ぬめぬめしたのは嫌いなの!

 渡された魔石を手に奥へと進むと、通路が三又に分かれた場所に出た。正面、右、左、どれも大して違いはないように見える。


 あえて言えば左の通路の方が、手入れが行き届いていないと言うか、ほったらかしな感じだ。確かギリアムさんは南西と言っていたはず……。


 ちょっと待ってください!


 ここは迷宮の中ですよ。どっちが南西かなんて分からないじゃないですか? それに私たちは東側を向いて迷宮に入ったはずだから、南西は来た方向に戻ることになってしまいます。


 どちらに進めばいいのだろう? これ、絶対に説明ミスです。戻ってもう一度場所を聞くべきだとは思うが、私の我慢もかなりの限界に近づきつつある。


 そうだ!


 アルバートさんはここは特に何も出てこない上に、碧き誓の貸し切りだと言っていた。つまりどこか適当な場所さえ見つけられれば、特に問題は起きないという事になる。


 ならば、今回の案件については感ではなく目立たない通路を、下から人が上がってきても絶対に入って来そうにない方を優先すべきです。


 そう思って眺めてみると、左手の通路がその要件に合致している様に思える。私は魔石を持った右手を前に差し出すと、その奥へと進んだ。


 どうやらビンゴだったらしく、通路にロープの様なものが張ってある。この向こうなら間違いなく誰も来ないはず。私はロープの下を潜り抜けるとその奥へと進んだ。


 そこは人がほとんど立ち入らない様でほこりやゴミが一杯たまっている。これならどこでも大丈夫そうですね。通路の隅に腰を下ろそうとした時だ。


 ズズズ、ズズズ


 何かが這いずるような音が奥から聞こえてくる。同時に抑えきれないほどの悪寒が私の体を駆け抜けた。通路の奥の暗闇に何かいる。私は手にした魔石を暗闇の奥へと差し出した。淡い光が通路の奥を照らすはずだが何も映らない。いや、闇の奥で何かが微かに光った。




「アルバート、いつまでこんなピクニックごっこをやるつもりなんだ?」


 ワイン片手にチーズをかじっていたアルバートに対して、トニオがイラついた声を上げた。


「女性に優しくするのは私の本能ですよ」


 アルバートがトニオに肩をすくめて見せる。


「ふざけるなよ。足を滑らせた振りをして、右手の五階層へ下る竪穴に放り込んでやれば、それでおしまいなはずだ」


「そう怒らないでください。これはある人からの演出のリクエストなんです」


 アルバートはそう答えながら部屋の奥をちらりと見た。


「演出?」


 トニオは怪訝そうな顔をすると、奥でワインを飲み干すカストルを眺めた。


「せっかくのかわいいお嬢さんだ。少しは楽しみと言うものがあってもいいだろう」


「このピクニックごっこのどこが楽しみなんだ?」


 呆れ顔をするトニオに対して、カストルがニヤリと笑って見せた。


「こうしてちやほやされた後に、自分がもうすぐ死ぬんだと思った時の女の顔を見るのは、何ともたまらないものなのさ」


「カストル、今回は私が一番最初のはずだぞ」


 ギリアムがフードの影から目を光らせながら、カストルに向かって声を掛けた。


「ギリアム先生、もちろんですよ。でも手伝いはいりませんか?」


「カストル、私のことを馬鹿にしているのか?」


 そう言って机を叩いたギリアムに、カストルが空になった杯を振って見せた。


「いや、いつぞやの娼婦みたいに、事を始める前に殺してしまったりしないか心配しているだけですよ」


「あれは、あの女が――」


 そう気色ばんだギリアムに対して、アルバートが間に割って入った。カストルがギリアムの事を用済みだと思っているのは分かるが、事が終わる前に仲たがいされても困る。


「ともかく時間は十分にありますから、後で後悔しないだけ楽しんでから竪穴につれていけば――」


「いかん!」


 そうなだめたアルバートに対して、ギリアムが声を上げた。


「ギリアム先生、そんなに怒らなくてもいいでしょう。単なる冗談ですよ」


 流石にやりすぎたと思ったのか、カストルがギリアムに両手を上げて見せた。だがギリアムは立ち上がると、杖を片手に何かを探るような顔をする。


「そうじゃない。あの娘、一体どこに行くつもりだ?」


「逃げ出すつもりか?」


 ギリアムの言葉にカストルも腰を浮かせた。


「いや、逃げ出そうにも扉の解除の呪文はしらないし、あの魔石を持っている限りこちらは位置を――」


 そう告げたアルバートに向かって、ギリアムが首を横に振って見せる。


「違う。あの娘、左の立ち入り禁止区域に入っているぞ!」


「どうやって封印を抜けたんだ。あそこはこの迷宮探索の最初期から誰にも立ち入られる事なく、封印され続けて来たはずだろう?」


 トニオが呆気に取られた顔で呟いた。


「そんな事はどうでもいい。あの娘が行方不明になったらおしまいだ!」


 カストルはそう叫ぶと通路に向かって突き進んだ。アルバート達もそれに従って部屋を飛び出ると、アイシャがいるはずの左の通路へ向かって駆けだした。





 それは闇に浮かぶ一本の細い線だった。だが単なる線などではない。少しづつ膨らんでいくと同時に横にも広がってもいく。


 私は慌てて立ち上がると足首のナイフを抜いた。下がって逃げるにせよ、今はこいつに背を向ける訳にはいかない。私の本能が私にそう告げている。私が一歩下がるたびに、そいつは一歩前へと進む。それが永遠に続く様に思えた時だ。


 ブチ!


 私の背中で何かが切れる音がした。どうやらロープが張ってあった所まで私は戻って来れたらしい。だが安堵する暇など無かった。


 闇の中で浮かんでいた線が突如大きく広がる。なんだろう。卵? 違う、目だ。巨大な一つの目だ。


 だがその中心、瞳があるべき所は何の光も映していない。光すら飲み込む漆黒の闇が私をじっと見つめている。私は悲鳴を上げそうになった口を手で押さえた。


 ここで悲鳴など上げてもなんの役にもたたない。目をそらしてもいけない。もし目をそらせば、間違いなくこいつは一瞬で私を飲み込んでしまうだろう。


 先ほど同様にジリジリと後ろに下がりながら、私はその漆黒の瞳を見つめ続けた。心臓の音が耳に直接響き、狭い石造りの通路のはずなのに、星のない夜空にでも放り込まれた気分になってくる。違う、気の所為なんかじゃない。本当に闇が私を包み込もうとしている。


 私は一瞬だけ自分の足元へ、そして周りの壁へと視線を向けた。そこでは魔石の光が照らす白い領域が、真っ黒なナメクジみたいなぬめぬめした闇で覆い尽くされようとしている。だめだ。覚悟を決めて走るしか――。


「炎よ、我が剣となり敵をつらぬけ!」


 誰かの声が背後から響いた。同時に肌を焼く熱気が私のすぐ横を通り過ぎ、漆黒の闇へと激突する。


「早くこっちへ!」


 アルバートさんの声だ。私は声がした方へ向かって全力で走った。そのすぐ背後で何かがベチャリと音を立てている。


「暁の守護者よ、我が壁となりてそれに触れしもの全てを塵芥へ変えよ!」


 呪文を唱える声と共に、再び炎が通路を赤く染め上げる。振り返ると、杖を手にしたギリアムさんの姿が見えた。その横では盾を掲げたカストルさんが、炎がこちらへと逆流するのを防いでいる。


 流石はAランクの冒険者チームだ。私がそう思った時だ。真っ黒な何かが炎の向こうから伸びてくると、ギリアムさんの体に巻き付いた。


「ギャーーー!」


 ギリアムさんの口から、この世の物とは思えない悲鳴が上がった。だがそれは通路を赤く染めていた炎と共に一瞬で掻き消えてしまう。


 だが私の目は、ギリアムさんが闇に飲み込まれる直前の表情を捉えていた。それは恐怖と言う言葉ではとても表すことなどできない、魂の喪失とでも言うべき顔だった。


魂喰らいソウルイーター!』


 私の頭にその名前が浮かんだ。それに魂を捉えられるぐらいなら、その前に自分で死を選べ。そうでなければ魂は永遠の闇に閉じ込められ、死なんかよりはるかに酷いことになる。そう呼ばれる存在だ。それもきっと上位種に違いない。


「逃げろ!」


 誰かが叫ぶ。その通りだ。とても人が敵うような相手じゃない。先にいく誰かの松明の灯を目印に、私は走った。


「ちくしょう!」


 誰かが背後でそう声を上げて私の体を弾き飛ばす。バランスを崩した私の視線の先で、盾を背中に担いだ大きな体が、松明の明かりと共に遠くへと走り去って行くのが見えた。

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