第3話

俺が洗礼を受けてから5年が経ち、俺は10歳になった。

「んなー」

「あ、キャトレットさん、おはよう」

「にゃ」

朝食を食べようと階段を降りていた俺は、カウンターのクッションの上で丸まっていた我が宿屋の看板猫のキャトレットと挨拶を交わし合う。

『白銀の老猫亭』の由来ともなっているこの猫は正に白銀と言うべき白よりも少しだけ灰青がかった毛色の、青と金のオッドアイが美しい老猫だ。

なんと俺が生まれる、どころか母が生まれる前からこの宿屋(母の実家)にいるらしい。

「こんなに綺麗なんだもん、キャトレットさんはきっと特別な猫なのさ」

長生きな理由について母はこんな風に言っていたが当然そんな理由であるはずもなく、きっとキャトレットは猫ではないと俺は考えている。

年齢を感じさせない若々しい肉体と理知的な瞳、醸し出されるオーラなどから、なんとなく神獣的なものだと感じていた。

とはいえ、うちの可愛い看板猫には違いない。

俺たち家族は彼女が守ってくれている(ような気がする)この宿屋で、今日も元気に生きていく。

「ありがとね、キャトレットさん」

俺がそう言うと、キャトレットは『どういたしまして』と言うように目を細めた。

「お、レィヴァン起きてたか」

「あ、父さん、おはよう」

声がした方を見ると、剣と弓矢を装備した父がいた。

こんな早くから仕事かと驚いていると、「早く飯食ってこい。お前も一緒に連れて行くからな」と父に急かされる。

「え?何かあったっけ?」

特に約束はなかったはずと俺が父に理由を訊ねると、

「さっき急にビッグボアが必要になってな、狩りに行くぞ!!」

父がにっと楽しそうに笑った。

俺は8歳になった頃から宿屋が暇な時に父の狩りに同行するようになり、今では共に狩りに行くことも珍しくはないのでそれ自体は別にいい。

だが、こんな急にということは相当珍しい。

俺が首を捻っていると、父はさらに笑い、

「司祭様への恩返しだ」

と言って納屋の方へ走って行ってしまった。

「……えーっと」

父の背を見送った俺はどうすればいいかわからず、その場に立ち尽くす。

「…どういう意味だと思う、キャトレットさん」

「…なー?」

そしてキャトレットに聞いてみれば、『さあ?』と言わんばかりの返答。

それもそうだと思いながら、とりあえず父の指示通り朝食を食べるために母のいる食堂へ向うことにした。

狩りについて何の準備もしていないが、どうせいつもと同じように簡単に終わるだろう。

俺はそう思っていたし、事実狩り自体は恙なく終わったと思う。

しかしこの日、俺は『幸運』の意味を履き違えていたことに気がついた。


「レィヴァン!そっちに行ったぞ!!」

「うん!!」

朝食後、突然狩りに行くことになった理由を父に訊ねたところ、明日行われる老司祭の引退式で振舞われるメイン食材を取りに行くためだと教えられた。

俺に関する啓示を受け取ってくれていたあの老司祭が80歳を迎えたのを機に引退することになり、明日は引退式を開くことが前々から決まっていて、ちょいちょいお世話になっていた俺たち家族もそれに出席することになっていた。

さらに父は冒険者への依頼という形でその手伝いもしていたのだが、その式典で振舞われるメイン料理の食材が今になっても決まっておらず、何にするべきかと相談されたらしい。

そこで父は俺と共にビッグボアを狩ってくるので、それをメインにしてはどうかと提案した。

担当の料理人は「願ってもない!」と喜んでくれ、「しかし依頼料が…」と資金を気にした教会関係者へは「なら司祭に世話になった礼としてプレゼントする」と言ってきたらしい。

ほんと、こういうところが恰好いいんだよな、うちの父親。

そんなことを考えながら森の少し開けた場所で控えていると、予定通り父がここへ獲物を追い込んだと知らせてきたので返事をして木の陰から出る。

当初の目当てであるビッグボアは見つからなかったが、代わりに見つかったグレートボアが父に追われ、俺に向かって一直線に走ってくる。

だが俺は動かない。

剣を構えて突撃することもなく、かと言って背を見せて逃げるでもなく、ただ黙ってその巨体を見つめていた。

「グゥ…」

微動だにしない俺にグレートボアは戸惑ったように止まり、その場で数歩足踏みをしていたが、やがて自分の巨体で踏み潰せない相手ではないと結論を出したのだろう、俺に向かって一歩足を踏み出した。

瞬間。

「グオオオォォォ…ォォオオオオ!?」

勢いのある雄叫びから一転、間抜けな驚声を上げて転び、近くの岩に頭を打ちつけて絶命した。

しん…と静まり返った空気が森に満ちる。

俺は「ふう」とため息を吐き、『神級の勇者に』と国からプレゼントされた、いまだに使ったことのない剣の柄に手を乗せた。

「…このままお前を使うことなく引退しそうだな」

初めて狩りに来た日から今まで一度も実践で使ったことのない相棒は、まるで「そうかもね」と返事するようにかちゃりと音を鳴らした。

閻魔大王から与えられた幸運の恩恵で俺は今まで『運よく』一度も魔物に害されたことはないし、剣を向けたこともない。

これからもそうであればいいと願い、父に狩りが無事終了したことを告げるために声を張り上げつつ手早く猪の足に縄をかけた。


「なんと巨大な…!!」

「これを10歳の少年が仕留めたと!?」

「さすが神級の勇者様だぜ!!」

父と2人で狩ったばかりのグレートボアを持って教会へ行くと、出迎えてくれた神官や調理のために集まっていた料理人や魔物解体担当のギルドスタッフから驚愕と称賛を浴びせられる。

実力ではないそれにむず痒さと申し訳なさといたたまれなさを感じている俺とは対照的に父は「そうだろう、凄いだろう!」と息子の自慢をして回っている。

正直もう帰りたいのだが、置いて帰ってはダメだろうか。

そんな思いで父を見ていると、今度から新司祭を任されることになっている、ついこの間まで見習いだった若司祭が声を掛けてきた。

「レィヴァン君、大手柄ですね」

人好きのする笑顔で俺を褒めてくれる彼は、若いと言っても35歳で司祭見習いになってこの村に来たから今は41歳のはずで、俺の父親よりも年上だ。

それなのに子供の俺にも丁寧に接してくれる人格者で、そのお陰か見習いの頃から街の人たちに受け入れられ、それがあったから老司祭も早めに司祭職を彼に譲ろうと引退することにしたというほどの人物である。

「ありがとうございます。でも、本当に全部偶然なんですよ」

そんな人だからだろうか、俺はいつでもこの人には本心で接することができていた。

「ビッグボアを探していたら偶然グレートボアを見つけて、父さんが追い立てたら偶然俺の前で転んで岩に頭をぶつけて死んだんです。俺は何もしていません」

俺は狩りでの出来事を包み隠さず彼に話す。

自分はそんなに褒められるようなことはしていないのだと。

「…レィヴァン君、世の中には『運も実力の内』という言葉があるんですよ」

しかし司祭は自嘲するような俺の言葉を聞くと、そう言って人差し指を立てる。

もちろん俺はその言葉を知っているし、今まで色んな人に言われている。

俺が「運が良かっただけ」と言うと、人は決まって「運も実力の内さ」と返すのだから。

「この言葉は『人にはどうにもできない運すらもその人の実力である』という意味でしばしば使われますね。ですが、本当にそうでしょうか」

「…え?」

けれど次いだ司祭の言葉に俺は驚き、彼の顔を見る。

「実力がものを言う世界で運しかない人に結果はついてきません。君は毎日鍛錬を欠かさないでしょう?元々神級の勇者の資質を持つ君が努力を続けていれば必ず成果が得られます。私は今回の君の話を聞いてこう思いました。ビッグボアが君の放つ強者のオーラに逃げ出した結果、それに耐えられるグレートボアだけが森に残って、そして君に対峙した時に見せつけられた実力差に戦き、足に上手く力が入らなくなって転んでしまったのだろうと。そこに岩があり、それに頭をぶつけたグレートボアが死んだことは幸運だったのでしょうが、その結果を引き起こしたのは君の実力あってのことだったはずです」

そんな屁理屈のような理論を普段の彼からすれば随分と茶目っ気のある笑顔で俺に言うと、立てた人差し指で俺を指す。

「不幸は人を殺しますが、幸運だけで生きられるほど世界は甘くありません。けれど、君が何かをなそうと考えた時、その強運は君の味方になってくれます」

その指の先を目で追うと俺の剣に辿り着く。

いまだ活躍の機会のない、俺の相棒に。

「今は必要なくても、何れその剣が必要になるでしょう。それまでしっかり鍛えなさい。その時に後悔しないために」

その言葉は幸運に胡坐を掻き、神級の勇者という名に恥じない程度に鍛えておこうという思いで鍛錬をしていただけの俺に深く突き刺さった。

確かに今までは狩りに限らず、色んなことが幸運によって上手く運んでいた。

それが閻魔大王に不幸の壺を幸の壺に変えてもらったおかげだと知っていた俺は、気づけばその幸運に全てを任せてしまっていた。

なんてことだ、周りに「運も実力の内」だと言わせていたのは自分自身だったのだ。

前世で何かの漫画のキャラクターが「実力があっても運がなければ英雄にはなれない」と言っていたが、「運さえあれば英雄になれる」だなんて言っていなかった。

むしろ運だけで英雄になっていたのは噛ませ犬の雑魚キャラばかりだったじゃないか。

俺は危なくあの道を辿るところだったのかと思うとゾッとした。

もし今この時彼と話さなければ、俺は確実に駄目になっていただろう。

ああ、やっぱり今世の俺は運がいい。

両親ばかりか、周りの人にすら恵まれすぎるほどに恵まれているのだから。

「わかりました。俺、強くなります!誰にも、何にも負けないくらいに、いつか後悔しないために!」

鞘ごと剣を握り、俺は司祭に宣言した。

もう二度と慢心はしない。

そのせいで俺の思い描く幸せな未来が壊されないように。

何の憂いもなく、幸せに人生を終えられるように。

「はい。頑張ってくださいね」

俺の顔を見た司祭は自分の言葉など何でもないように、いつも通りの人好きのする穏やかな笑みで俺の決意を受け取ってくれた。

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