語学の天才
言語にも家系図みたいなものがあって、親戚関係をたどれる。
ここらへんを比較言語学・歴史言語学では語族とか語派とかいう言葉であらわす。
まぁ、要するにフランス語とイタリア語は俗ラテン語の子孫ですよ、みたいなものである。
家系図で近縁関係にあればあるほど、それぞれの言語は似ている。
文法はもちろんのこと、単語についても分かれる前からあったものについては、変化にも規則性を見出すことが可能だからおぼえやすい。
それゆえ習得しやすくなるし、系統的にものすごく近いものであれば、お互いが別言語をしゃべっていても、多少混ぜようとも通じてしまう。
日本語はほぼぼっち言語である(ほぼぼっちといったのは、考え方によっては琉球のことばを琉球語と捉えることもあるからだ)。
したがって、日本語を母語とする私(だけではないが)はインド=ヨーロッパ語族の言語の習得には大きなハンデを負っているわけだ。
私は自分が全く外国語を使えなかったときも多少使えるようになったときも、常にこれを言い訳にしてきた。
日本語はぼっち言語、その他の外国語は中高でやらされた英語ぐらいしかないから、頑張ってカタコトでできるようになるのはせいぜい同じインド=ヨーロッパ語族の言語しかないだろうと。実際、私の語学能力はその程度である。
もちろん、そうでない人はたくさんいる。
私はそういった人たちを羨望と妬みもりもりで語学の才能に恵まれた人とみなしている。
ただ、中には羨望も妬みも持ち得ないくらいに超越している人もいた。
語学の天才みたいに言われた先生と数度話したことがある。
まぁ、この先生は何ヵ国語使えるのだろうというくらいに驚いた。
彼の友人の非インド=ヨーロッパ語族地域の言語話者が◯◯は自分よりも綺麗な☓☓語を話すなどと言っていたのを聞いたこともある。
ちなみに☓☓語というのはその話をした人の居住地域のリンガフランカ(地域共通語)で彼の母語でもあった。
リンガフランカゆえに少し「ブロークン」な話し方をする人もおり、自分も影響されてしまっているところがあるが、彼は違うというのだ。
ネイティヴにここまで言わせるのはすごいものである。
どうしたら、あんなにできるようになるのだろう。
当然の疑問をぶつけた。
「難しいことはわからん。僕はみんなのお話を聞いているだけだ」
先生は笑うだけだった。
後日、別の先生から件の先生の若い頃を聞く機会があった。
比較言語学の古典の輪読の授業でのことである。
この△△先生もまた私から見ると、雲の上の上の(中略)上の語学の達人だ。
先日、◯◯先生とお話をしてきましたと報告したら、この△△先生、◯◯先生の後輩であったという。◯◯先生は、△△先生からみても、さらに雲の上の存在だったという。
「◯◯さんな、あの人はな、若い頃、股火鉢でずっと怖い顔して本読んどった。話しかけると食われそうで怖かったよ」
少しだけほっとした。
同時に私にはそれだけの鬼気迫る集中力もないことを思い出し、悲しくもなった。
◯◯先生の雑用をしたときにいただいた先生愛用の品は、今も大切に部屋に飾ってある。
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