SLEEPLESS

柏木祥子

SLEEPLESS

 確認したことを確認できなかったことにはできないのと同じように、確認できなかったことを確認できたことにはできない。見えないものが見えていたことはない。眠っていたものが眠っていなかったことなどない。行動や事実がそれ以外のものになったりすることはない。

 根太郎が外に出たのは、三年ぶりのことだった。レースのついた白いブラウスと、ひざ下まであるチェック柄のスカートを履いていた。痩せた頬はもう既に寒さで赤く染まっていて、左の上まつげに小さな別のまつげの欠片が乗っていた。

 夜明け家の前の坂道を登って、途中で根太郎はスカートの上から膝をさすった。

 疲れたわけじゃない。三年も部屋の中にいたとはいえ、十m坂をゆっくり上ったぐらいで疲れたりはしない。

 根太郎は自分の膝が嫌いだった。他の部分についてはあまり、不満のようなものはないが、根太郎の膝は子供が外で散々転んだあとのようにでこぼことして、黒ずんでいた。根太郎は誤った自分を語ろうとするこの膝をどうにか黙らせたくて、絶対に膝の出る服は着なかった。しかし、外に出ると隠れているはずの膝が、また誰かに話しかけようとしているように思えて落ち着かない。それで少し歩いては立ち止まり、膝をさすって口を抑えてはまた歩き出すことを繰り返していた。

 それが落ち着いたのは、誰かが根太郎にそれは病的だと話しかけたからだった。だがこれも見えないはずの膝を見る誰かと同様に、外側にいる誰かとは関係のないことだった。

“自分がそう思っているか、そう思われると思っているから、そう勘違いすることになる”

 弟が死ぬことがなければ、外に出たりはしなかった。

 根太郎は自分の中で巨大な存在感を持った記憶がもたげてくるのを感じていた。恐らくそれは景色のせいだった。人の活動する直前の、誰もがみんな東から現れる巨大な目からの視線を覚えるとき、夜の濃い藍色が白みがかった光と溶け合い、薄く引き伸ばされた一瞬の青色が現れ、消える一瞬の景色が、分厚いカーテンが覆う部屋の明るさとそっくりだった。根太郎は三年間、その場所にいた。


 根太郎が後悔していることは、なにもない。根太郎が間違っていたことなどないし、間違いを犯しているのは向こうの方だ。根太郎はなにもしていない。少なくとも彼本人はそう考えている。

 根太郎の抑圧は、幼いころからあった。根太郎は父親の選んだ服をよく来ていた。小学校の椅子にその姿で座ったとき、根太郎は隣に同じ格好をしているやつがいることに気が付いた。いや、実際は全然違う。違うけど、根太郎の目には同じものに映った。オリオールズのロゴが入ったTシャツと、ベージュのポケットがたくさんついた七分丈のズボン。根太郎はどうしてこんな格好をしているのかと思った。こんないかにも小学生の男児が着るようなものを着て、いったいそれ以外のなにになれるだろう。今ならそんな風に詩をそらんじることもできるけど、当時に感じていたのは違和感と倦怠感だけだった。

 根太郎の姉は根太郎をおもちゃにしたがった。姉は根太郎に自分の昔の服を着せた。姉は“実は妹が欲しかった”だとか、“かわいい”だとか、そういうことは言わなかった。ただニヤニヤしながら自分の服を着た根太郎の写真を撮って友達とシェアしていた。根太郎は姉の圏内にはいなかった。八つも離れていたからか、同じ人間扱いでもなかった。根太郎は姉が満足するとさっさと服を脱いで裸でいた。根太郎には弟もいたが、弟はその被害は受けなかった。そのうち姉の行いは母にバレて、姉は軽く叱られて根太郎を着せ替え人形にするのを禁止された。母は彼に嫌なことされてるならちゃんと嫌だと言いなさいと提言されて、姉にはチクリ魔と怒られた。「やーいチクリ魔チクリ魔。チクリ魔は嫌われるよ」

 根太郎は自分が異性の恰好をしたいのだと知っても、悩まなかった。むしろ、そうしないことについて悩んだ。

 中学のとき、どきどきしながら古着屋で地味なスカートを買って履いた。根太郎は鏡にうつっている自分を見てがっかりした。全然かわいくも美しくもなかったからだ。それでしばらくは、抑圧はひどく弱まっていた。

 それが再燃したのは、高校生の夏、ひどい風邪を拗らせて、一か月も自宅療養していたときのことだった。その後、年を跨いで三年間、過ごすことになるその部屋は、その時からブルーに染まっていた。高熱を出し、魘され、喉の痛みに悶え苦しんでいるあいだ、誰も助けにはならなかった。いくら看病をされたり、優しくされたりしても痛みが減ることがなければ、感謝の念など沸いては来ない。むしろこの経験のなかで、根太郎は“痛み”というものは自分の中にしかなく、自分以外の誰かが付き合うことのできるものではないということを知った。そして熱によって朦朧とした意識のなかで、根太郎はたった一人で生きているような気持になっていた。自分以外の誰も自分を助けることはできないし、自分以外の誰も欲求を鎮めることはできない。根太郎は熱が下がる最後の日を前に、通販で買った薄手のドレスを身にまとった。汗をかくために厚着をして寝ていた直後のことだったので、死ぬほどに身軽で、死ぬことを受け入れてしまえるぐらいに爽やかな気分だった。

 美しさもかわいさも関係がないのだ。自分がよければそれで。しかし、そのような結論に至っても根太郎は本当のカミングアウトまでは自分のその抑圧を隠していた。

 狂わなければそんなことはできない。なにしろ本当はそんな結論には達していないのだ。根太郎の思ったそのシニフィエは、一番表にある言語表現のすぐ下にある、別の感情と相対するために、過剰に無頼になっていた。

 見てもらいたい欲求も、認めてもらいたい欲求もある。ただそれが本当に持っているものか、ただ流されて持っているものかは根太郎にはわからなかった。そしてそれを見分ける方法も。

 ただ、そうやって格好つけて言ってみても、層になったその二つの感情は、裏側にもう一つ別の感情を備えていた。それこそが最大のブレーキだった。

 結局、根太郎がカミングアウトしたのは狂ったからだ。高熱にうかされたときのように、まどろみのなかのモザイクの欠片から、はじめに読み取った文字へ安易に飛びつく。根太郎の場合は、高校の道徳の教師の言葉がひとつ。

「いわゆるマイノリティというもののことを、私たちマジョリティの人間は目の前から消してしまいがちです。しかしマイノリティという言葉からもわかる通り、彼らはいないのではありません。ただ少ないのです。いる人間をいないことにはできません。だから私たちはそれらに対する向き合いかたを決める必要があるのです」

 そして、ユー・エス・エー・フォー・アフリカのウィー・アー・ザ・ワールドにはまったからだ。

 それで狂ってしまって、根太郎は周りの人間や両親や兄弟に自分の女装癖やセクシュアリティについて告白をしたのだった。

 

 学校の連中は特になにか言うわけでもなかったが、壁を作ったのは間違いのないことだった。特別に品がよいわけではなかったが、特別に品が悪いわけでもなかったから、表だって根太郎になにか言ってきたやつはいない。ただ、根太郎はカミングアウトした当日から学校に行かなくなったので、通い続けていればなにか変化があったかもわからない。十中八九それが良いものではないことは、根太郎にとって自明の理ではある。

 両親の反応もまた決して芳しいものではなかった。道徳の授業で教えられた言葉は、決して嘘ではない。ユー・エス・エー・フォー・アフリカのせいでこじれて根太郎のテンションを変に上げてしまったが、言葉の内容自体は少しも間違ってはいない。

 根太郎の周囲にいた人々は、根太郎が引きこもったことで彼と向き合う必要もなくなったが、家族の方はそうもいかない。今や根太郎は穏やかな水流を割る巨大な石だった。

 根太郎の母親は厳格で、ある意味で原理的な思想の持ち主だった。彼女のはじめにやったことは、根太郎を否定することだった。彼女は自体を矮小化して、根太郎の癖(へき)をただの思春期の気まぐれと割り切ろうとしたが、これは即座に根太郎によって覆された。彼ははっきりと自分を性別のない人間だと宣言したからだ。勘違いなんじゃないかと根太郎を説得しようとしても、それを見分ける根拠なんてないだろうと返され、あげくあてつけのようにずっと家の中で女装して練り歩くので、それ自体の否定を表だってするのはやめた。続いて訪れたのは、怒りであり、なぜそんな人間になってしまったのかということを延々考え続けた。家族会議という名目でなんども彼を呼び出し、彼の女装癖を認めつつも女装をやめるよう強要したが、当然ながら根太郎は首を縦に振らなかった。病院に行かせて一緒に話をしたこともあったが、医師は「そういった人間はいるし、それを否定する術はない。そうではないならそのうちなくなるだろうし、そうならずっとそうだろう。ただ、そうじゃないかもしれないからといって無理やり変えさせるのはよくない」と、あまり毒にも薬にもならないことしか言われず、失望を抱く結果になった。

 図らずもこの流れは、キューブラー・ロスの『死に対する受容の五段階』と似ていた。キューブラー・ロスは人間が死期を迎えたとき、その死を体に受け入れさせるために変調する精神を五段階にわけて説明しようとしたのである。それが否定‐怒り‐祈り‐抑うつ‐受容のライン。実際に医者が役に立たなかった後は、家の中は小康状態になった。根太郎も家族も積極的に関わろうとはせず、自然と家の中で別居している状態に落ち着いた。

 であればこの後に訪れるのは受容であると考えるのが自然な流れだが、これが本当に現れるとは、根太郎にはどうにも思えなかった。キューブラー・ロスについては彼が考えたことだが、これはただ犬の肛門のキリストのようなもので、毛の配色が錯覚を誘っているに過ぎないことなのだ。

 問題は、根太郎が本当に家族や周囲にわからせようとは考えていないことだった。彼ははじめからほとんどそれを諦めていたし、なにかに失敗しそうになると皮肉っぽくなる癖のせいで大抵の場合、それが諦められていることにも気づかれていないと感じていた。

 話もしないので、家のなかは異様なバランスで保たれていた。

 父親は仕事にかこつけて家のことは任せると言ったきり協力しようとは考えていなかった。保守的な人間で、根太郎のことはほとんど無視するか、異常なほど以前と変わりのない態度をとるかのどちらかだ。それも暫くすると存在を忘れたかのように行動するだけになったが。姉はすでに結婚して二児の母となっていた。電話で聞いただけだったが、それでも年末に実家に帰るかどうか悩んでいた。

 そして最も苛烈だったのは、彼の弟の反応だった。一つ下の弟は、根太郎を気色の悪い人間モドキだと断し、兄に対して度々、ひどい嫌がらせに走るようになっていた。

 部屋の外で見かけることがあれば、さっさと部屋に戻れと怒鳴りつけるか、わざと強く肩へぶつかってくる。部屋の中で生活音をたてると、壁を蹴りつけて威圧する。こんなのは当たり前で、洗濯物の中に入っていた彼の服を持ち出して切り刻んだこともあった。

 元はそこそこ仲が良かっただけに、互いに悲しさや驚きを感じているようだった。その感情に対して違和感を自ら感じ取りふと我に返ることもあるようだった。そんなとき彼の弟は後悔したような顔で自分のやったことを見下ろす。その瞬間を根太郎は寝ているか、見過ごしているかしている。

 たった一度だけ、弟とは理性的な会話をしたことがあった。両親がそれぞれの用事ででかけ、根太郎がベランダに続く窓を換気のために開放している瞬間だった。

 冷たい空気がどっと押し寄せて、耳の下まで伸びた髪を擽った。根太郎は目を瞑り、目の前から髪をどかした。風が吹いていたのではなく、空気の薄くなってきた部屋へ、新鮮な空気がはいってきたのだ。熱のこもっていた部屋に新しい血が滾り、その熱的な表現とは裏腹に部屋の温度をおおよそ半分程度にまで下げた。寒くなった根太郎は着ていたロングシャツの上からもこもことしたジャケットを被るようにして着た。ジッパーの先が額から眼に移動し、顎の下におさまったところで、根太郎は部屋のまえに弟が立っていることに気づいた。根太郎も弟も、お互い無表情で、互いに目も合わせなかった。弟は根太郎の部屋の蝶番に眼を落すようにして、根太郎は弟のほうを向いていたが、決してピントを直さずぼやかしたままにしていた。「どうして……」と弟が言った。「……どうして、言った? 言わなきゃなにもわからなかった。言って嫌なことがあるって、なんでわからなかった。キモイよ……。ほんとにキモイ。ふざけんなって思う」「なんで……」根太郎は息を吸って言葉を吐き出し、そして困惑した表情で顔を固くした。「いやなぜ……」手が届くのなら扉を閉めていただろう。実際、二人の間には透明の扉があり、それは間違いなく閉まっていたのだ。「なんも言わなくていいよ……。俺もなんも言ってない。もう話しかけてくんな。俺も話しかけないから……」何故だかはわからないが、根太郎はこの後になにが起きたかはよく憶えていない。ぶつりと夢から覚めたように、次の瞬間にはカーテンの閉まった部屋で、掛布団の上から横たわっているのだ。

 それから三年が経った。根太郎はその間、一度も外には出なかった。弟は大学に行き始めたことで家にはほとんど寄り付かなくなり、母親とも食事のときを除いて顔も合わせなかった。夜の一時半時になると誰もいないリビングに降り、両親が食べ残した夕食をレンジで温めて、食卓に一人座って食べた。眠くなるなら寝て、眠くないなら起きていた。根太郎の三年間のほとんどは、眠気と睡眠を行きかうことで進行し、曖昧模糊とした意識のろうそくは湿って役に立たない。根太郎に出来ることはただ部屋で丸くなって生命宇宙そして万物についての究極の疑問の答えが脳の裏側から到来するのを待つだけであり、時間の経過を確認させるのは、だんだん長くなってくる髪だけだった。根太郎は神の毛先を手のひらで持ち上げ、横目でそれを確認した。洗面所から櫛を勝手に持ち出し、暇があると髪を梳いていた。ずっと部屋の中にいたので、どんな汚れも彼にはつかない。どんな毒も摂取しない。美容室でもらう簡単な櫛で丁寧に髪を梳いた後、髪の間に指を入れ、大きな穴を開ける。まるで刑務作業だ。ただ、繰り返す。それを飽きずにやっている。

 映画を見た。本を読んだ。ただそれは一時の娯楽のようなもので、根太郎になにかを学ばせるようなものではなかった。ただ危機や死ぬことを頭の中心に置いたままオブラートにくるんでぼやかしておくことはできた。負うべき社会的な責務については、誰からも理解されないという感覚の一点で正当化されようとしていた。根太郎はある意味で死んでいたのだ。眠っているあいだの人間は死んでいると宣う哲学者が言うようにである。

 それが変化したのは、三年目の冬の夜のことである。彼は日課の睡眠をとったあと、髪をくるくると指に巻き付けてはとき、巻き付けてはといていた。彼の手にはブラシが握られていた。柄が木でできた、これもそれほど良いものには見えない。しかし簡単すぎないブラシだった。根太郎が十五回目に指に髪を巻き込んでいるときに、これがするりと手の内から滑り落ち、音を立てて床に激突した。彼はブラシの音に慄いた。それほど大きな音だった。乾いた骨の折れるような音で、その音だけであばら骨が折れた気がした。背中を丸めてブラシをとろうとしたとき、あることに気が付いた。弟が壁を叩かない。

 根太郎は壁の向こうを透視でもするかのように、じっとりとした目で窺う。

 実際、あの奇妙な関わりのあと、弟はあんなことまったくなかったかのように、根太郎への嫌がらせを再開していた。近くを通れば肩にぶつかり、扉の前にゴミを放置し、でくわすたびに死ねよと呟く。生活音がすれば壁を蹴ったり物を投げたりして圧迫してくる。家主と邪魔者の関係であって、弟は実存主義的に言えば根太郎の心拍を起こすブザーのようなものだった。

 根太郎は音を立てないようそっと、弟の部屋を覗き見た。端の捲れた英語の参考書が扉の向こうで引っかかっていて、紙がこすれた。根太郎が扉をもっと押すと、今度はダッフルバッグが引っかかっていた。根太郎は強く扉を押した。がたん、がたんと音がたっていた。

 弟はベッドのわきに倒れていた。いや、正確にはベッドのわきで上半身だけほんの少し浮いていた。彼の身体には延長コードが巻き付いており、それによって体が支えられていたのだ。いくつかのコードが本来の想像されるほうほうとは違うやりかたでお互いを繋いでおり、辿ってみるとそれらはすべて天井の電灯に辿り着いた。こちらに顔は見えなかったが、うなじに黒いコードが複数見えて、顔と、それから股の下には小大の水たまりができていた。

「なぜ死ねよと言ったほうが死ぬのか……」

 根太郎は再び意識を失い、気が付くと自室にいた。起きたのは、弟を見つけた母親の絶叫を耳にしたからだった。


 根太郎の母のその後の動揺ぶりといえばなかった。はじめに弟を発見したのだから、無理もないだろう。そのときばかりは根太郎の部屋に飛び込み、眼を覚ました根太郎に向かって言葉にもならないようなことを捲し立てた。そして彼の腕をひっつかみ一階に駆け下りて救急車を呼ぶと、そのままずっと離さないで家の中をぐるぐると回り続けていた。

 母も、そして遅れて帰ってきた父も、姉が到着するまで根太郎を離そうとしなかった。姉は根太郎を見ると微妙な顔をしたが、両親に付き添って警官に医者に話を聞きに行き、根太郎はその一歩後ろにいた。

 弟の死因は首を吊ったことによる酸欠ではなく、首の骨が折れて死んだ。弟はまずコードを天井からつるし、三つの輪がしたで出来るよう組み立てた。それぞれ両腕と首に巻き付けるためのもので、先に腕に輪を通し、立ったまま首にも巻き付けると、前方に向かって倒れ込んだ。その時に頸椎を損傷し、そのうえでゆっくりと時間をかけて喉仏を潰していったらしい。

 遺書の類はなく、パソコンにも当たり障りのないメッセージしか入っていなかった。なので、どうして死を選んだかはわからなかった。奇妙な死にかたから他殺も疑われたが、見た目が変わっているだけでドアノブで首を吊って死ぬのと変わりはなく、小説かなにかからインスパイアされたのではないかと警察が話しているのを、根太郎はたまたま聞いた。唯一、携帯電話が無くなっていたが、それも喪失の悲しみのうちにいつの間にか忘れられてしまっていた。

 母親はしばらく弟が自殺した理由を探っていた。生前の友人たちに話を聞いているうちに、弟が真剣に恋愛をしていて、その人にふられたことでひどく精神を病んでいたという話を聞いた。母親ははじめその話を信じていなかった。自分にはその兆候が見えなかったからだ。でもそれ以上の情報が入ってこなくなると、それを信じるしかなくなった。

 

 弟が死んでしまっても、なにも変わりないはずだ。

 根太郎はそう考えた。考える。なぜなら、と、理由を思い起こそうとする。しかしそれに続くような小賢しい論を思いつけるほど、根太郎は冷たくなく、また合理的でもない。劇的で、加えて着実な変化が根太郎のなかにあった。外的要因による変化だ。精神とは、文化的・社会的に構築される。実存は本質に先立つ。

 両親は、特に母親は根太郎の一部を許容するようになった。「その格好でいいから一緒にごはんを食べましょう」と言い、やや納得のいっていない夫の頑なさをふりきって三人で食卓に座り、ものを食べるようになった。

 そして、母親は「なんとかやっていきましょう」と言った。「なんとか。根太郎のことも、家のことも、あの子のことも」母親は言葉を詰まらせた。「根太郎。もういいから。もういいからね。治しなさいなんて言わないから。そのままでいいから」

 母親はとちゅうで泣き出してしまった。父親が横から母親の背中をさすり、根太郎の肩を叩いた。根太郎たちは三人で抱き合っていた。恐ろしいほどの連帯感と高揚感が体を支配していくのを根太郎は覚えていた。根太郎はくらくらとし始め、そしてこんな幻覚を見た。それは夜にやっているようなバラエティ番組で、スタンド・バイ・ミーだとかレット・イット・ビーなんかがかかっていた。ビリー・ジョエルだったかもしれない。もしそうならどの曲だろうか。きっと『ピアノマン』か『オネスティ』のどちらかだろうけど。

 外を笑顔で歩く根太郎をカメラが追っていた。リクルートスーツ姿で、就活を頑張っているという話だった。いろんな会社に出向いて社会貢献がしたいと言った。そのなかでマイノリティを理由に断られることもあった。根太郎はケースワーカーになりたかった。自分のような人たちが活躍できる社会にしたいと力強い瞳でそう言った。家に帰ると両親が和やかな空気で出迎えた。根太郎が階段の上に姿を消すと、カメラは両親の方へ切り替わった。両親はほんとうによかったと言った。あの時は本当に大変だった、私たちにも悪いところがあって心が通じ合わなかった。でも今は三人で頑張っていると言った。そして東山紀之が今は明るい一家だが数年前に悲劇に見舞われたと言う。


「こんなの狂ってる」と根太郎はつぶやいた。

 根太郎が外に出たのは、三年ぶりのことだった。レースのついた白いブラウスと、ひざ下まであるチェック柄のスカートを履いていた。痩せた頬はもう既に寒さで赤く染まっていた。左の上まつげに乗っていた小さな抜け毛が風に晒されて飛んで行った。

 なんども幻覚を見た。なんども、なんども、なんどもだ。景色が青いうちは、まだここがうちか外か、ちゃんとわかっていなかった。それがわかったのは始発に乗った後、外が知らんできてからだ。

 そこへきてようやく、自分がどこにいるのかわかった。自分を覆い隠していた影が失われ、散々醜いなにものかが根太郎を嘲った。

 今まで顔や、腕や胸や腹、器官のない透明な身体ばかりだった人影が急に筆圧の強い文字から飛び出したシャープペンシルの芯のように現実として目の前に現れ、根太郎をじっと見ていた。根太郎はオレンジ色の電車の椅子のうえでうつむき、体を揺らした。身体の内側がカッと熱くなり、だらだらと汗をかき始めていた。

 根太郎はポケットに手を突っ込んだ。固いものに触れた。取り出して見ると携帯電話だった。黒い四角い塊。これは弟の携帯だ。弟を見つけたとき、傍らに落ちていたのを拾ったのだ。

 根太郎は携帯電話に触れたまま目を瞑り、短く息をした。弟のことを思い出していた。弟は自分を見ていた。弟と話した内容が一言一句、鮮明に耳元で再生される。

 あれは現実だ。それと同じようにこれだって現実だ。幻覚じゃない。

「そう。そう。落ち着いて……」

 弟は携帯電話にロックをかけていて、中は見られない。だがこれが弟のすぐそばにあるのを見つけたとき、この中にすべてが入っているような気がしたのだ。だから根太郎はこれを隠しなかったことにした。なにも直視したくなかったのに、もしこのロックが解かれれば都合の悪いものが目の前にぶちまけられる気がした。ふざけたり冗談にしたりできないようなものがだ。

 だが根太郎は今はむしろ、このロックを解こうとしていた。あの部屋で三年間、モザイク越しにしてきたことが露わになり、自分は幽霊から触れられる人間になってしまった。その状態で根太郎はこの謎を謎のままにしておけなかったのだ。

 

 弟の通っていた大学駅前につき、長い坂道を登って校舎へ辿り着いた。学生があまりいないので不思議に思ったが、掲示板に貼られていた紙を見て今が三月であることを思い出した。人ごみに紛れることもできない状態だったが、根太郎が異分子であることは誰にもバレていなかった。

 告別式や葬式には出ていなかったが、弟に関する話をいくつも聞いているうちに、何人かの名前を覚えていた。春休みということもあって、帰省しているものもいるだろうし、校舎には誰もいないかもしれない。しかし彼らと弟との関係性についても根太郎は記憶していた。

 彼らは天文研究会というサークルに所属していた。「あんまり真面目じゃないよ。山に合宿も行くんだけど全然望遠鏡見たりしないしさ……ちゃんとしてる人が少数派って感じで……こっちも馬鹿馬鹿しくて一緒にトランプしてたよ」弟が苦笑して両親に話しているのを聞いたことがあった。

 真面目じゃなくても部室はある。地図を見るということも久しぶりだったので少し苦労はしたが、無事に部室棟を見つけて、天文研究会の張り紙がされた扉も見つけることができた。

 知っているわけじゃないが、こういうところには名簿なんかもあるはずだ。高校時代も部活はやってこなかったが、部活とかサークルとかサークルメンバーとかが出てくる作品を見たことは何度もある。

 鍵は弟の部屋から持ってきていた。鍵を差してまわすというのもほとんどやったことがなくどのようにしてやればいいのか何故か混乱した。少しして鍵自体かかっていないことがわかった。

 部室は手狭で、三つの棚とソファーでほとんど居場所を占領されていた。かどっこに埃の被った望遠鏡が置かれており、そのちょうど対角線上にPC操作をしている男子学生がいた。

 男子学生は「あれ、結局来たの」と言って根太郎を見、驚いてその場で体を跳ねさせた。マウスを握ったまま。

「誰だお前」

 慌ててスクリーンと向き合い、画面に出していたタブをクリックして最小化する。

「入部希望? それとももしかしてOBか……じゃない。OGかなにか? いや、どっちも違う?」

「今のは?」

 根太郎がスクリーンを指して言った。すると、男子学生の顔に少し余裕が出た。

「なんだお前、男か? なんだよ。誰だよ」

 明らかに軽んじていた。脅威とも感じていない様子だった。

 根太郎は男子学生に身元を明かした。

「はあ? マジか。あんたがあいつの兄だって? ……いや、そうな。わかんないけど、お気の毒に思ってはいるよ……。でも関係ないね。あいつはこのサークルとは関係ないところで悩んでたんだ。文句があるならそっちに言ってくれよ」

「弟は」根太郎が言った。「渉外だった。合宿の用意とかしてた。写真を管理してそのPCに一番触れてたのも弟だ。それに、弟の携帯電話は大学に入ってから買ったし、あいつは忘れっぽいから、パスワードをよく流用してた。だからそのPCのパスワードがわかれば」根太郎は携帯電話を取り出して見せた。「これも開けられるかもしれない」

「それあいつのか? 中身は見たのか?」

「それからまあ」根太郎ははぐらかした。「僕も話が聞きたかった。あいつの話をね。うちの両親もそうだけど、本当に失恋が原因なのか確かめたかった。それで僕はこの携帯のぶんだけ、ほんの少し疑いが強かったんだ。……今は後悔してる。なんで僕がこれを持っているのかよくわからないよ」

「わかった。いや、そっちの事情はな。でも前に言った……言ったのは俺じゃないけど、とにかく言った通り、それ以上は俺も知らない。そもそもあんたの弟とは仲良くなかった。言っちゃなんだけど、誰もだ。あんまり仲良くなかったよ」

 根太郎は傷ついている自分を認めた。

「そう。それはそれでいい。今聞いても仕方ない。……パスワードは? 言いたくない理由でもあるの?」

 男子学生からパスワードを聞き出すと、根太郎は携帯にそれを打ち込んだ。すると、本当にそれは携帯電話のパスワードと同じで、無機質な背景画面が現れた。

「なにが入ってる?」

「……なにも」

 なにも入っていなかった。アドレス帳に一つも名前がないのはもちろん、なんのデータもない。削除したのだ。そしてそれから死んだのだ。拍子抜けだった。見た後より見る前のほうが重要なものだったとは。

「なあ、もういいかな」

 男子学生が言った。

「俺もやんないといけないことあるんだよ。あれでさ。あとは他に行ってくれよ。なんもないけどな」

「ああ」

 根太郎は気のない返事をした。


 追い出される形で部室を出ると、根太郎は灰色の天井を見上げた。そしてこうつぶやいた。「もっとこう……重要なものがあるはずだったんだけどな……なにもないのかな。こういうこと、僕には重要だったけど、世の中にとってはそうでもないんだ」

 根太郎は音を立てて部室棟の外に出た。

 そして、指で十数えて今度は音を立てないよう扉の前に戻り、素早く鍵をあけて部室に侵入した。


 今度ははっきりと見た。

「それは?」

 根太郎ははじめに指したときと同じように言った。PCの電源を落とそうとした男子学生に掴みかかるが、簡単に押しのけられる。胸倉をつかんできた手に噛みついた。男子学生が悲鳴をあげてその場から飛びのいた。

 二人は離れた距離で睨み合っていたが、このときすでに状況は決していた。男子学生が根太郎を殺したりするのでない限り、なにも変わらなかった。

 根太郎はちらりとスクリーンを見た。それだけで大体のことを理解してしまった。

「あいつゲイだったんだよ」

 男子学生が言った。

「ちょっと前かな。それでももう半年ぐらいになるけど、あいつにゲイなんじゃないかって話をしたんだ。まあただの冗談だよ。だけど反応がマジだったんでみんなそう思ったんだ。でもなんにも言わなかった。だって発展させたくなかったしな。だけどサークルの同級生の安池ってやつが……、相談されたってことを言ってよ。その、ゲイだってな。それでみんなにバレたんだ。それからのことは……悪い……そう、悪い冗談だったんだ。からかっただけさ。そりゃ悪ふざけでそういうこともしたけど……」

「そういうこともした?」根太郎はなにかが乗り移ったかのように鋭く言い放った。「体を持ち上げてナニを咥えさせてるのが悪ふざけで、冗談なのか? 他にもある」

 根太郎はスクロールして写真を見せていった。すべてサークルの合宿で撮られたもので、弟が三人がかりで体を斜めに持ち上げられ、ソファに座っているガタイのいい男子の股間に顔をうずめさせられていた。裸で木と木のあいだを歩かされているものや、手に靴を被せられたままうずくまっている写真もあった。アングルを変え、執拗に。

 三十枚を越えたところに、別の趣旨の写真が現れた。建物のまえで二十人前後の学生がピースをしている写真だった。根太郎はこの写真に一番気持ち悪さを覚えた。邪気がなく、仲睦まじさが見えたからだ。その裏にある捻じれた関係を読み取ったからだ。

 男子学生は脱力して椅子に座り込んだ。立っている気力がもう無いようだった。

「冗談さ……。冗談にしたかったんだ。全部。酔ってたし、なかったことにもできた。それをどっかのバカが、こっちのPCに転送してたんだ。あいつに見つけさせたかったんだ。あいつにこの写真を整理させたかったんだ。キ〇ガイだしイカれてる。ついていけない」

「知るか。知ったことか。知らない。訊きたくない。あったことをなかったことになんてできない」

「なあ、みんなやってたし、やってなかったやつも黙ってた。どうしろっていうんだよ。俺だって気分が悪かったのに! 俺だけ反抗できるわけないだろ!」

「知るかって言ってるんだよ」

 根太郎は自分の携帯電話を出し、写真を撮った。

「おい、おい、おいって。どうする気だよ」

「なにもしない。今は。なにもする気はない」

 すると、男子学生は安心したような顔になった。

「これが表に出たらみんな傷つく。だから表には出さない。でもお前たちが結婚して子供でも持ったなら、これを奥さんと子供に見せる。尊敬しあえる友達ができたなら、その友達に見せる。正義感はいらない。ただ写真を見てどこかに行く人に見せる。一番、幸せなときに一番、見せたくない相手にだけ見せる。でもそれは今じゃない。今日あったことは誰にも言うな。知ってて恐怖されたんじゃ幸せになってくれない。そういう状況になってからやらなきゃ、バランスなんてとれないんだ。僕の弟のバランスだ」

 あるいは、僕の弟に対する感情のバランス。


 根太郎は疲れた顔で帰宅した。自室に入るなりベッドに倒れ込んで、携帯電話をはなれたところに投げて落とすと、眠りそうになりながら考えた。

 やっぱりだ。なにもわかってなかった。表面上だけだった。全部。全部だ。僕も両親も誰もなにもわかってない。なにも言ってないのにわかるはずがない。見えないものを見えていることにして、結局、見ようとはしていないんだ。

 根太郎は失望していた。母親も父親も自分を理解したわけじゃない。ただ身内の死っていう一大イベントのまえで熱に浮かされていただけなんだ。弟がいなくなったから僕にシフトしただけなんだ。僕を弟と勘違いしている。

 僕もそうだ。弟の死がなにかを変えたと思った。でも違う。なにも変わっちゃいない。外的要因なんてない。僕も勘違いしてた。なにか起こると勘違いしていた。

 またしても幻覚を見た。

 幻覚の中で、根太郎は不幸せだった。ありとあらゆる拷問を受けそうになっていて、それを忘れるために一心不乱に音楽を歌っていた。その裏では、迫りくる回転のこぎりを前にして、当然の報いだと思いを馳せていた――――。


 根太郎はまた引きこもりの生活にもどった。違うのはそれが許容されていることだった。大みそかに、姉が帰郷してきた。

 姉は子供を二人かかえて、旦那は自分の実家の方に行ったという話だった。父親が姉を出迎えた。母は鍋の下準備をしている最中だった。

 根太郎と出くわした姉は、根太郎がいつもの姿でいるのを見て、顔を固くした。

 異様さにも気づいたようだった。弟が死んだことで理由もなく根太郎を受け入れた異様さをだ。メリーゴーランドのように追いつかず離されずいるはずの環境が、どうしてか馬たちが並走し結合しているのである。異様に思わないはずもない。

 姉は子供たちにおじいちゃんとおばあちゃんに挨拶をして荷物を解いてくるよう言った。

 姉は、久しぶりに感じる異物に対する視線を根太郎に投げかけ続けた。しかし両親が揃ってなにも言わず、むしろ根太郎を歓迎しているので、うまく言い出せないようだった。子供たちも根太郎に対してあまり思うところはなさそうだった。上の子は、まだ軽い違和感を覚えているような表情をすることもあるのだが、もう一人の四つになる子のほうはなにもわかっていないのか、女の恰好をした自分の叔父をどう呼べばいいのかわかっていないぐらいで、それをそのまま疑問にしてぶつけていた。

「名前なんて呼ばなくていい」

 と根太郎は言った。ねえ、とか、ねえねえ、とか。目を見て言ってくれれば誰に言ってるのかわかる。それに僕はこの家から出ないから。

 姉は怪訝な顔になった。

「働きに出たりしないの?」

「大学に行くのよね」

 根太郎の代わりに母親が答えた。父親は黙って白菜を食べ、根太郎は曖昧な返事をした。

「そう。大学に行くんだ。行けるか知らないけどね……」


 姉と二人になる機会があった。食後に片付けが終わった後、子供と母親が遊んでいるのを見つつ、根太郎の隣に腰を下ろした。

 根太郎はちょうど、リビングのテレビでレミントン・スティールの再放送を見ていた。

「ねえ」

「なに?」

「あんた、大学行くの」

 根太郎は姉を見ずに言った。

「いかない」

「じゃあ、どうするの」

「出てく。そのうち」

 そう言ってから根太郎は姉をちらりと見た。

「どういう心境の変化?」

「今のところは、多分何も変わってない。変わったと思ったけど、僕自身はなにも変わってないと思う。ただ周りが変わって、僕はそれに沿ったことをしてる」

「そうよね。あんたは今も昔も、かわいそうぶってる馬鹿よ」

「ほんとにそう思う。ほんとに」

 姉はため息をした。

「詰りがいのないやつ。本心なんて言ったことなかったんじゃない。でも私、あんたのことわかってたよ。あんたのこと。わかってたはずなのに驚いたふりしちゃって、遠ざかっちゃった。こんなクズに育つとは思わなくて。いや、思ってたのかな……どうなんだろ」

 わかってたって勘違いをしただけだ、と根太郎は心の中で反論した。

 姉は腕を伸ばして根太郎の耳にかかっていた髪をどかした。

「どうすんの。出てって」

「やることがあるから、それをやったら、死ぬ」

 軽薄にそう言った。

 姉は呆れて言った。

「やっぱり、昔からクズで寄生虫でかわいそうぶってる馬鹿だったかも」

「そっちは、捨てて、戻って来てる」

「まあね」

 姉は黙ってテレビの画面を見た。

「このドラマ昔見てた。探偵レミントン・スティールって。ピアース・ブロスナンがかっこよくて好きで。ねえ結局、レミントン・スティールって何者だったっけ?」

「憶えてない。だから見返してる」

「うそつき」

 時間の無駄よ、時間の無駄。姉はそう言いながら、しばらく一緒にドラマを見ていた。けれど最後まではいなかった。姉が去って根太郎は今度は姉の言ったことを繰り返した。時間の無駄。その通りだ。きっとこんなに無駄なことはない。いったいなにを待っているのだろう。本当に復讐する気なのか?


 次の日、朝早くリビングで一人でいると姉の子供がやってきて根太郎に本を差し出した。三年寝太郎の本だった。

 根太郎は子供を隣に座らせてやり、なんどもそれを読み聞かせた。おどけたり、真剣になったり、平たんに読んだり、そう繰り返していると、同じ文章が別のものに見えてくるのか、子供は喜んでまたもう一度というのだった。

「あたしその話キライ」

 上の子もやってきて根太郎に向けてそう言った。

「どうして?」

「だって、嘘だもん。寝太郎が三年も考えてたなんて、ぜったいうそ。寝太郎はぐうたらしてて、追い出されそうになったからあわてて外に出たの。それでたまたま大きな岩にぶつかったの。じゃないとおかしいよ。三年もかけて岩を押すだけなんて」

「いい理由だね」

 根太郎は言った。これは本心だった。

 そうかもしれない。寝太郎はただ、三年なにもしていなかったのが、弟が死んだのをきっかけになにか起こるのを阻止したかったのかもしれない。そして意味のあると思われることをしたかったのかもしれない。(それとも別に、またしてもこれは、壁のしみが顔に見えるのと同様、ただの錯覚なのかもしれない。大量の箇条書きに騙されているだけなのかもしれない)

 カメラがドリーをする。根太郎を中心に捉え、根太郎以外のものがぼやける。徐々に徐々に、根太郎が小さくなっていく。

 そしてなにもなくなる。

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SLEEPLESS 柏木祥子 @shoko_kashiwagi_penname

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