第44話 メンヘラちゃんは帰ってきた




【メンヘラゴスロリ娘 亜美あみ


 心臓が、はじけ飛びそう。


 ――自分の家に来るのって、こんなに嫌な感じがしたんだっけ? 


 家に帰るのは本当に怖かった。辛かった。苦しかった。お姉様がいると思うと、お兄様がいると思うと、パニックになってしまって、まともに受け答えができなくなってしまう。幼少期に植え付けられたトラウマが蘇って、本当に苦しいし、辛い。

 でも、これ以上ユウ様と離れている方がずっと辛い。だから勇気を振り絞って亜美は家に帰ってきた。

 ユウ様が亜美の事、思い出さなくても亜美はまたユウ様と思い出を作りたい。何度でも。ずっと。

 ユウ様の記憶がなくなったのは亜美のせいだから。ちゃんと、ごめんなさい言わなきゃ。


 ――でも、怖いです。手が震えます……


 何度も何度も心の中でユウ様に祈る。

 亜美は懸命に勇気を振り絞って自宅のインターフォンを押した。


「はい、雨柳です」


 栗原の声に、少し安心する。栗原の声だけには安心できる。でも、栗原はお兄様の味方だから、会わせてもらえるかどうかはわからない。だけど、栗原はお兄様には逆らえないけど、亜美にも逆らえない。強引に亜美が入ればそれを止めることはできないはず。


「栗原、開けて。亜美よ」

「亜美お嬢様!!」


 栗原はいつも、亜美が家に帰ると慌てて飛んできてくれる。栗原は間もなくして走ってやってきた。


「お嬢様、よく帰ってきてくださいました」


 少し、涙ぐんでいるような栗原の顔。ユウ様が言っていたことを思い出す。「ご家族の方が心配するから」という言葉。それでも、亜美は素直に従えなかった。

 その結果がこれだ。

 亜美はその後ろめたさで潰れそうになる。


「……ユウ……様は?」

「ユウ……あぁ、松村さんでしたら、今隼人お坊ちゃまの病院に一緒にいってらっしゃいます」

「…………はぁ……っ」


 緊張の糸が切れてしまったかのようだった。

 ずっと張りつめていたのに、勇気を出してきてみたらいないなんて。でも逆にそれは逃げ道でもあった。

 心臓が止まってしまいそうなくらい、緊張していたのに。


「……いつ頃帰ってくるか……解る?」


 栗原は外門を開けて、亜美を中に入れてくれた。


「どうでしょうか……何時になるのかまでは存じ上げませんね」


 ユウ様が帰ってくるまでの間、ずっとこんな落ち着かない気持ちでいっぱいになりながら待つなんて……。

 でも、会いたいです。もう待っていられません。ユウ様に会えなかった時間は、まるでこの世がおわってしまったかのようでした。

 だからこそ自分の意思で、久しぶりに自分の家に帰ってきた。

 家にいると嫌な思い出ばっかり思い出してしまう。本当は、こんな家にいたくなかった。亜美には見合わない程大きな家。広い部屋だと落ち着かなくて、亜美はぬいぐるみを沢山おいて部屋を狭くしていた。


 ――お父様とお母様に早く帰ってきてほしい


 お父様とお母様は亜美に優しくしてくれる。両親がいるときはお兄様もお姉様も亜美のことをイジメたりしないから。


 亜美がリビングのソファーで、栗原の入れてくれる暖かい紅茶を久しぶりに飲みながら少し落ち着いていた。やっぱり栗原が入れてくれる紅茶は美味しい。


「あんた、ようやく帰ってきたの?」


 後ろから、この世で一番聞きたくない声が聞こえた。

 その恐怖で持っていたカップを落としそうになる。亜美は固まった。その声のする方を振り返りたくなかったし、固まった後に手が震えてきた。カップに入っている紅茶が手の震えと同調して震える。


「何よ、久々に会ったのに無視する訳?」


 律華お姉様が亜美の向かいのソファーに座った。




 ***




【中性的な女 ゆう


 私は病院の病棟のフリースペースに座って、そこから見える外の景色を見ていた。

 病院の匂いは少し苦手だ。

 両親を看取った場所が病院だったからかもしれない。

 このなんとも言えない消毒液と不自然な清潔さを無理やり作り出しているこの匂いが、どうしても好きになれない。


 ――死の匂いだ……


 これからどうしよう。隼人からも、たかやさんからも逃げて、記憶もなく。何もかもなくしたみたいで不安だ。

 これからどうしたらいいか、ほんの一瞬で解らなくなってしまった。

 怖い。

 何も覚えていないのがこんなに不安になるものなのだろうかと改めて思った。

 身体を前に倒して私は床を見つめた。髪の毛が私の横顔を隠す。どうしたらいいか、解らない。頼れる人もいない。

 記憶があってもなくても、頼れる人なんて、この世に存在しないのかもしれない。

 結局、人間最後は独りになってしまうんだって解っている。

 私がしばらくそうして悶々と考え事をしていると、点滴棒をガラガラと引いておじいさんがやってきた。


「お嬢ちゃん、隣座ってもいいかい? ゴホッ……ゴホッ……」

「ええ、どうぞ」


 おじいさんは咳をしながら、ゆっくりと私の隣の椅子に腰かけた。


「どうした、泣きそうな顔して。不幸でもあったのかい?」

「…………不幸と言えば、そうなのかもしれませんね」


 自分の記憶がないことは、不幸なことだろうか。

 思い出したくもないことを忘れていられるのは、ある意味幸せなことかもしれない。


「そうかい……若いのに大変だな」

「私なんか……貴方のほうが辛そうじゃないですか」


 私はおじいさんの方を向いた。鼻からチュ―ブを入れていて、点滴を腕に繋げている。

 それも、腕に直接刺しているわけではなく、腕に血管のバイパスを作っていてそれを繋げているようだった。

 かなり長期にわたって点滴を打っている様子が見て取れた。


「あはは、ゴホッ……俺はもう長くないんだ。辛いことなんか何にもないさ」


 下手に、慰めの言葉を言うのはどうなんだろうと私は言葉を選んでいるうちに何を言っていいか解らずに黙ってしまった。


「俺はあと半年もしたらこの世からいなくなる。未練もない。ただ、お嬢ちゃんが泣きそうな顔しているもんだから、おせっかいでね。話でもしてくれないかと思って」


 弱々しくその老人は笑った。

 なんて優しい笑顔なんだろう。なんて美しい笑顔なんだろう。私はそう思った瞬間涙が溢れてきた。自然に、気づいたら涙が頬を伝っていた。

 なんで、こんな美しい命が死にいくのに、この世のあらゆる汚いものは声を大にして叫び続けているんだろうか。


「あっ……ごめんなさい」


 私は涙を拭い、顔を背ける。


「ははは、謝ることないさ。ゴホッ……ゴホッ……ゴホ……」


 私はおじいさんの背中をさすった。ガリガリの骨ばった背中の感触が痛々しく、もう余命わずかであることは本人の口から聞かなくても解った。


「看護師さんを呼びましょうか?」

「大丈夫。お嬢ちゃんは優しいな。名前はなんていうんだい?」

「ユウと言います。悠久とか、悠長の『悠』と書きます」


 どちらかというと私はそんな悠長な人間ではないけれど。


「綺麗な名前だねぇ……俺はユキノリだ。あの冷たい雪って字に、憲法の憲で、雪憲」


 老人は苦し気に、されど優し気に笑っている。


「まぁ、俺のことはいいからよ。お嬢ちゃんの話聞かせてくれよ。なんでそんな泣きそうな顔しているんだい?」


 そう言って優しげな真剣な目を向けてくれた。話すギリはなかったけれど、それでも私は正直に話そうと、私は話し出した。


「……私、一定期間の記憶がなくて。目が覚めて初めてあった知らない人に婚約者だって言われたんです」


 老人は、黙って私の話に耳を傾けている。


 ――何から話したものか……


 取り留めはないが、今までのことを私はぽつりぽつりと話した。雪憲さんは相槌をうちながら静かに私の話を聞いていてくれた。


「お嬢ちゃんモテモテじゃないか。俺もあと50年若かったら口説いてたのにな。あはははゴホッ……ゴホゴホッ……ッ……はぁ……はぁ……」


 酷くつらそうな雪憲さんを見ていると、これ以上話さない方がいいのではないかと思う。


「無理なさらない方が……」

「いいんだよ。俺のことなんか気にしなくて。大事な人は大事にしないと後悔するぞ。俺は若いころは散々遊んだよ。女泣かせな男だった。でも最後はたった1人の人と結婚したよ。ゴホッ……ゴホッ…………結婚してしばらくして、やっぱり俺は女癖が悪くてよく女房を泣かせたよ。それでも気づいても黙っててくれる女房だった」


 私は雪憲さんの話を黙って聞いていた。


「でも、結局帰るのは女房のところさ。女遊びで痛い思いしても、家に帰れば女房がいてくれた。俺はそれに甘えていたんだな」


 雪憲さんはそう言いながら、濁り気味の瞳で遠くを見つめた。


「俺が他の女のケツ追っかけてるうちに、女房は倒れた。癌だったんだ。まだ40そこそこだったのにな。俺は気づいてやれなかった。気づいたときにはもう遅かった。女房は我慢強い女だったから、痛くても痛いとは言わなかったんだな。もう転移していて手の施しようがないって医者に言われたよ」


 雪憲さんは苦しそうに咳を繰り返した。そのたびにゼエゼエと息を荒げて胸の辺りを押さえた。

 私はその様子を気遣いながらも、ずっとそれを聞いていた。


「思えば、倒れる寸前の女房は少しおかしかった。それに気づいて病院に連れてきてりゃ少しは違ったのかもしれねぇな」


 相槌すら、打つのを躊躇った。


「女房が癌だって解ってから、俺は毎日病院に通ったよ。他の女なんてもうどうでも良かった。俺が病院に来ると、女房はいつも嬉しそうにしてたなぁ…………」


 雪憲さんは泣きそうになっているのを必死にこらえているように見えた。


 ――なんで……? 泣いたらいいのに……


 その話を聞いている私は、まるで自分のことのように感じ、私の方が更に泣いてしまった。



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