第20話

 航はその日、護衛の仕事をしていた。ドッグに所属することになった航は、キャットの解散に納得がいかないままだったが、かといってドッグに迷惑はかけられないと、渋々ながらも仕事をしていた。

 その日の護衛対象は、海外からやって来た要人だった。木島汐という、海外を拠点に活動している政治家の息子だ。モデルかのように端正な顔立ちをしている長身の男である。

「日本って、こんなに綺麗なんですね」

 ホテルの中を歩きながら汐は言った。豪華絢爛な装飾が施されたホテルの館内は、ここが日本とはかけ離れた土地だと錯覚させるほどに美しかった。

「どこもそうなんでしょうか?」

 海外生まれながら家庭では日本語が共通語だという汐は、流暢な日本語で聞いた。

「いや、そうではないですよ。場所によります」

 答えたのは航と一緒に護衛をしているヨリだった。ドッグのメンバーで、航と同い年。おしゃべり好きな女性である。

「落書きとかもあったりしますか?」

「ええ、トンネルの中などはスプレーで落書きされていたりしますね」

 へえ、と感心したように汐は言った。

「汐さんは、私たちのことを知っているんですか?」

「私たち、というのは?」

動物アニマルのことです」

「知ってますよ。治安を守ってくれるんですよね?」

「まあ、間違ってはないですけど、軽蔑とかはしないんですね」

「軽蔑することなんてないじゃないですか。やっていることは警察と同じですよ。それを肩代わりしてくれているんですから、尊敬しています」

 汐は胸に手を当てて恭しく頭を下げた。それを見たヨリは嬉しそうにはにかんだ。

 汐と航とヨリの三人は、ホテルの出入り口に着いた。目の前に停まっている車に汐を乗せたら、任務は完了。あとは後任のメンバーに任せればいい。

 航が扉を開けてさっと辺りを見回した時、全身を黒い服で身を包んだ、一人の男が近づいて来るのに気がついた。マントのようなものを羽織り、顔はフードで隠している。

「止まれ」

 航がそう言った瞬間、フードの男は歩調を速め、マントの下からナイフを取り出した。

「止まれ!」

 航は叫びながら男を止めようとした。しかし、男は航の伸ばした腕を避けると、ホテルの中へと入って行く。汐はヨリに押されるようにして、来た道を戻っていた。

 ずんずんと中へ入っていく男を、航は追いかけ、その腕を取った。男は振りほどこうとするが、力が入っていない。

 男は呆気なく床にねじ伏せられ、捕らえられた。ヨリと汐の姿は、廊下の角の向こうへと消えていた。

「お前、何が目的で近づいた」

 航がフードをはぎ取ると、男は顔を背けた。

 航はその後頭部を鷲掴みにして、顔を自分の方へと向けた。

「お前……」

 佑だった。目の下にはクマが色濃く残っているうえに、少し痩せたようにも思える。

「何してんだ……こんなところで……」

 狼狽した航は、思わず押さえ込んでいた力を弱めてしまった。

 その隙に、佑は航を押しのけるようにして立ち上がり、出入り口から走り去っていった。

「航!」

 奥からヨリと、汐が戻ってくる。

「さっきの男は!?」

「……申し訳ない、取り逃がした」

「マジかぁ……まあ、汐さんにはけがはなかったし、後任の人に引継ぎをして捕まえてもらいましょ」

 汐さん行きますよ、とヨリは汐を連れて出入口へと向かった。

 航は何が起きているのか理解できずに、立ち止まったままだった。


   ×   ×   ×


 翌日も、佑は汐の護衛担当だった。汐に与えられたホテルの最上級の部屋の前で、航とヨリは待機をしていた。

「始末書書かされるとは思わなかった……」

 昨日の取り逃がした件で、二人は始末書を書かされていた。

「まあ、最重要といってもいいクラスの人だし、仕方ないっちゃ仕方ないけどねぇ。でも、けがさせなかったからいいじゃんと思うけど、私は」

「申し訳なかった」

「あ、いや、責めてるとかじゃなくてさ。ただそこまでやるかって話で」

 しばらくヨリが愚痴をこぼしていると、突然、部屋の扉が開いた。

「あれ、どうしたんですか?」

「航さんいますか?」

「いますが、何か」

「話し相手になってもらえません? 一人じゃ退屈なので」

「え?」

 航が思わずヨリを見ると、「いいじゃん、たまには。行ってきなよ」と返された。

「お願いできませんか?」

「ええ……まあ、いいですが」

 断る理由もなかった航は、汐に呼ばれるまま、室内に足を踏み入れた。

 今の生活を続けていれば、間違いなく入ることのない部屋は、どこかの王宮にある部屋なんじゃないかと思うくらいに広く、綺麗だった。

 所在なげに佇んでいた航に、汐はソファに座るよう促した。

 航がソファに座ると、汐も向かいに腰を下ろした。

「突然呼び込んですみません。実は、話し相手になってほしいというか、ちょっと、聞きたいことがあって」

 汐はそう言うと、じっと佑を見ながら言った。

「昨日の人、知ってますよね」

 ドキッとした。

「昨日の人とは、誰のことですか」

 平生を装って聞くが、「昨日、襲撃に来た人のことです。分かっていますよね」と汐は返す。

「取り逃がした、と言った時、佑さんは視線を逸らした。自分の落ち度を反省しているのかと思ったんですが、それにしては顔つきが違うように見えた。何か戸惑うような、混乱しているような表情でした。ヨリさんは、多分気づいてなかったんでしょう。すぐに出入り口の方を警戒していたので、佑さんの表情まではっきり見ていたわけではないと思います」

 汐はぺらぺらと言葉を並べていった。

「どうでしょう。間違っていますか?」

 呆気に取られていた航だったが、その質問で我に返った。

 どう答えるのが適切なのか考えていると、「誰にも言いません。本当のことを教えてください」と汐は言った。

「……本当のことを聞いてどうする」

「どうもしません。何か事情があるなら、あなたを助けたい」

「助けるって、助けられる義理はない」

「私は命を守ってもらいました。それくらいのお返しをするのは当然です」

 汐の目からは、ふざけているような様子は見て取れなかった。

 航はその視線に負け、観念したように話し始めた。

「……昨日襲って来たのは、前のリーダーだった奴だ。それ以上でもそれ以下でもない。もう関係ない奴のことだ」

「関係ない奴のことだったら、あんな混乱したような顔はしません。大切な人なのではないですか?」

 航はため息をついた。

「……人を見る目があるのは、あいつと一緒だな。ただ、あいつは直感だったが、あんたは理論づけて答えられる。あいつも、そういう奴だったらよかったんだけどな」

 航は佑について話した。幼馴染で、一緒にキャットという組織で仕事していたことや、突然解散命令が出されて、以降、行方をくらましていること。

「僕を襲ったことも、何か理由がありそうですね」

 そう言ってから、汐は思索に耽った。航もつられるようにして佑のことを考える。

 突然の解散命令から、行方をくらまし、今、どこで何をやっているのか。一切分からず、分かりそうな情報筋もない。

 ただ頭の中を巡るのは、紹介状を置いて出て行った時の表情だった。疲れているようにも見えたが、何かを決意した目をしていたようにも思う。

 コンコン

 ノックの音で思考が妨げられた。

 汐が立ち上がり、広い廊下を通って、扉を開けた。

「あのぉ、そろそろ交代の時間なんですけどぉ……」

 ヨリが邪魔して申し訳ないというように言った。

「ああ、そうでしたか。すみません、長々と」

 航は仕事中だということを思い出して、急いで廊下に出た。

「変な話を聞かせて申し訳なかった」

「いえ、聞いたのは僕なので、何も気にしないでください」

 待っていた後任に護衛を引き継ぐと、航とヨリは拠点へと戻っていった。

 道中、どんな話をしたのかとヨリに質問攻めにされたが、そのどれもをはぐらかし、佑の話は一切しなかった。

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