第2話

 手をかけたドアは見た目より軽かった。ゆっくりと押し込んだ頭の上で、軽やかな鐘の音が通っていく。


 そこは異世界だった。


 音楽の授業で聞くようなクラシックが流れていた。仄暗い店内は水道管のようなパイプが天井や壁の至る所に這っていて、冷房の風が緩く漂っている。そして何よりも、ドアを開けたときからずっと、豆の焦げる匂いが強く強く香っていた。




 ーーバタンッ。

 背中で音がした。


「わっ」

 ボリュームは流れる音楽より少しだけ大きいくらい。でも意外過ぎて、あたしは勢いよく振り返る。それから、固まった。


 あったのは今開けたドアだけだったから。

 いつの間にかあたしはお店の中に入っていたのだ。うわぁ、覗いてから考えようって決めたのに。


 あたしは盛大に頭を抱えた。どうしよう。今からでも一旦出ちゃおうかな。でもそれって、何か失礼じゃないの。いやいや失礼って、誰に失礼なのさ。えぇそんなの知りませんけど。あたしが知るわけないじゃん。



 こつり。

 

 お店の奥から音がした。


 どきりと心臓が跳ねる。口は大きく開けたけど、運の良いことに声は出なかった。グッジョブあたし、あたしもやるじゃん。あたしはさっきまでのあたしと和解する。


 なら、この足音って誰。心の中であたしは首を傾げた。


 まさかお客さん、なわけは無いか。音のした方角は客席とは反対方向だから。すると、お店の人だよね。自信なんて無いけど、きっとそうだ。

 まだばくばく音を立てる心臓を抑えつつ、おそるおそる店内へ身体を向けた。


 息を飲んだ。



 胸元くらいから視線がぶつかる。何の感情も帯びない相貌は、かえって冷え冷えとしていた。なのに居心地悪さを感じないのは、ひとえにその人の容姿の所為だ。


 肩幅やシュッとした肘下の筋肉。男の人だろう。ちょっと性別の判断に自信が無くなるくらい、中性的な顔立ちをしている。さらさらと落ち着いた髪が撫でる、瞬きすれば音が鳴りそうな睫の下は切れ目の眼があった。薄い唇はほんのり赤くてため息が出そう。白っぽい肌はうらやましいくらいすべすべで、ニキビ一つ無い。


 服だって七分丈の白シャツに黒いベストとスラックスとエプロンだけなのに、その人は光輝いて見えた。


 とても綺麗な人は口を動かす。「君、どうしたの」と、ほとんど抑揚の無い声があたしの耳を通った。男の人にしては高い声だけど、芯が真っ直ぐしていて厚みも感じた。しかも全然淀みのない、透き通った声色だった。まさか、これが噂のハイトーンボイス。姿も声も美しいとか、マジでヤバい。


「何、大丈夫なの。君」

 その言葉で、あたしは勢いよく現実に戻った。

 その人は軽く腕を組んでいた。眉尻を少し、なんだかあんまり下がってない気もするけど、下げている。


 そうだ。

 あたしは周囲を見る。入り口で突っ立ってる人って。よくよく考えてみれば邪魔だ。というか普通に不審者である。ひょっとして、あたし、今からつまみ出されるのかな。

 それはイヤだ。何とかしなきゃ。


 あたしは慌てて口を開く。

「あの、つつつ、通報しないでくださいッ」

「ん、通報って」


「あたしはやましいことなんてないですよちょっと通りがけに知らないお店見つけたから入ってみたくなって、それでとりあえず覗いてみたらもう入ってたっていうか、何言ってるかわかんないかもしれないんですけどあたしもよく分かってないっていうかッッ」


 兎に角。そう言葉を切って、あたしはぜいぜい肩で息を整える。

「あたしはただの女子高生なので、警察はダメですッ」



 しんと店内から音が消えた。

 酸欠だから口で呼吸する。クーラーの冷気が臓を宥めた。頬の辺りが熱くてぴりぴりする。


 2、3分は経ったかもしれない。もしかしたら本当は10分以上そのままだったかもしれない。時間なんて覚えていられないくらい、あたしはぎゅっと足に力を入れて立っていた。


 一歩。

 その人はあたしに向かって歩く。怒りも呆れも哀しみも見えない無貌の頭と反対に、靴音は小さくも雄弁に耳まで届く。時計の長い針みたいに、じっくり距離が閉じていく。


 あたしは間抜けな声が出そうになった。やっぱりつまみ出されるんじゃ。あたしってば思いっきり変な人だし。自然ときつく目が閉じて、身体も縮まった。カツン、とすぐ近くに靴音がしたかと思えば、あたしの肩に両手が置かれる。あっ、終わった。


 でも手が置かれたまま、何も起こらない。扉も開いてないみたいだ。何がどうなっているの。こわごわ目を開けてみる。すると訝しげな、と言っても顔は変わってないから雰囲気だけど、表情をした美形がいた。

 あたしより目線が高くなった美形さんは、少し腰を低くして言う。


「通報しないし、警察にも行かないから。落ち着いて」


 赤べこの如くあたしは頷いた。




 とくとく、とくとく。

 黒い液体がカップの中に収まっていく。一緒に煙のような花のような香りがして、ため息が出た。「いやぁ、ごめんねぇお嬢さん」とマグカップを置きながら、水野さんと名乗った中年男性は困ったように笑った。


「びっくりさせちゃったみたいだね。どこか痛いところはないかな」

「俺は何もしてない。この人が一人で相撲してただけだ」


 うっ。

 間髪入れず、水野さんの横にいた美形さんが無表情で告げた。視線が真っ直ぐにあたしへ注がれる。中々に的を得た、というかほぼ真実に等しい言葉へあたしは美形さんから目を逸らす。こ、心が苦しい。




 水野さんは美形さんを窘めた。

「そーいうことを言わない。こんなところへ、一人で来てくれたんだよ。きちんと最初から丁寧になさい」


「だったらもう少し明るくしたり宣伝したりすれば良い。しないから初来店で面食らうんだ」


「む。何度も言っているけど、このカフェはゆったりすることがコンセプトなんだよ。中が明るすぎたりお客さんが多すぎたりしたら元も子もないだろう。それに完全に趣味でやってるから、売り上げも気にしていないしさ」


 水野さんは怯んだ。でも一瞬で最初の調子に戻ると、言って聞かせるように美形さんへ言葉を投げる。


 面食らうかぁ。あたしは頭を動かさないでちら、と店内を見る。目が慣れた今なら、壁に天井にと走る水道管とかがインテリアってわかる。シックだとも思う。でも普通じゃあないから、落ち着けるのかな。難しいかも。あたしは心の中で頷いた。



 ふぅ。軽く息を吐いてから、美形さんは更に目を細める。

「その割には人がいなくて嘆くこともある癖に」

「ぐ、ぐぅッ。あーもー、あぁ言えばこう言う子だなぁ、知っていたけど」


 への字に水野さんは口を曲げると、がっくりと肩を落とす。ぼんやりと、水野さんの背中の向こうに白旗が見える気がした。

 なんだか、二人ともあたしがいることを忘れているみたい。内容がちょっと身内染みていた。しかもだんだんと口論になってきている、気もする。


 うーん、世の中って世知辛いんだなぁ。ほろりと涙が出そうになった。


 だけど、このままじゃあダメだよね。

 あたしは首を捻る。やっぱり止めるべきかな、止めた方が良いよね。でもどうやって止めれば良いんだろう。何か良い方法ないかなぁ。




 ちらちらと目だけ動かしてきっかけを探す。と、テーブルの上のマグカップが目に止まった。お詫びの印ということで、さっき水野さんが入れてくれたコーヒーだ。

 両手でマグカップに触れる。ステンレスのマグカップはひんやりと気持ちいい。

 ついでにシンプルながら、丸っこいフォームをしているのもかわいい。


 あたしはマグカップの内側へ唇を近づけてみる。ふわっとした湯気は無くなっていた。けど、熱は残っていそう。だってクーラーの冷たさが柔らかくなったから。

 折角のご厚意だし、冷めないうちにいただいちゃおうっと。あたしは静かにマグカップを置いた。さっきミルクと角砂糖も貰えたので、一緒にコーヒーに入れる。


 くるくる、くるくる。

 ブラックからモカブラウンに。小さなスプーンで作った渦はゆっくりと液面を塗り替えていく。小麦色になったところで、マグカップに口をつけた。



「おいしい……」


 自然と声が出ていた。

 少し甘くて柔らかいコーヒーは緩やかに口と喉を潤していく。あの苦さに身構えていたけれど、苦味は口に入れてからそよ風のように去っていった。


 そして何より飲んだ途端に訪れた、香り、香り、香り。入ったときに嗅いだ香ばしい豆の香りは勿論、花畑にいるみたいな甘い香りとか、レモンみたいなすっきりした香りとか兎に角沢山の香りが広がるのだ。

 ほぅとため息をつく。コーヒーって、こんなにすごいんだ。



 あたしの言葉で我に返ったみたい。「おお」と水野さんは眉を上げた。

「うちのコーヒー、気に入ってもらえたかな」

「はいッ。全然詳しくないんですけど、ここのコーヒーすっごい美味しいです」

「はは、それは良かった」


 水野さんは嬉しそうに笑った。美形さんもこくりと頷く。

「ここはサイフォンで淹れてるから。他の店のとは色々と違うと思う」

「サイフォン?」

「実験室にあるような機械のコーヒーメーカーのことだよ。ああいうもの」


 聞き慣れない言葉にオウム返しすれば、美形さんがカウンターを指差した。その先には金属の機械みたいなものがあった。




 鈍く光る金属の筒は隣のフラスコと細い管で繋がっていて、フラスコにはコーヒーが入っている。金属の筒の下には、なんとアルコールランプみたいなものまで。これぞ、理科室にありそうなもののオンパレードだ。


 というか、あれ家具じゃあないんだ。びっくりだ。古めかしいけど、シックだとも思う。ドイツとかイギリスとか、そういうところのお屋敷でメイドさんが使ってそうな感じがするんだよね。しみじみしながらあたしはメーカーを見た。


 美形さんは続けた。

「あの金属の漏斗にコーヒーの粉を入れて、フラスコへお湯を入れる。それからランプに火をつけてらフラスコの下に置いておく。すると、しばらくしてフラスコの中のお湯が全部漏斗の中に入るんだ」

「えっ全部」

「そう全部」



 あたしはサイフォンを二度見した。真隣にあるフラスコからどうやってお湯が移動するんだろう。そもそもあの置物からコーヒーができるなんて今も信じられてない。

 頭の上にはてなマークを大量生産しながら、美形さんの説明に耳を澄ませた。


「沸騰して生じる蒸気の空気圧が、お湯を漏斗の中へ押し上げているんだ。実際は吸い取っているようなものだけど。それで漏斗の中で粉とお湯を混ぜてまたフラスコの中へ戻す。フラスコと漏斗の間には濾紙があるから、戻るときに液体が濾過されて、このコーヒーになるよ」

「へぇえ」


 本当に理科の実験みたいだ。

 あたしは何度も頷いた。正直、全部は理解できなかったけど。

 いや、違う。今あたし絶対に嘘ついた。だって10%も、仕組みが理解できてない。だけど、なんだかすごいことだけは分かったのだ。それは本当だ。


 さっきよりもマグカップを持つ手が確かになる。すごい。あんな如何にもアンティーク家具です、って置き物がこんなに美味しいコーヒーを作るなんて。あたしはまたコーヒーを飲んだ。美味しい。




 水野さんはやることがあるらしい。サイフォンの説明が終わるとお店の奥に行ってしまった。従業員スペースだそうだ。水野さんの行き先をじっと見ていたら、美形さんが教えてくれた。


 現在、あたしのいる客席は美形さんと二人っきり。

 お客さんは来ていない。時刻は午後3時近く。夏休みのビジネス街にあるお店とはいえ、もう少し誰か居てもいい時間帯だ。よく知ってるカフェとかだと誰かしらいるし。本当にお客さんが来ないんだ、と逆に感心してしまった。



 しかし、しかしだ。

 あたしは室内を眺める。入ったときから薄々感じていたけれど、このお店、かなーり奇天烈だ。というのも、あのアンティーク家具みたいなサイフォンが全く浮いていないのだ。


 奥行きある木の板の天井には水道管みたいなのが通っているし、壁は暗い色の木の板と比較的明るい色の煉瓦である。壁にも水道管っぽいパイプは通っていて、それらのパイプは所々ねじや栓みたいなものもついていた。吊られたランプは白い電球に、色とりどりのガラスが綺麗なランプシェードで覆われている。


 入り口近くにはぐるりと弧を描く段差。このカフェ、なんと地下にあった。とは言えども入り口から床まで50cmくらいだから、正確には『地下っぽいお店』になるけどね。道理で美形さんを初めて見たとき、あたしより背が低かったわけである。


 あたしは近くの美形さんに話しかけた。

「すごいところですね、ここ」

「そうだね」


 美形さんは静かに返事をした。でも、それ以降何も言わない。店内はささやかな空調音と軽快なクラシックが響いていた。

 正直いたたまれない。ここの店長という衝撃の事実を隠していた水野さんがいなくなってから、あたしたちには会話らしい会話が無い。



 コーヒーを楽しむ他には読書をするようなお店。さっき二人がしていた話を聞くかぎりでは、これで間違いない。それに店員さんがあれこれとお話するお店もあんまり聞いたことないし。美形さん自身、喋りたおすような性格じゃあなさそうだけど。


 折角お互いにお店にいるのだ。どうせなら美形さんともっと話してみたい。普通、こういうときって何について話すものなのかな。趣味かな、連絡先かな。

 うーん。どれもあたしには難しいや。無理。


 諦めたあたしはコーヒーを飲もうとして、止まる。視線を感じたからだ。顔を上げると、美形さんがじっとあたしを見ている。

 自然に話す理由が出来た。なのに嬉しいって何故か思えない。きゅっと、冷たい手で心臓を鷲づかみされた感覚。今感じているのに1番近いだろう。なんか怖い。


 おそるおそるあたしは口を開けた。

「あの、どうしたんですか?」

「別にどうも。ただ、すごいって、どんな意味だったのかなって」

「えっ」




 一瞬で頭の中がはてなマークで占められた。

 だって本当によくわからない。すごいって普通にそのまんまの意味だけど。一体何を言っているんだろう。あたしは顔色を窺った。


 美形さんの顔は、やっぱり無のまま変わっていない。雰囲気からは怒っている様子も悲しんでる様子も感じない。ただし、ふざけているようにも見えなかった。謎。

 自分の疑問へ正直に、あたしは言ってみた。

「えっと。言葉の意味がよくわからないので、もう少し詳しくお願いします」


 あたしの言葉に美形さんは瞬きして、一回だけ頷いてくれた。表情は言うまでもなく、態度も質問する前と変わらない。癇に障った、とかはなさそう。勇気出して聞いてみて良かった。

 あたしがほっと胸をなで下ろしていると、美形さんは言った。


「それはさっき君が、ここはすごいところって言っただろう」

「はい。ここってなんだかすごいですよね」

「そう。そのすごいって言葉、色々な意味があるよね。明確にこの店のどう思って言っていたのかなって、気になったんだ」

「あぁ、そういうことだったんですか。えっとですね」



 声が出なかった。それは、とあたしは確かに言葉を並べようとした。本当だ。なのに、現実でははくはくと口が動くだけ。どうして、ただ答えるだけでしょ。すごいって思った理由を普通に──


 ──頭の中にあるはずの・・・・・・・・・理由が、見当たらない。

 あれ、あれ。おかしいな。なんであたし、すごいって思ったんだっけ。


 思わず美形さんを見る。美形さんは何も言わない。

 只管、不思議そうな態度を隠さず、あたしを見ていた。朝顔の観察でもするかのように、情を介さない視線をずっとあたしへ注いでいた。


 そんな美形さんは、ゆっくりと声を出す。

「別に特に意味がないならそれでも良いよ。ちょっと不思議に思っただけだから」


 どくり。胸が重たくなった。

 あたしはマグカップを両手でさする。何か言わなきゃいけない。例えばさっき、質問の意味が分からなくて声をあげたように。

 無理しないで、みたいな。美形さんは言ってくれたのに、強く衝動に駆られた。


「えっと、すごいっていうのは、その、とにかくすごくて。あんまり見たことないと言うか、個性的だなぁと」

 あたしの絞り出した言葉は形になっていった。詰まりながら、どもりながら主張に変化していった。声に出すほど酷く空っぽに感じる、その理由がわからないままで。




 美形さんは僅かに首を傾けた。

「普通ではないのは、嫌い?」



ーーなんでそんなことまでするの、やめなよ。



ーー変だよ、波須羽はすばさん普通じゃないよ。



ーーあの子無理。だっておかしいんだもん。



ーーあたしたちに近づかないで、迷惑。



「え、っと」

 矢継ぎ早に幾つもの声が頭に響いた。空気が上手く吸えなくて、利き手で胸を抑える。そんな自分がみっともなくて、あたしは笑った。


「だって、普通の方がみんな好きですよね」

「そうかな」

「はい、絶対そうです」

「だけど、店長も俺もここが好きだよ」


 「君は、どう」なんて美形さんは変わらない調子で続けたから、あたしは眩んだ。変なものが好きだなんて、ことごこく変わった人だ。それでもあたしを射抜く瞳は揺るぎなく、強く瞬いている。本心なんだろう。

 すごいなぁ。心から好きなものを好きって言い切れるんだ。




 改めてあたしは店内を眺めた。このお店が個性的なのは間違いない。だけど、同時にお洒落だとも思う。レトロな小物だってこじんまりしていて、かわいいからワクワクする。

 ずっと見ていたい。なんて思うのは、居心地が良いってことなのかも。落ち着く感じにしたいって、水野さんは言っていたよね。ちゃんとゆっくりできるんじゃん。


 それに、コーヒーだって美味しかった。

 あたしはコーヒーは今まであまり飲んだことがない。だって苦いのが嫌いだから。好きで苦いのを味わいたくなくて、ずっと避けていた。だというのに。


 さっき、このお店のコーヒーを飲んで、あたしは避けていたことを後悔した。

 そりゃ苦いのは苦いままだ。でもピーマンとか風邪薬のシロップとかみたいな苦味を想像していたから、実際に飲んでみてびっくりした。

 苦いのは嫌いでも、ビターチョコレートにある苦味は嫌いじゃない。だって甘さもあるし苦いだけじゃないし。思い返せば、このお店のコーヒーもおんなじだった。


 そっか。

 あたし、このお店のこと好きなんだ。


「はい。あたしも好き、です」

 あたしは笑う。さっきより顔の筋肉がスムーズに動いた、気がした。美形さんは短く相槌を返した。

「じゃあ、良いんじゃない。君が好きなら、普通も何も関係ないでしょう」

「そうですよね」



 あたしが答えると美形さんはカウンターのシンクへ去っていった。後ろ姿を見ながら、またコーヒーを飲む。

 コーヒーは温くなっていた。冷房が効いているから当然だ。なのに、美味しいと思う気持ちは変わらなかった。


 ほ。肩を張っていた圧力が、吐いた息と一緒に抜けた。反対に爽やかな香りが身体を包んで、じんわりと胸を温めていく。


 幻聴はもう、しなかった。

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