ポストアポカリプス・百合の破片(3)

 第二層、独楽こまを思わせる円周上に建てられた壁は要塞を思わせる。通路は一人分しか開けられておらず、門の上で監視カメラが黙ってこちらを睨んでいた。アイネは少し離れたところからそれを撃ち、ライムが煙草の箱ほどの端末で扉のロックを解除した。

「あんた、そこそこ慣れてるね」

 アイネは特別感情も込めなかったけれど、ライムは含羞はにかんで、

「ま、まあね。一応、何でもできるように教えられたから」

「その調子で頼むよ」

 軽くうなずき、アイネは煙草に火を点けた。ライムが欲しそうに口を開きかけたが、わかっていて無視をした。

 この娘は、とアイネは思う。じきに死ぬ。そのルートに、レールに乗ってしまっている。

 寂しがっていて生きていけるほど外界バラックは慈悲深い場所ではない。けれど人との係わりを完全に断って生きていくことも、ヒトである以上不可能だった。

 ややこしい世界だ、とアイネは煙草をふかしながら進む。

 石畳が延々と続き、道は広くなったものの高い壁は変わらず、ただその向こうには巨大な邸宅が見て取れた。たいていは前庭が広く、門の隙間からはよく刈り込まれた芝や赤々と咲く花が目を引いた。その名前が椿ということを、アイネは知るよしもなかった。

 二層に住む身分というのは、三層の住人と比較してAIウィンターミュートに「独創的価値を生む」人間と認められたものたちだった。科学者、研究者、驚くべきことに文化人の類も。

 しかし歌って踊る誰かも、確かに必要ではあった。アイネはミドルスクール時代、彼らが単純労働者の生産性向上に寄与する、という記事を読んだ。けれど真意は別のところにあることも察していた。ディセンバー社の支配体系を維持するためのガス抜き――「パンと見世物」の見世物としての役割――を果たすことで、労働者を盲目にする。快楽装置としての機能こそが生かされている意味なのだと、気づいていた。


 アイネは厭わしげに眉をひそめた。気づかない側も、気づいて道化を演じている側も穢らしいと思っていた。

 そんな苛立ちが気づかずアイネを早足にし、そのうちに二人は袋小路に行き当たっていた。街路は迷路のように入り組んでいるのだった。

 ライムが心配そうな小声で、

「ねえアイネ、ここのエッグネストの構造、知ってるの……」

「いや。でも二層から一層へのエレベーターは探してる。ダメならダメでいいけど」

「一層に、行くの」

 ライムが目を丸くした。そうだよ、と肩越しにアイネは捻れたような笑みを浮かべて、

「行きたくないならいい。あたし一人でも十分」

「だって、そんな装備持ってない……二層でも十分ジャンクパーツは拾えるでしょ」

 ライムの言葉は、真っ当な剥ぎ取り屋スカベンジャーとしては正しかった。

 一層からその先、コントロール・ルームへ向かうのならば強固なセキュリティが生きている可能性もある。コストパフォーマンスは決して良くない。それならば二層の適当な家に押し入って、適当な演算機械やモニターやらを盗み出すほうが手早く儲けられる、というのに。

「知らなきゃいけないこともあるし。それに、クライアントのご要望だから」

「アンタ、何者なの」

「難しい質問だね」

 アイネは飄々と答えて、腰のポーチに手を差し入れる。大型拳銃の影が現れ、ライムは身体をびくつかせたが、銃口はまるで違っていた。

 本来弾の撃ち出されるべき場所には銛の先に似た突具が光っている。ワイヤーガンだとか、フックショットと呼ばれるものだった。

 アイネは目を細め上層を見上げる。このエッグネストは外部からの侵入を想定していないのか、ちょっとしたアルミのフェンスが据え付けられているだけで鼠返しのような仕掛けはなかった。1メートルと半ぐらいだろうか、とアイネは目算する。下から覗き込むことはできないが、上からは監視することができる高さ。ディセンバーのやり方らしいや、と呆れを覚える。

「ライム、ちょっといい……」とアイネは手招きして、「持ち上げてくれない」

「壁を上るの?」

「この上からなら一層に飛べる。あんたは」とアイネは下を指して、「ここに残って何でも盗っていけばいい。帰ってもいい」

 迷子になったように、ライムの顔を憂いが過ぎった。けれどほんの一瞬で、彼女は頭を振り気丈に、

「わかった。探索しながら待つ。ここに戻って来ればいい?」

「照明弾でも打ち上げて」

 わかった、とライムは唇を噛んで、

「いいよ。足、掛けて……」

 膝をついたライムの、骨ばった肩に右足を、ついで重ねられた両手に左足を乗せる。華奢だな、とアイネは思った。ブーツの底でも、ライムの、機関義肢ではない人間の柔らかさを感じた。

「1、2……」

 3でアイネは伸び上がった。蹴られたライムの呻きが聞こえたが、それよりも壁の端に手をかけるほうが先だった。

 鈍い音がして、辛うじて指先がかかる。それだけあれば、残りは機関義肢の出力からすれば十分だった。あっさりと持ち上がり、アイネは細いコンクリートの上に身体を引き上げている。

「アンタ、機関義肢じゃない!」眼下で抗議の声が聞こえた。ライムは目を怒らせて、

「それなら駆け上がれたでしょ!」

「縦方向の動きにはあんまり強くないからね」

「嘘! どうせ燃料を節約したかっただけでしょ!」

 アイネは何も言わず肩をすくめた。よく見ればライムは肩を抑え、少し涙ぐんでさえいるようだった。

「悪かったってば」と、さすがにアイネも罪悪感を覚えて、「そっちが生身だなんて思わなかったし。取り分ちょっと増やしてあげるからさ」

「アタシが8だからね」

「6にしといてよ」

「せめて7!」

 ライムは子供のように唇を尖らせていた。

 こんなやり取りは久しくなかった。アイネは自然と微笑をこぼしながら、

「いいよ。ただし生きて帰れたらだけどね」

 答えた時には、既に視線は上層へ向きワイヤーガンの狙いを定めていた。

 蛇の頭を思わせる金具が放たれ、壁を掴む/身体が引き寄せられる。滑るように浮かんだアイネは矢にも似て、その勢いのまま上層へ飛び込んだ。

 ひゅっ、という風切り音を聞く/着地。アイネは転がって勢いを殺した。

 敵の気配はない、警報もない。肩口を払い/いつもの癖だ/立ち上がると、アイネはあたりに目を配った。

 一層は独特だった。二層に比べて質素で、それでいて洗練されていた。あらゆるものが機械的で、効率という法則が全てを貫いていた。

 白い球体の建物が清潔さを保ったままそこここに点在していたが、アイネは何の興味も示さなかった。一直線に中心、コントロール・センターへと歩を進めていた。

 奥にそれは見えていた。透明の自動ドアが、世界樹めいた塔への入口となっている。

 アイネは短く息を吐いた。心臓が強く肋骨を叩いている。

 怯えているのか? 

 自問に、まさかと嗤う。

 今回は届くかもしれないからだ。シラセから直々の依頼ということが、真実味を増す。『奴ら』が痕跡を残していれば、どこにいるかさえ突き止められる。そうなれば。


 あのひとを、ゆるせる。


 恍惚にも似た痺れ。アイネは唇を舐める。

 音を遠ざける耳鳴り。

 けれどそれで致命的なミスをするほど浮かれてはいなかった。扉の前に立つより先、少し離れた位置でサングラスに手をかける/起動するプログラム。

 今度は外扉を開くのとは次元が違った。アイネも手を動かしている。空中に緑のマトリックスとキーボードが現れ、アイネはそらでそれを叩く。マウスポインタがせわしく動き無数のグラフが現れては消える。オーロラの輝きにも似ている。

 アイネの脳内に埋め込まれた演算機関も駆動していた。脳髄の奥が熱を持ちはじめるとき、視界のグリッドラインに巨大な八面体が姿を現す。そこからは無数のトゲが飛び出していた。結晶体にも似ているとアイネは思う。

 つまりはそれこそが侵入対抗電子機器アイスの本丸で、守っているのは財宝庫の鍵。ただし、失敗すれば脳が焼ける。演算機関ごとショートしてヒトでなくなる。

 アイネは画面をゆっくりと回し、時間をかけて棘を走査スキャンした。ゴムのように変化し続けていて、しかし突拍子もないかと思われる挙動にも必ず法則が存在する。AIである以上、絶対の論理。

 一方では数式が蠢いている。問題は、とアイネは思う。どれを使うか。

 釣りと同じやり方だ。餌を撒き竿を選ぶ。ただし失敗は死だ。慎重に、海底へ引きずり込まれないように。

 まず試した旧式のプログラムは駄目だった。弾かれたような痛みが脊髄に走る。グリッドが一瞬赤くなったが、すぐにシャットダウンして事なきを得た。

 一度サングラスを外して汗を拭う。気づかない間に鼻先まで汗が滴っていた。悪くない緊張感だった。銃弾の雨を避けて走る時とは違う、繊細なひりつき。

 よし、よしとひとり呟いた。ラピッドのネットワークへアクセスする。

『アイネ、御用ですか』ラピッドの平坦な声が、落ち着かせる。

「そっちのドライブから『広東クアンマーク11』を引っ張る。立ち上げて」

『ネットワーク上での使用でよろしいですか?』

「まァ仕方ないよ。転送してもこっちのデバイスに容量がないもの。あたしもこれを使うとは思ってなかったけど」

 アイネは忍び笑いする。『承知しました』とラピッドは短く答え、画面の左下で100へのカウントが始まる。

「ラピッド、ネットワークのラグは?」

『0.2秒です』

「先手を打つしかないか」

 囮の侵入プログラム/ファイアウォール/ネットワークの状況をチェック。

 侵入暗号(エントリー・コード)は読み出せている。

「起動(ラン)」

 手品を始める。まばゆい迷光(ストレイライト)が一瞬視界を奪う。

 視点がぐっとアイスへ引き寄せられた。巨視化された針の鋭さ。けれどそれはアイネには届かずモーセのように割って中心セントラルへの道が開く。

 順調/数秒のみ。

 赤いアラートが画面の中央に飛び出す。耳障りなブザーも無視していた。

 左右から気まぐれに針が飛び交う。間欠泉を縫って進む。

 けれど隙間も徐々に縮まり始めていた。開かれた海にも時間制限がある。八面体の中、金色に輝く紡錘体(スピンドル)が見えなくなり始めている。

 特別製の、一回こっきりのアイスブレイカーでも保たせるのはわずかに数秒。その間に囮プログラムが潰された。ウィンドウがひとつブラックアウトして消える。

 うなじの毛が逆しまになる。圧死させようとする壁とアスカロンの鋭さを持つ槍。

 本能は危険を訴えている。アイネは手をのばす、防御プログラムのウィンドウが三重へと増える。とうに限界を迎えているデバイスは焼けた鉄の熱さ。

 しかしそれも数秒で潰える。狼に追われる心象風景。

 視界が潰されたように赤くなる。血液が沸騰しそうな熱さで逆流している。


 暗転。


「ラピッド、プログラムは……」

 アイネはあえぐように呼びかけ、それこそが勝利の証だと気づいた。

 画面にノイズが走る。二度、三度と……その後に立ち現れる、いつものグリッドライン。緑が基調のデジタル世界。

 アイスは活動を停止していた。まん真ん中に見えるダイヤモンド。輝ける八面体。

『プログラムの処理は完了しています。アイネ?』

「……あぁ、オッケー。パーフェクトだよ、ラピッド」

 呟きながら、アイネは背中にどっと汗が流れ出し、誰かに引きずり下ろされるかのような疲労感を覚えた。ただの数分で、指先が震えそうなほどに摩耗していた。酷使した脳と演算機関が、身体から糖をごっそりと奪っていた。重い吐息が漏れた。

 何か口に入れたくてポケットをまさぐるが、飴のひとつも出てこない。箱の固い感触/煙草に行き当たって、口の乾きに逡巡したが結局慰みに一本を抜き取る、今度はライターをおぼつかない手で探していると、

『アイネ、急ぎコントロール・タワーに入ったほうがよいかと』

「わかってますよ、と」

 ラピッドの人らしくない正論。ため息混じりに身体を動かす。

 一度深呼吸をして、自動ドアの前に立つ。よく磨かれた曇りのないガラスが、アイネ自身を映し出していた。額に張り付いた前髪を手櫛で整えながら、この女は卑しい目をしているなと思う。発情期の犬め。

 盛ったような呼吸の合間に、映し身の身体が痙攣した。

 反応しないセンサー/過る一抹の不安。

 完全制圧オールグリーンのはずだが。反射的にホルスターへ手を伸ばした、それをなだめるように音もなく扉が開いていった。「お待たせいたしました、こちらへどうぞ」

 慇懃な口調は、高級レストランの従業員を思わせる。

 さあ、とアイネは小さく息をついて、足を踏み出した。

 ここはエッグネストの頭脳。外界バラックの人間が侵すべからざる、聖域。

 右手側にはコンソール。エッグネストの環境管理、あるいは三層VRシステムの制御盤。その上方には巨大な強化ガラスの窓があり、眼下にエッグネストの全てを見通すごとができる設計だった。神の目、監視塔。見られずに見ることのできる場所。

 仮に三層、工場地帯で暴動があったとしても――その予兆をAIが察知して警報アラートがかかるだろうが――即座に対処できる。

 アイネは片隅のガンロッカーをちらりと見やった。半分ほど開いた扉、そこから対人用の制圧銃ライオット・ガン外骨格義肢パワードスーツが顔を覗かせている。

 アイネは手袋をはめ直し、仕事に取り掛かった。次々にパネルを開き、強盗のような雑さで記録媒体を拾い集める。数点のSSDと高度演算ハイエンドチップがジャケットの中へ押し込まれた。中には焼き付いたものもあったが、修理すればいい値段で売れるなと剥ぎ取り屋スカベンジャーの目利きが自動的に働いている。

 事務的に手を動かし続けた。すぐに解答へたどり着くことが怖いような気さえしていた。あれほど彼女を追い続けてきたくせに、


 ――次に会ったら、殺さないといけないから。


 立ち眩む。

 怯えている自分に気づいている。気づかないフリをして、なお黙々と作業に勤しんだ。そのうちに、ふっと■■の姿が浮かび上がればいいのになどとムシの良いことだけを考え続けて。

 だから。

 不意打ちに、息が止まるかと思った。

 何の気もなしに上げた目が、書類棚を捉える。

 その後ろ、隠すようにコンピューターが一台、置かれていた。旧世代の遺物と言っていいブラウン管、明らかなスタンドアローン。時間の流れが凍ったような異質さに、言い知れぬ寒気が走った。

 急いでポーチをまさぐり、いくつかのケーブルを引っ張り出す。興奮で震える手を止められなかった。聖杯を見つけてしまったような悦びと慄きが全身を支配していた。これがシラセの推理で、長く焦がれ続けた彼女に繋がっていると、訳のない確信があった。

 5年待った。19年しかない人生において30%近い時間。あまりに長い。どうしてもころしたくてたまらない彼女の幻が、肉を持ってそこにいる、かもしれない。

 サングラス型デバイスと古びたコンピューターを入り乱れた配線で接続する。強引な給電は、けれども実った。

 鈍い唸り声を上げてPCが立ち上がる。黒い画面に『HOSAKA』のロゴが白地で現れ、認証が要求された。アイネは小さくうなずき、書棚を漁る。ひときわ汚れた、つまりよく使われたであろうファイルをめくって――そう、これだ。パスワードにソフトウェア操作マニュアル。

「アナログが一番安心、ね」

 くすりと笑ってエンターキーを叩く。認証確認ログイン

 古めかしいインターフェイスの立ち上がりを待つ間、アイネは今度こそ吸いそこねた煙草に火を点けた。煙を深くまで吸い込み、ゆっくりと吐き出す。めまい混じりの酩酊感が訪れて、心地よさが身体中を満たしていく。

 美味いと感じるようになったのはいつからか。思い出せなかった。そもそも記憶にないのかもしれない。ことによると家に置いたHDD=外部化した視覚記録の中には存在しているかもしれないが、データの劣化で読めないかもな、と思う。

 外界(バラック)は空気も悪ければ水も汚染されているのに、


 ――よくもまあ、わざわざ汚れた煙を吸ったものだね。


「そんなこと言わないよ、あのひとは」

 意図的に言葉にして、アイネは打ち消した。都合のいいコラージュはきっとニコチン以上に毒だ。煙草を吸い出したのは教育用エッグネストミドルスクールを離れてからで、事実としての記憶など存在しないのだから。

 手が遊んで耳元の髪を掻き上げ/金属の冷たい感触。

 ピアスだと、アイネは見なくてもわかっていた。右耳だけ――もう片方は。

 PCの画面に変化があって、それがアイネを我に返した。溺れかけた者がやるような素早さでマウスを握り、モニターを睨みつける。異質なフォルダから/文字化けしている/フォルダへと辿っていく。

 やがて行き着いた底には、見たことのない拡張子のファイル。けれど困惑することはない。その扱いもまた、克明にマニュアルが教えていた。

 アイネはデスクトップへ目を写し、復号化ソフトを起動する。書類は時々掠れていたり黄色い変色で読みづらかったが、それでもわかりにくい部分にはポールペンの細かい注釈がつけられていた。

 アイネはそれを記した誰かの息遣いを覚えた。几帳面な白衣の人影が、ぼんやりとした蒼さで浮かび上がってくるようだった。

 そのうちに、新しいファイルがモニタに表示されはじめている。デコードされた先から転送し、けれどその完了を待っていられなかった。アイネはサングラスをかけ、物狂わしい手つきで中身を見ていった。

 ほとんどがテキストファイルだった。音声オーディオや動画もいくつかあったが、今は再生できない。情報の断片から推理するに、これらは住人の行動ログらしかった。健康状態、労働評価、そこから導き出される仮想空間上での収益……そう推測される数字が延々と続いていた。

 三層の住民は一般的に週3~4日の単純労働に従事し、余暇をVR空間で過ごす。空間の少ないエッグネストで精神的な健康を保つ有益な方法だ。もちろん全てディセンバー社の管理下においてという留保つきだが。

「……戦闘ログぐらいあってもいいんだけど」

 アイネは苦虫を噛み潰した顔で呟く。いなくなった人間たちの生活データなど、『ルプス』の動きを知りたい彼女にとっては何の価値もなかった。社会学者やクライアントにとっては有意義だとしても。

 けれど、それでも何かあるはずだとアイネは目を走らせていく。砂漠のような羅列。単調な、意味があるかさえわからない作業。それが延々と続き。

 だからこそ、景色の変わり様にはすぐに気づいた。

 ある日付、ちょうど数ヶ月ほど前からFL――フラットライン、つまりVR空間上の死――と、FS――強制終了シャットダウンの値が指数関数的に増加していた。

「三層で何かあった?」アイネは直感のままに呟く。「今どきの労働者階級プロレタリアートが何をするか……」

 思考を巡らせはじめたその時だった。地響きと共に、直下型地震のような、突き上げる揺れがコントロール・タワーを襲った。

 ケーブルと共にサングラスが飛ぶ。慌てて手を伸ばし、アイネは空中でそれを掴んだ。PCが隣に落ちて騒々しい音を立て、書棚からファイルが滑り落ちてさんざめき、嵐のように紙が舞った。竜巻に巻き込まれたかのようだった。

「お楽しみ中だってのにさ……!」とアイネは悪態をつきながら、すでに動き出していた。傾いた床を滑っていき、扉に行き着いて外へ飛び出す。この短い間に、右手には銃把が握られていた。

「おいライム! 何が……」

 叫んだその時、目の高さに煙と赤い光が打ち上げられている。線香花火を思い起こさせもする。照明弾。

 アイネはそれを目印に一層の縁へと走り、眼下を睨んだ。

 少女の姿はすぐに見つかった。壁に隠れる姿は被食動物のそれ。怯えに蒼白い唇がわなないていた。

 やがて瞳が霞む灯台のように頼りなくゆらめき、アイネに行き着く。形相が必死に、綱を手繰り寄せる遭難者へと色を変えて、

「アイネ! LAWSが!」

「……起床なさったってこと、か」

 鋼鉄の蜘蛛が、二層へと這い上がってきていた。足まで含めると10メートルは下らない。悪趣味、とアイネは呟いた。

 生物であれば額にあたる場所に赤い一ツ目/つまりはレーダー。口には口径がわからないほど巨大な砲の先端が見え、機銃も顎下に確認できた。人ひとりを肉塊とするには十分すぎる兵装だった。 

「ねえアイネ! どうするの! 助けてよ!」

 ライムが目を剥いて叫んだ。恐慌に陥っていた。

 AKを持ってはいるが、あの装甲を前にしては豆鉄砲でしかない。見るも無残に手が震えていた。

 静止していた蜘蛛が動き出す。噛み砕かれたような音と共に防壁が押し潰され、エッグネスト全体が震えた。アイネはフェンスを掴み凌ぐ/同時、ライムの悲鳴。

 なぜセキュリティが発動してしまったのか。あたしじゃないと言い訳じみた思考の靄がかかりかけて、そんな場合か、とアイネは振り払った。

 どうするの。その通り。生き残るためには。

「ラピッド、聞こえる……」とアイネはすぐさま通信を飛ばす。「ここまで来られる?」

『現状では不可能です、アイネ。進入路がありません』

 それなら次の手。頭を回せ、とアイネは自分を叱りつける。

 しかし、答えを見つけるよりも早く。

「くそぉっ!!」吠えたのはライム。アサルトライフルを構えて飛び出す。目が、血走っていた。

 マズルフラッシュ/ばら撒かれる鉛弾/甲高い音/傷一つない装甲。

「馬鹿っ!」

 思わずアイネは叫んでいる。

 まだ狙撃されていない以上、蜘蛛の目を誤魔化す手段はあるはずだった。けれど、ああして直に攻撃してしまえば。

 くぐもったモーターの音と共に、8本の足が小器用に動く。赤い目がぎょろりとライムを向いて、真正面から彼女を走査スキャンした。

 あれは猟犬の類だと、アイネは知っていた。一度敵と認識すれば、生体反応が消えるまで追えとプログラムされている。このエッグネスト内では、もはや隠れ通すなど不可能だった。

 蜘蛛の口が一段と大きく開かれた。咆哮にも似ていた。

 次の瞬間、球のような炎/轟音。耳をつんざく。アイネは反射的に伏せ、奥歯を噛んで堪えた。

 主砲が放たれたのだとわかる。砲弾は防壁など軽く破る。紙のように。

「ライム! 無事……」

 起き上がりながら呼びかける、その声が中途で掠れ消えた。

 ライムは瓦礫の上に転がっていた。打ち捨てられたマネキンだった。

 傾いた首に顔は見えず、それよりも鮮烈な赫が意識を独占した。千切れかけた右腕、その断面は果物に似た血肉。過ぎった記憶が一瞬自分自身と重ね合わせて吐き気を呼び起こし、喉の奥に酸を覚えた。

 息はまだあるか、と感情的な問いが浮かび上がったが、無意味だと打ち消した。ライムと共に逃げ切ることは、もう考えられない。

「でも、アイネ」仕切り直した脳裏で自身の声がささやく。「想像できたんじゃないの、こうなることは。子鹿みたいな子だったじゃない。飛び出しちゃうでしょ、そりゃ」

 つまり、あたしは――あの子が囮になれば、と。

「うるさい!」

 アイネは走り出していた。まだライムは死んだと決まったわけじゃない。だから、あたしに出来ることを!

 第一層の底面は傾いて急坂になっていたが、そこを強引に駆け上がった。頂点で跳ぶ。蜘蛛の直上だった。

 無駄だとわかっていながら、腰のホルダーから手榴弾を抜く。狙いすまして放り投げた。一撃で壊せなくとも、時間稼ぎなら!

 眼下へ、アイネに先んじて黒い塊が落ちていく/対電子機器用手榴弾ジャマーグレネード/蜘蛛の目の前/炸裂/鉄塊の硬直。

 落下の風を受けながら、いける、とアイネは確信する。効果は5秒もない、けれどそれだけあれば十分。

 アイネは中空で態勢を整える。落下点はLAWSの背/迫る鋼鉄の装甲/四肢を感覚/突き上げる衝撃。機関義肢のサスペンションが抗議の唸り声を上げながらもそれを吸収している。

 アイネは呼吸を忘れている。見開かれた瞳が、すぐ先にあるLAWSのレーダーを捉えている。背中のM4? いや、それでは遅く、弱い。滑り込むようにしながら蜘蛛の頭へ、膝下あたりに目が見える。

 小さく、アイネは呟いた。

「コード3X――『限定解除オーバードライブ』」

 両腕、両脚。生身への接合部がともに強烈な熱を持つ。同時に、バッドトリップにも似た世界の歪み。凄まじい吐き気が押し寄せる。だから何だ、とアイネは気を吐いた。

 中腰から右腕を大きく引く/貫手を、LAWSの赤い感覚器官へ叩き込む。

 ハラワタを叩き潰したような、奇怪な音がした。一瞬の抵抗があって、その先はゼリーに手を突っ込んだような感触。

 引き抜いた機関義肢は半壊だった。人工皮膚は裂け、鉄の腕があらわになる。前腕部はひしゃげていた。けれどアイネはそれをもう一度叩き込んだ。肩口までめり込むほどに、強く。

 蜘蛛が痙攣した。しまった、と思うのは一瞬遅い。反応できず平衡を失う。左手が空を切り、鋼鉄の殻から投げ出される。

 受け身を取る間はなかった。鈍い音/火花が散るような衝撃。痛みより先に脳が揺れる。一瞬意識が白く飛んだ。

 されど身体が動くのは、経験の賜物か。夢遊病のように立ち上がり、二、三歩とよろめいたところで視界が戻り、気づく。目の前には銃口があった。毛のようにひしめく機銃。

 咄嗟に跳んでいた。驟雨めいた銃火が、今しがたまで立っていた場所に撒き散らされ、さらにアイネを追って執拗に放たれる。着地の瞬間には再度地を蹴っていた。身体を投げ出すようにして、入ってきた橋の通路へと逃げる。

 状況を整理するだけの余裕はなかった。ただ身体の動くままだった。銃弾の熱を時折覚えながらも急所は避けた。獣じみた感覚と反射、それを可能にするほどに強い演算機関が脳内でフル稼働していた。

 けれどそれも終わりに近かった。機関はともかく、駆動させる脳自体が壊れようとしている。内側からハンマーで殴られたような痛みに、アイネは舌を噛みかけた。爆発しそうな思考の中、懐をまさぐった左手が取り出したのはワイヤーガン。無我夢中に、外壁の方向を目掛けて撃った。

 硬い音と手応え。壁に突き刺さったアンカーが、アイネを手荒に抱き寄せた。

 勢いのままに跳躍/タイミングをつかめない。あやふやな視覚が距離を見誤らせ、アイネは肩口から壁に叩きつけられて呻いた。

 だが、出口は目の前にあった。這いずった。感覚の鈍さに反して、残った左腕が力強くグレーチングの溝を掴んで進んだ。

 自動ドアが、空気の漏れるような音を立てて開く。アイネは喘ぎながら転がり出た。

「ラピッド……」

 絞り出すように呼んだ、それがアイネ自身の耳に響くより前に、エンジンの音が聞こえていた。従順な相棒は手の届く中空に浮かんでいた。

『申し訳ありません、アイネ』ラピッドが事務的に言う。『着地する幅がありません』

「わかってるわよ、そんなの……」

 かき消すように、背後で轟音がした。撃ち込まれたらしい砲弾が、壁をひしゃげさせている。まだ諦めてくれないか、とアイネは呟いて、奥歯を噛みながら立ち上がった。手すりにすがるようにして向こう側へ乗り出す。

 手が泳いだ。アイネはコンバットスーツの滑る音を聞く。

 あ、と薄く開いた口が呟く/暗い水面/それを横切るなにか。

 アイネは強かに顔を打ち付けた。クロスロードのシートだった。落ちかけたアイネに、まるで手を差し出すように、母親が胸に抱くようにラピッドが滑り込んでいた。

『想定の範囲内でした』ラピッドが淡々と告げた。『怪我はありませんか、アイネ』

「は、怪我……ね……」

 呟いて、笑う気力もなかった。ただ一言、

「ホームへ」

 と言ったきり、アイネの瞳が閉じ、首がすとんと落ちた。

 クロスロードは緩やかに上昇し、旋回する。その背中でまたひとつ、雷鳴のような砲撃が聞こえた。

 黄昏の空が、血の朱に染まっている。

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