言語と性格、そしてチー牛
話す言葉と性格は連動しているのではないだろうか。
そんなことを考えたことがあった。
母語を話しているときの私を一言で形容するならば「チー牛」である。
私が若いときにチー牛と呼ばれなかったのは、当時、その言葉がなかったからに過ぎない。
実は、この文章を書くにあたって、「チー牛」なる言葉を調べてみた。
Wikipediaに「チーズ牛丼(ネットスラング)で立項されるくらいには、人口に膾炙した言葉であるようだ。
https://ja.wikipedia.org/wiki/チーズ牛丼_(ネットスラング)
この部分の記述を見ると、「誰だよ! 俺のこと監視しているやつは?」と言いたくなるぐらいに私と被っている。
Wikipediaから抜粋した「チー牛」の特徴を記し、
メガネ:メガネっ子だ。
子供のような髪型:髪のセット次第で坊っちゃんと言われることがある。
覇気のない顔:覇気なんかとっくに破棄した。いや見栄をはった。もともとそんなものはない。
童顔:悪い意味で童顔である。苦労していなさそうと言われるのだ。
精神的に幼稚:う◯ちう◯ち!
ネットでは元気:う◯ちう◯ち!
現実では根暗:常に下を向いて歩いているし、酒を飲んでいるか面を被っているとき以外は人の目を見られない。
ちなみにチーズ牛丼は食べたことがない。
ていうか、誰か私に監視カメラつけてたりしない?
そんな私だが、どういうわけか、仏語を喋っているときはやたらと陽気でフレンドリーだ。
初対面の女性でも普通に話せるし、なぜか手まで握っていたこともあった。
常に喋り倒しているし、相手の顔を見つめながら話ができる。
黙っていると、言葉がわからないだろうと思われて、それが面倒くさいと感じているからなのかもしれない。
どうして面倒くさいか。英語に切り替えられるからである。
英語、それもフランス語なまりの英語とか聞き取れないし、英語ならわかるんでしょとばかりにまくしたてられても、英語ができないから仏語の勉強をはじめたようなものなのだ。
というわけで必死にしゃべり倒す。
よくわからない言葉があったときは、自分なりに把握した状況を簡単な表現で話し続けていれば良い。誤解があれば、向こうが訂正してくれる。文法的に多少おかしくとも私は外国人だ。多目に見てくれる。
日本語ではそんなにしゃべり倒さないのは、私が日本語に絶大な自信を持っているからだ。
チー牛って言うな!
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