じしょでえっちなことばをひいてにやにやするの巻

うん考

 公園を散歩中のことだ。もよおした私はトイレに入った。

 最近の公衆便所は洋式が多い。

 尾籠な話で恐縮だが、洋式のほうが誤爆がすくないので、ありがたい。誤爆を通り越して意図的に撒き散らしているのではないかと思われるようなところに入ってしまって絶望した気持ちは皆様もあるに違いない。

 さて、恐縮といいながら嬉々として私は尾籠な話を続けるので、覚悟されたい。


 座った私が念じながら、一部の筋肉を動かしていると、便座がずるりと滑った。

 ゔおっという妙な悲鳴をあげた私は大殿筋とハムストリングスにぐっと力をいれて、バランスをとる。

 滑り落ちて、いろいろとペインティングするという屈辱をなんとか逃れた私はひとしきり自分の幸運を誇り、尻をふいたあとに便座を観察した。幸いなことに紙はあったので、新聞紙をもんで使うというおいちゃんおにいちゃん知恵袋らいふはっくを活用せずに済んだことをここに明記しておく。

 さて、おいちゃんの知恵袋の話から便座に戻ろう。

 私の奇妙な悲鳴の原因は便座が固定されていないことにあった。

 ただ上にのせられているだけなのだ。


 私は中腰のまま思いを馳せる。

 そういえば、昔、旅した国はそもそも便座がなかった。

 まぁ、便器があるだけで、ありがたいレベルであった。穴が開いているだけなんてのもよくあったからだ。

 さて、私が思い出した光景はたまに泊まったホテルのそれである。このホテルはその国基準ではそこそこに良いホテルであった。

 だが、そのホテルのトイレはロビー、客室どこのそれにも便座がなかったのだ。

 すべての客室に泊まったわけではないので、客室については間違っているかも知れないが、そもそも便座を備え付ける気がないらしかったので、多分ないのだろう。


 同じホテルを利用した知り合い何名かとトイレでどのようにしてり出すのかを話し合ったことがある。

 中腰派が多かったが、中には便器に直接腰かけるという豪の者もいた。

 「考えてみてください。上にうすっぺらい板がついていよういまいがが、どうせ汚れているんです。同じじゃないですか」

 たしかにそのとおりであった。

 そのとおりであったが、私はそれ以降も中腰派を貫いた。

 人間は必ずしも合理的には行動できないのである。

 リチャード・セイラーがノーベル経済学賞を取る以前から、私はこの真理に気がついていた(ドヤァ)。

 ちなみに私が勉強に勤しんでいた分野でも認知研究を取り入れた視点は既にけっこう出ていたが、いんぐりっしゅとか難しくてあんまり読まなかった(ドヤァ)。

 ちなみに中腰になった私の身体の傾き具合は、快く放出できる絶好の角度らしいということは、それから随分と経ってから知ったことである。

 あれ、便座なくてもいいんじゃない?


 とはいえ、便座には象徴的な意味合いがあるのかもしれない。

 ただ、そこらへんについて書いてみると、どうにも面白くないうえに印象論すぎる。

 というわけで、このお話は、中腰で快便になるかもよという尾籠なおはなしらいふはっくでしめることにした。


 あっ、しめることにしたといいながら、最後に付け加えることを思い出した。

 この話はあくまで便器と便座に関する話であって、う◯ちは関係ないではないかと思われた方もいるかもしれない。

 そのとおりである。それくらいは私だってわかっているのだ。

 でも、このタイトルを思いついて、使いたくて仕方がなかったのだ。だから、ツッコミは不要である。ツッコミには気の立った猿のごとく、う◯ち投げるつもりである。うきぃ。

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