第45話 メンヘラちゃんは戦慄している
【中性的な女
「おいおい、お嬢ちゃんが泣くことないだろう」
「だって……そんな…………!」
言葉にならない感情が、喉につかえて私は何も言えなかった。ただでさえ、もう間もなく死ぬ人と話していると嫌でも感情が押さえきれないのに。
「本当に優しいなお嬢ちゃんは。女房にそっくりだ」
私の頭を、雪憲さんは震える手で撫でてくれた。
「俺が家に帰ってこない日も、そうやって泣いていたのかと思うとな。今でも辛いよ」
もうこれ以上その話をするのはやめてくれとさえ思った。涙が止まらない。これ以上泣いたら眼が腫れてしまう。
「だからって訳じゃないけどな、お嬢ちゃんのことを大事にしてくれる人を見つけないと駄目だぞ。俺みたいな男じゃ駄目だ。人間は見てくれじゃない。心が大事なんだ」
その言葉が私になにか、思い出させるような感覚を与える。
しかし、何も具体的なことは思い出せない。
「……はい、ありがとうございます」
私が涙でぐちゃぐちゃになっている中、少しだけ笑顔を見せると雪憲さんも笑ってくれた。
「お、可愛いじゃないか。そっちのほうがいいぞ。ゴホッ……ゴホッ……はぁ……はぁ……俺はもうすぐ女房のところに行ける。やっと。そう思えば何も怖くないだろ? ……まぁ、俺は地獄に落ちるかもしれないけどなぁ……」
死後の世界なんて信じていないけれど、それでもまたやり直せるなら、どうかやり直してほしい。
「天国に行けますよ。奥さんと、やり直してください」
「あぁ、ありがとうな」
雪憲さんは、消えそうな笑顔で私に笑いかけた。
「悠!」
私を呼ぶ声に振り返ると、そこには隼人がいた。
「探したぞ……さっきはすまなかった」
隼人が気まずそうに謝ってくる。
「……別に。もういいよ」
私もいつまでも怒っていても仕方がない。それは頭では分かっていた。私は涙を自分の袖で拭った。
「なんだい、お嬢ちゃんのこと騙してたのは雨柳先生だったのかい?」
「え……? えぇ」
本人を前に肯定するのは気が引けたが、嘘はつけないので正直に言う。
「お嬢ちゃん、辞めた方がいいぞ。この先生は色話が絶えない遊び人だぞ」
「なっ……!」
隼人が雪憲さんを目を見開いて見た。なぜそんなことを知っているのだろうという目だ。
「先生、泣かせたら駄目だよ。お嬢ちゃんが可哀想だろう」
「寺田さん……からかわないでください」
そこで雪憲さんは寺田という苗字なのだと知った。隼人は気まずそうに自分の髪の毛を触り、そして語り始める。
「もう隠すこともないが……確かに私は遊び人だった。だが、今はもうお前だけだ。他の女はどうだっていい。本当だ。信じてくれ」
その様子を見ていると、それは嘘には見えなかった。本当に申し訳ないという気持ちが伝わってくる。それも、私が騙されているだけかもしれないけれど。
「もういいって。解っているから」
「お前が解っているよりずっと、私はお前のことに真剣なんだぞ」
追い打ちでそんなことを言われ、私は面食らった。気恥ずかしい。まして隼人の勤めている病院で、看護師さんも見ている上に、隣に雪憲さんもいる。
「おぉ、先生かっこいいね。ちゃんと悠ちゃんを大事にしてやらないと駄目だからな。俺が保証する。この子はいい子だ」
雪憲さんはそう言って私の肩をパンパンと強めに叩いて奮い立たせた。
その力が、精一杯の力だったのだろうか。精一杯と言うにはあまりに弱々しい力だった。
「あの……ありがとうございました。私もう一回きちんと話してみます」
「あぁ、そうした方がいい。また話聞いてやるからいつでも言ってくれ」
「はい、またお話付き合ってください」
「……そうだな」
私は雪憲さんにお辞儀をして、挙動不審の隼人と一緒にたかやさんの病室に向かって歩いた。気まずそうな隼人に、私は雪憲さんのことを聞いた。
「ねぇ、隼人……」
「な、なんだ?」
何を切り出されるのかと、少しびくびくしているような返事だ。その様子を見て、周りの看護師さんたちはクスクスと笑っているのが見えた。
「雪憲さん…………寺田さんて、余命あとどのくらいなの……?」
隼人は暗い顔をする。
「……あと半年ももたないとみている」
「…………そっか」
本人の申告どおり、約半年程度の余命らしい。雪憲さんは『いつでも』と、言ってくれたけど、その『いつでも』はきっと、私にとってはとても短い間になってしまうんだろうなと私は思った。
もう、二度と話ができないのかもしれないと私は心の中で思った。
――どうか、天国で奥さんと幸せになってくれますように
死後の世界なんて信じてないのに、そう祈らざるを得なかった。
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