第7話 自意識過剰状態よりも人の幸せのために生きていこう

 古川さんの元AV女優といった過去は、消しゴムで消したように消えることはないが、白い修正液を塗ることはできる。

 その修正液を塗り重ねていくと、現実に光が当たるようになり、その光は過去をも照らし出す。だから、過去に嘘をついてはならない。

 隠し通しておきたい過去であるが「昔があるから今がある」の通り、過去が現在の力になることも有り得る。


 古川さんは言った。

「私は自ら過去を語るつもりはないし、今はその必要もない。

 今の私にできることは、ゆうたま(夕方のたまり場)にやってくる子の聞き役に回ることといっても、私はその子たちに金銭を与えることも、就職を世話するなんて政治的なこともできない。でも人に言えないままでいると、かえってそれが弱みとなり、酒や覚醒剤に走ることもありえる。

 かつての私がそうだったように」

 僕は真剣に古川さんの悩みを聞いていた。

 そういえば、さっきアイドルからゲイに転向した若者が自殺したとニュースが報道されたばかりである。

 三年前、地方出身の彼は

「僕は四人兄弟で扇風機の風を奪い合うような、暑い日を送っていました。

 芸能界というのは、ニコニコしていればなんとかなるというのが僕の持論です」

 それから彼は、結婚して子供も授かったが、のちに離婚した。

 自殺というのは、必ずしも本人の置かれている不幸な環境とは関係のないケースが多い。

 実際、自殺したゲイタレントも美形で、芸能界ではそこそこ名の売れたアイドル的存在だったのだから。

 しかし「性転換をした人の二割は自殺し、あとの四割も自殺を考えているケースが多い」(「私男子校出身です」著 椿姫彩菜)のとおり、やはりホルモンバランスが崩れると、メンタル面も弱くなるのだろうか。


 ゲイに対する批判はあっても、レズビアンに対する批判はほとんど聞かない。

 レズビアンというのは、レイプなどで性的に傷つけられた女性同士が、傷をなめ合うケースが多いという。

 水商売や元AV嬢も含まれている。


 すると古川さんに手を振って来た十五歳くらいの女の子がいた。

「おーい、ふるリン、元気だった?」

 古川さんのより、二回りもしたの女の子である。

 ふるリンなんて呼び方をするということは、いわゆる躾の行き届いてない礼儀知らずか、それとも中学校であまり友達のいない子なのだろうか。

 しかし、古川さんはそれに自然に応じていた。

「あまり、ゆうたまに出入りしていると売春志願だと間違われる危険性大だよ。

 悪い男にひっかからないうちに、おうちに帰りなさい」

 とたんに少女は泣きべそをかいた。

「私、母子家庭だったけどさ、新しい父親ができるかもしれない。といっても虫の好かない奴だけどさ」

 古川さんは言った。

「最初からそう決めつけちゃだめよ。まずは敬語で相手に接すること。

 そうしたら、相手もあなたに畏敬の念を払うわ。

 スマホで敬語を学びなさい」

 正論である。

 少女は言った。

「そういえば、聖書の御言葉にもあるわね。あなたの両親を敬えと」

 古川さんは驚いた。

「それって、聖書の十戒にもあるわね。えっあなた聖書読むの。意外だね」

 少女は言った。

「あまり、大きな声では言えないけどね。ここだけの話。

 Wハンバーガーを奢ってくれた一見優しそうな姉さんに、売りをやらされかかったの。Wハンバーガーを食べ終わったあと、タクシーで自宅まで送っていくよと言われ、いい人だとすっかり安心していたら、急に後ろから麻酔の入ったハンカチを口に押えられ、気がつけばビジネスホテルの一室の中だった」

 古川さんは、ギョギョギョッとした顔で聞いていたが、少女は話を続けた。

「私は引き出しに入っていた聖書を読んでいたの。声をだして読んでいると、なにごともなくときは過ぎ去り、私は一人でビジネスホテルを後にしたの」

 うわーっ、ラッキー、神がかりだな。

 古川さんと少女は、偶然声を揃えて言った。

「神様のおかげですね。ハレルヤ」

 そんな神がかりの偶然って、本当にあるんだな。

 急に少女は手を組んで祈り出した。

「神様、私をお守り下さい。義理の父親ともうまくいきますように」

 古川さんは祈り出した。

「神様とやら、どうか私とこの子をお守り下さい」

 そう言って、ゆうたまを後にした。


 僕は、古川さんにスマホの写真を見せた。

「なんとこの近くに築百三十年の古びたキリスト教会があるんだ」

 白い十字架が屋根にかかっている、古びた教会、しかしそこには、いわゆるボロいとか時代遅れといった感はなく、簡素な美しさと威厳さえも感じさせる。

 なんだか、キリスト信仰が一枚ずつ積み重ねられていったような、厳かささえ感じられる。

 電車の中には、屋根の上の白い十字架が見える。

 朝には、白い十字架が朝日に輝い、夕方になると、白い十字架が夕焼けのピンク色にそまり、哀愁さえ感じさせる。

 僕はその教会に足を踏み入れたいとは思っていた。

 そうだ、思い切って古川さんを誘ってみよう。もちろん古川さんの素性を隠したう上での話だが。

 古川さんは、感動したように僕のスマホの教会の写真に見入っていた。

「あっ、この教会、昔タウン誌で見たことがあるわ。重要文化財建造物になっているって、書いてあったわ」

 古川さんは、感動したように言った。

「実は昔、小学校の時に一度だけクラスメートに誘われて地元の教会に行ったことがあったの。初めてお祈りをしたときは、暗闇の向こうから細いけど一筋の光が私を手招きしているようだった。

 でも、私みたいな者が教会に行けるわけないわね。教会ってステンドガラスに覆われていて、なんだか聖人君子の集まりみたいだもの」

 僕は思わず言った。

「それは間違ってるな。聖書の御言葉の「人は皆、罪人です」のように、人間は神に逆らって以来、エゴイズムのとりこになってしまったんだ。

 罪というのは犯罪だけではなく、エゴイズムのことだ。

 だから、罪をもちそれに苦しんだ人ほど、教会に行く価値があると思うんだ」

 古川さんは、ふと言った。

「そういえば、最初にイエスキリストを伝道したのは、マグダラのマリアという売春婦だったという話を聞いたことはあるわ。

 十字架につけられたイエスの墓の前にたち、そののちイエスキリストを伝道したというわね」

 そういえば、僕も聞いたことがある。

 十字架に付けられ処刑された筈のイエスが蘇り、それを伝えたのが当時、男女差別がはびこっていた時代のしかも売春婦だったという話を。

 現実離れした荒唐無稽な話を、しかも当時一番身分の低かった女性が伝道し、それが世界中に広まっていったとは。

 まさに神がかりとしか言いようがない。

 そして、ただイエスの十字架を信じるだけで、罪から救われるというのも。

 お布施も肉体修行も必要ない。

 ただイエスを信じるだけで救われるという、こんなラッキーな話があるだろうか。

 しかし、日本は韓国とは違ってお返しの習慣がある限り、ただで救われるという話を聞いてもピンとこないだろう。

 事実、戦前はキリスト教の牧師になるということは「これであなたは日本人ではなくなった」と言われたという。

 お正月の年賀状も門松もしめ縄も仏教行事であり、幼稚園で行う節分も七夕も仏教の文化である。

 

 そんな土壌の中でキリスト教が広まって行ったのは、奇蹟としか言いようがない。

 もちろん人間の努力、精進、根性などではなく、神の聖霊の働きである。

 聖霊というのは、神から人間に送られる風のようなもので、目には見えず色も匂いも音もなく、形がないから梱包することもできず、人に送ることもできない。

 しかし、風のように感じることはできる。


 実は僕はジュリー氏から、性被害を受けたあと、身体と心がバラバラになりそうな恐怖感と、踏み入ってはならない部分に無理やり踏み入れられたかのような悲しみが襲ってきた。

 当時、ジュリー氏のような実年と呼ばれる年代の男性とは、目を合わすことも接することもできなかった。

 そんな僕の心の傷を察したのか、実年代の男性が僕に一冊の聖書をプレゼントしてくれた。

 聖書を読み勧めると、ある御言葉が釘付けになった。

「敵を愛せ。迫害する者のためにこそ祈れ」(聖書)

 不思議なことが書いてあるな。

 敵というのは愛せないから敵なんだ。愛することができたら、味方ではないか。

 迫害する者のために祈る?!

 そんな必要がどこにあるんだよ。

 まあ、僕自身はひどい迫害にあったことはないが、戦争ともなればこんな僕でも迫害の対象になるかもしれない。

 いや、現代の外国人の多い日本では、日本人が外国人に迫害される日が訪れるかもしれない。

 実際、プログラマーやシステムエンジニアの世界では、インド人や中国人の活躍が目立ち、日本人であることに胡坐をかいていると、どうなるかわからないという。

 この頃、ベトナム人の飲食店が目立つが、日本人好みに薄味で出し味をきかせているので、客は日本人が圧倒的に多いという。


 












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