少女の回想
彼女が生まれたのは、海辺にある一軒家だった。
海の見えるリビングにピアノがあり、其れが彼女の友人だった。
幼少期の頃当然のようにピアノを始めたが、コンクールに出るようなことはせず、趣味の範囲で楽しく続けていた。
小学校では友達が出来た。だが中学校では出来なかった。
合唱祭でピアノ奏者はやったが、趣味をピアノに全振りしてしまったため、友人は出来なかった。
だが高校で、彼女は運命的な出会いを果たす。
一年の夏休み。学校に勝手に来てピアノを弾いていた時の事だった。同学年の女子が一人、ピアノの音に釣られてやってきたのだ。
その女子はピアノを一通り聞くと、言ったのだ。
「ピアノ上手なんだねっ」
今も昔も預かり知らぬことだが、実際、彼女のピアノは上手かった。他の高校生奏者からは抜きん出るほどに。
「そう? まあ、好きだから」
一方、自分の実力を知らない少女は、無邪気な称賛に淡白に返した。
そんな彼女に、女子は脈絡も少なく言ったのだ。
「あのねっ、私、歌うのが好きなの。でもね、歌うのしか出来なくて、他の楽器全然駄目だし……だから軽音部とかもムリかなって思ってて、でもやっぱり、歌いたいし、生演奏には憧れるし、機械分からないし」
何を言いたいのか釈然としない女子は、その後頭を振ると、思い切ったように言った。
「ねえっ。私の伴奏やってくれない?」
今まで一人で生きて来た彼女にとって、頼られるという事は明らかに非日常だった。そして若しかしたら……彼女はずっと、そんな非日常に憧れていたのかも知れない。
だからか、それとも女子の無邪気さに釣られたのか、彼女は頼みを引き受けることにしたのだ。
そこからの毎日は充実していた。
見(み)傘(がさ)影(えい)と名乗るその少女と過ごす時間は楽しかったし、彼女の歌い方や声に合わせて、既存の伴奏は可成り変えた。自分なりのアレンジも加えた。
彼女は、見傘の歌声が好きだった。
何度も試行錯誤を繰り返して、一緒に出来る曲が三曲を超えた時、彼女らは公演を決めた。
誰でも参加できる、町内のお祭りにある発表スペース。冬に在ったそれに参加して、彼女らは演奏した。
そして、結果は大成功だった。
町内ではちょっとした噂になったし、聞いた人は声をそろえて褒めてくれた。
楽しかった。嬉しかった。
またこういう場で歌おうと、心から言い合った。誓い合った。
次はこの曲をやりたい。ならこの組み合わせを試してみよう。
語り合い相談し合い、音を出し合った。
そして、梅雨にライブをしようと決めた春。
見傘が交通事故にあった。
即死だった。
そこから先の出来事は、あまり覚えていない。
葬儀に参加したあと、呆然と日々を過ごした。
朝、つい見傘を探してしまった。
昼、一人で昼食を取るようになった。
放課後、何故か今まで練習していた曲を弾いていた。
いつも一人で過ごして居た筈で、寂しく等無かった筈だった。元に戻るだけの筈だった。なのに—————久しぶりの一人は、独りだった。孤独だった。全て失ったと錯覚するほどに。
居なくなるには、見傘は彼女の心に食い込み過ぎていた。
次第にピアノにも触らなくなった。
学校にも行かなくなった。
どうすれば良いのか分からなくなり、新しい趣味をさがそうと、街に繰り出した。嘘だ。気を紛らわせたかっただけだった。
そして彼女は。
家の近くにあった崖から転落し、短い人生に幕を閉じた。
筈だった。
気が付いたら、彼女は学校に居た。制服を纏い、音楽室に立っていた。
正直訳が分からなかった。
移動中誤って壁を通り抜けて、自分が幽霊だと気が付いた。
それから、色々なところに行った。
然し結局、音楽室に帰ってきてしまった。
何にも触れず、誰にも認識されない。世界自体に拒絶されたような感覚の中、彼女が心を軋ませるのに、そう長くは掛からなかった。ある日の夕方、項垂れた彼女が習慣的にピアノを触ったときに、それに縋って仕舞ったのは、当然と云えば当然の結果だった。
彼女は数か月振りにピアノを弾いた。
弾いているときだけは心が落ち着いた。
此れだけには拒絶されないと、彼女はピアノに依存した。
そこから、十年間ずっと、ピアノだけを弾いて過ごしてきた。
見傘が言っていた曲のアレンジをして、はやりの曲を弾けるようにして、そのほかの様々な事をして気を紛らわせた。
然し、結局孤独な事には変わらなかった。
折角練習しても、多く曲を弾けるようになっても、上手く弾けるようになっても、それを確かめてくれる人は、もうどこにも居なかった。
見傘と出会った後の彼女にとって、それは地獄だった。
それでも、止めることは出来なかった。
止めてしまえば、自分ではいられなくなるような気がしたからだ。
止められないピアノを延々と奏でながら、誰にも見つからず孤独にさいなまれる生き地獄。
其れが、彼女が十年間続けてきた事だった。
ああ、なんだ。最後に限れば、良い事なんて無かったな。
我鬼が抜いた刀身をぼうっと見つめながら、山奈子は思った。
このまま地獄を続ける位なら、いっそ。
「……それに切られたら、私はどうなるんですか?」
止めに入った津島たちの制止の声を抑える形で、山奈子は聞いた。その目はもう、深海のように深い闇に閉ざされている。
「貴様は祓われる。此処ではない何処かへ行くことになる。それが地獄か何処かは、小生には預かり知らぬことだが……安心しろ。痛みは無い」
「そうですか……このままこんなところに一人で居るよりは、よっぽどいいかも知れませんね」
言うと、山奈子は自嘲気味に笑った。
その隣では、津島が我鬼に抗議している。
「ねえ我鬼さん……その言い方は如何なの?」
「ならどうする気だ? 願いを聞き成仏させるのか? それで成仏できるかは博打だぞ。出来なかったら一生付き合うつもりか? そんな時間はない。一回だけ付き合ったとして、成仏出来ず結果祓う事に成ったらどうするつもりだ? 遠回しに祓われろとでも言うのか?」
時間がないって……。それはこっちの都合じゃないか。
津島がそう言いかけた時、綿雪がフォローを入れた。
「三七十。彼の言う事は正論だよ。それに、時間が無いって言うのはそういうことじゃない」
此処まで言うと、綿雪は小声で続けた。
「幽霊は、特に彼女のような地縛霊は、死んでから時間が経つと怪異になってしまうんだ。彼女は其れがもう近い」
「怪異……?」
「悪霊と言った方が身近かな。其れに成ったら、もう妖と同じように、力だけを求める化け物になってしまう」
「そんな……」
津島は先程のテケテケの姿を思い出し、身震いした。
津島が理解したところで、我鬼が続けて言った。
「希望だけ植え付けて後でもぎ取るのはそれこそ鬼の所業だ。言うべきことは……心を傷つける言葉はせめて正しくはっきりと伝えるべきだ。我々はこの娘を祓う義務がある。依頼もあるのだろう?」
津島はなおも言葉を返そうとするが、それを山奈子が遮った。
「良いの。ずっと一人で居たから、きっと誰かに消してもらった方が楽だよ。私もそうして欲しい」
「……本当にそれで良いんですか?やりたい事とか……いや……」
津島が言い淀んだ。これ以上言っても、お互いに傷付くだけな気がしたからだ。だが津島の内心とは裏腹に、山奈子はその言葉に素直に反応した。
「やりたいこと……かあ。あるな。一つだけ」
内心でそれが嘘だと理解しつつ、彼女は言った。
「良ければ一曲だけ、私のピアノを聞いてからにしてくれませんか?」
電気の付いていない、月明かりの音楽室。
ピアノの前に、薄く光る少女が一人座った。
少女は鍵盤に指を置きながら、ふと思う。
ああ、これで善かった。と。
正直、安堵していた。
此れでこの生き地獄から解放されるのだと。其れに、最後に誰かに曲を聴いてもらうことが出来るのだと。
……幸せだな。また誰かに聞いてもらえるなんて。
でももし……影(えい)が隣に居て呉れたら。ううん。せめて誰か歌ってくれたら…………いや、それは我儘だよね。歌えるとも限らないんだし。
案外、彼女は満足していた。
一人ではないという空間に、心が躍っているのを感じていた。
正の感情を抱えたまま、彼女は演奏を始める。
物足りなさと寂しさを抱え乍らも、己の存在を証明するために。
静かな音楽室に、スピード感のある旋律が繰り返される。
小気味よく、高く短い旋律を繰り返す度に、観客は引き込まれるような錯覚を覚える。
序奏は終わり、やがて低く流れるような和音が、引き込んだ心を流していく。
和音に少量の高音を混ぜ、此処にない歌声を引き立てるように。
一瞬音が消えるはずの場所には、少し早めのアレンジを。
サビは大きく、連続性を。声と和音を奏でるように。
繰り返す。旋律を、和音を、あの子の為のリズムを。
指ではじく。足で浮かせる。体で共鳴する。
最後に連れてもっと音を大きく、多く、丁寧に。
フッと音を小さくする。静かに、川みたいに音を流す。
そして唐突に大きく、音を満たすように。
そして、灰色の硝子のような曲は、案外早く終わった。
……ああ、これで、終わり。
山奈子は嘆息した。
それにしても、この曲を弾くなんて。
未練がましいな、私も。
今弾いたのは、見傘との梅雨のコンサートの為に練習した曲だ。主旋律は見傘がやる筈だったわけであるから、もちろん楽譜の中には入れていない。
つまり、不完全な曲。
もう一生完成することのない曲だった。
本当は、他の曲でも良いと思っていたのだが、無理だった、自然と鳴らしてしまっていた。
まあ、これで満足……いや、此れで良い、かな。
鳴らしたら余計、物足りなくなっちゃったけど。
そう思い、大人しく切られようと、観客の方を見た。
すると、みんなが呆けた顔でこちらを見つめている。
……あれ? どうしたんだろう。驚いた顔をして。
そう思い見つめていると、綿雪が口を開いた。
「なんといえばいいのか、君、凄いな」
「……?」
疑問に思い首を傾げていると、綿雪が声を強めて言う。
「こんなに凄いピアノ、初めて聞いたよ。何と言うか、震えた。凄かった。素晴らしかった」
称賛。
それに、自然と涙腺が刺激されるのを感じた。
他のメンバーの顔にも、綿雪と同じような表情が浮かんでいる。我鬼でさえ、呆けて何も言えていない。
夢だと思っていたのだ。またピアノを聞いてもらえるなど。
演奏をしたら、彼等は消えてしまうんじゃないかとすら思っていた。それが、確かな声で、自分に心からの称賛の言葉を掛けてくれている。
今、自分は独りでは無いのだ。
そう実感しただけで、何かが報われた気がした。
「それにしても」綿雪が続けた。「それは『風のない日は』じゃないか。十年位前に動画サイトで上がっていた」
「知っているの?」
津島の質問に、綿雪が答える。
「知って居ると言うか、好きだったと云うか……歌詞を覚えて良く歌っていたよ」
……え?
と山奈子は動揺する。同時に、少しだけ希望を持った。
この曲は、十年前に上がったあまり有名でない曲だ。
見傘が好きな曲ではあったが、まさかここに知っている人が居るとは思わなかった。
「は、はい。確かにその曲ですけど……」
「やっぱり! 主旋律が無いのとアレンジが多いのでわかるのに時間がかかったけど、あのリズムはそうだよね」
山奈子は期待した。
ここに、曲を知っている人が居た。歌詞を覚えているという。
もしかしたら、足りないピースを埋めてくれるかもしれない。
「あ、あのっ」
気が付いたら、声が出ていた。
普段なら、迷惑だろうという事や、我儘を言ってはいけないという自制で、絶対に言わないこと。
然し、そんな理由で諦めて仕舞うことは、もう出来なかった。
勇気を紡ぎ、声を出す。
「良かったら……歌ってくれませんか!」
泣きそうな目を隠そうともせず、必死で。
「親友が歌うために練習していた曲なんです。本当は歌い手が必要で……」
綿雪の反応はシンプルだった。単純で早く、力強い言葉だった。
「ああ、勿論」
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