第10話 壁から蜂が生えてきて

 僕は意を決して、エレベーターに乗り込んだ。七階のフロアに降り立つと、視界の隅に一つだけ開いている扉を見つける。


「先輩? いと先輩?」


 中から返事はない。でも、玄関には今日先輩が履いてきた靴が脱ぎ捨ててあった。部屋を間違ってはいないようだ。


 物音もしない。僕は玄関にたてかけてあった傘を手に取り、そろそろと部屋の奥へ進んだ。玄関から一直線に廊下が延びていて、その奥が居間のようだ。奥が見通せないように、紺色の暖簾が廊下と部屋の間にかかっている。


 僕は暖簾の隙間から、こわごわ部屋をのぞいてみた。まず、部屋の中央に大の字で寝ている先輩が目に入る。気持ちよさそうに眠っていて、特に怪我はないようだ。


 暖簾の中に入っても、特に部屋が荒れている感じもしない。カーテンやカーペット、家具がブルー系統で統一されたさわやかなインテリアがあるだけだ。……あの女の子は、一体何であんな顔をして帰ってしまったのだろう?


「……先輩、僕も帰りますね。鍵、かけられますか?」


 問いかけた時、僕の耳は異音をとらえた。虫の羽音のようだが、やけに大きい。それはしかも、窓ではなく壁のほうからしていた。


「え?」


 振り向いた僕の目にうつったのは、白い壁にぽかりと開いた真っ黒な大穴。その中から、ぬうっと大きな昆虫の羽と、電気に照らされて怪しく光る複眼が見えている。


 まさか。こんなものがいるわけがない。僕の身長より大きくて黒い蜂なんて、いるはずが。


 僕の思考は混乱する。だから、目の前でその蜂の脚が先輩の体を引っかけても、とっさに動けなかった。そして、その反対側の脚で今度は自分が囚われて──ようやくもがく。


 恐怖。頭の中はその感情一色に塗りつぶされた。叫んで助けを求めようにも、喉は強張って一言も言葉が出てこない。


 あの女の子は、これを見たから逃げたのか。


 その疑問に蜂は答えることもなく、悠々と僕たちを壁の向こうへ引きずっていった。



 何かに激突することもなく、僕はなんなく壁をすり抜けて──埃っぽい洞窟の中にいた。あの動画で見た場所とは異なるらしく、洞窟の壁はほぼ四角い石で覆われ、石には何かの紋章が彫り込まれていた。


 それを覗きこむ僕に目もくれず、蜂は羽音をたてながら右へ右へと進んでいく。


「せ、先輩! 起きてますか!!」


 僕はようやく気を取り直して叫ぶが、先輩はまだ寝ているのか、ぐったりと蜂の脚に体をあずけたままだ。


 困ったことになった。先輩ならこの蜂をなんとかしてくれるかもしれない、と思っていたのに。それなら、他の人に助けを求めなければ。

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