんたんとステップを上がり、言われた場所へ傘立てを置けば、とてもしっくりとした。ステップのスロープが黒いってこともあるのかも。インテリアですって言われても納得できちゃうくらいには、その傘立ては風景に溶けていた。


 鼻唄を歌いたい気持ちを抑えて、カウンターへ戻った。晃さんも同じタイミングで店内に来たらしく、入り口付近を見ている。何も言われないってことは、置いたのはあそこで良さそう。よしよし。

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