第4話 探し物

 充希は映画の中で明らかに何かを探していた。それは、演技というわけではなく、さつきが充希を演じながら、自らが何かを探しているのだ。

 探しているものが、自分の普段から追い求めているものであるかどうか、さつき自身にも分からなかった。ただ、充希はさつきが演じているキャラクターであるが、何かを探し始めてからは、独立した一人の人間としても機能しているように思えてきた。

 それは他の誰かが感じていることではなく、充希だけが感じていることだった。

 だが、何度も何度も映像を見ているうちに、充希の考えていることが手に取るように分かってきた悟は、次第に映像を見直していくうちに、少しずつ前の記憶とは違う動きが感じられるようになってきた。

 最初は充希だけが不自然な動きをしているものだと思っていたが、不自然な動きはまわりが起こしているもので、全体が動いているという信じられない現象を認めたくないという思いから、充希一人が不自然な動きをしていると思っていたのだろう。むしろ充希の行動は自然であり、不自然さが取り巻く世界で浮いてしまっているのは、致し方のないことに違いない。

 では、自然な動きをしているはずの充希は、一体何を探しているというのだろう?

 まわり全体の不自然な動きに充希も最初は合わせようとしたに違いない。しかし、どこまで行っても掴むことのできない満天の星空に、充希は自分が合わせるしかないと思ったのだ。

――おや?

 充希がもう一人いるように感じた。

 ビデオが再生されるということは、同じ日を繰り返しているという感覚に似ている。ということは、数分前を歩いているもう一人の自分の存在を否定できない悟は、何度も繰り返して見ているビデオの中で、充希というキャラクターが増殖しているのではないかとさえ思うようになっていた。

 悟は、充希が増殖しているという感覚が嫌だった。それは、

――増殖することが気持ち悪いからだ――

 という感覚があるのも一つだが、それとは別に自分の中で許せない何かがあることに気づいていた。

 充希という女性を見ていると、充希が画面の向こうから何かを訴えてきているようにさえ思えてきた。それが一体何を意味しているのか、なかなか分かるものではなかった。

 充希がこちらを見ているのに気づくと、それまで自分が見ていた充希とは違う人物に思えてきた。何か心配事を抱えているようで、それを解消させたいのだが、その理由が分からず、画面の向こう側で見ている悟に、何かを訴えかけているかのようだ。

 今までに何十回と見てきたこの映画、どうしてこんなに何度も見返す気になったのか、考えたことはなかった。録画しておいたテレビ番組を何度か見直すことはあったが、それは映画のようなストーリーのあるものではなかった。見返す番組はバラエティーがほとんどで、見返しているというよりも、動いている画面をただ、ボーっと見ているだけだった。その時に何かを片手間に済ませていることもあったが、ほとんどは、横になって画面が流れているのを見ているだけだった。

 ストーリーのある映画やドラマだったら、いくら一度は見ている話しで内容が分かっているといっても、途中で見るのをやめることはしたくない。それが、ストーリーのある番組を見返さない理由だった。

――ストーリーのあるものを見返すのは、億劫なんだよな。重たい気がする――

 と思っていた。流れる仮面を見ながら、何も考えることなっく時間だけが過ぎていくのは理想ではあったが、そんな時に限って、いつもいろいろなことを考えていた。そういう意味でも、ストーリーのある話を見返すのは、何かを考える妨げになるだろう。

――何かを考える時というのは、頭の中がニュートラルな時に限る――

 と思っていた。

 ストーリーのある番組を見ていると、何かを考えるとしても、限られた中でしか、発想が浮かんでこない気がしたからだ。頭の中をニュートラルにしても、何かを考えようとすると、かなり狭い範囲でしか考えられない。ストーリーのある番組を見ている時に考えようとすると、頭の中が一つのことに凝り固まってしまいそうで、一つに凝り固まってしまうのが分かると、今度は無理にでも幅を広げようという思いがよぎり、余計な力が入ってしまうと、最後にはロクなことを考えないに違いない。

 そんな悟が、この映画を気にしてみるようになったのは、主演女優であるさつきが気になっていたからだ。充希というナースというよりも、最初に気になったのは、さつきという女優がだった。最初はそのことを分からずに映画を何度か見直してみたが、答えは最初から決まっているので、そのことに気づくのは時間の問題だった。

 それからさつきが出ている映画をレンタルビデオ屋で探してみたが、見つからなかった。ネットで調べてみると、他に出演している映画があったとしても、決まった役があっても、どこに出ているのか分からないほどのちょい役で、もし分かったとしても、

「これがあの娘?」

 と思うほど、役に対する取り組みが露骨に違っていた。

――見るんじゃなかった――

 役によって演技を変えるのであればまだ分かるが、ちょい役に対して、本当にやる気がなさそうで、ただでさえ目立たない役で、さらに気配すら感じさせない。エキストラとしてはそれでいいのかも知れないが、これでは大きな役の話が来るわけもない。

――よく、ナースの役が取れたものだな――

 とも思ったが、彼女はやる気さえあれば、何か輝くものを持ち合わせているのか、人の心を打つだけの演技ができる人だと思えた。

――事実、俺もその一人じゃないか――

 と、思えた。

 ただ、悟がこの映画を見直しているのは、他にも理由があった。それは今になってやっと少しずつ分かってきたのだが、以前バーを自分の隠れ家として利用していた時に知り合った由香という女性の存在が、自分の中の感覚に何か影響を与えたのか、同じ日を繰り返していたり、数分前をもう一人の自分が歩いているなどという、今から思えば馬鹿げているともいえるようなことを感じたその理由が、この映画に隠されているように思えたからだ。

 映像の中の充希は、あどけなさの中で、次第に波乱万丈な世界を歩んでいて、ナースとして一人前になっていくというストーリーなのだが、最後は中途半端だった。わざと中途半端にしたのだろうか?

 悟は少し違うことを考えていた。

――俺の見ているビデオは他の人のビデオとは違うもので、他のビデオでは、ラストシーンには、この映画の趣旨がきちんと結末として大団円を迎えているんだ――

 と思っていた。

 他のビデオとは違うんだと思わなければ、さつきが映像の中からこちらを見つめているなどという発想が生まれるわけもない。

 さつきは確かに画面のこちら側にいる悟を意識している。しかし、役である充希は、映像の中でずっと誰かを探し求めていた。それが誰なのか分からないから、

――このビデオは中途半端なところで終わっているんだ――

 という思いに至ったに違いない。

 中途半端に終わっていることに違和感を持ったのは、最初からではなかった。何度か見直しているうちに、

――この先が見てみたい――

 と思うようになった。

 続編があれば、見てみたいという軽い発想だった。しかし、違和感を最初にどうして感じなかったのかについては、違和感を感じた時から変だとは思っていたが、それは頭の中で無意識に、

――この話の続編は、これから出るんだろう?

 と感じていたからなのかも知れない。

 今までストーリーのあるものはほとんど見直したことがないはずなのに、この作品に関しては何度でも見てしまうのは、感じていなかったはずの違和感を、何度も見ることで、

――見落としていた何かを見つけたい――

 と、感じたからなのかも知れない。

――逆に言えば、最初からラストが辻褄が合っていて、中途半端な終わり方をしていないということをハッキリと意識さえしていれば、何度もこの映画を見直すこともなかったかも知れない――

 と感じた。

 これも、何度も見直すことへの自分を納得させるための言い訳に過ぎないのかも知れないが、当たらずとも遠からじであり、大きく的を外れているわけではないような気がしていた。

 悟は、自分の今まで生きてきた中で、中途半端に終わったことは数多くあったような気がした。しかし、それは悟に限ったことではなく、他の誰にでもあることだと思えた。その一つ一つを思い出すことは不可能だが、すぐに思い浮かぶこととしては、同じ日を繰り返していると思ったあの時だった。

 本当に同じ日を繰り返してしまったのか、今となってはそれを証明することはできない。一日だけ、同じ日を繰り返したような気がしただけで、次の日の午前零時には。きちんと「次の日」がやってきた。

――夢だったんだろうか?

 と感じたが、夢にしてはリアルだった。しかも、夢として片づけてしまうには、曖昧なことが多いような気がする。

――夢の世界の方が、却って自分を納得させられるだけの展開が用意されている――

 と考えていたのだ。

――夢というのは、潜在意識が見せるもの――

 という考えがある。悟は本でその考えを知ったのだが、その一言だけで、今まで感じていた夢に対しての違和感を解決できたような気がしたのだ。

 次の日が来たことでホッとした気分になったのは事実だった。

――もし、そのまま次の日も同じ日だったら……

 と考えると、悟はゾッとしてしまう。その感覚は、

――夢なら早く覚めてほしい――

 という思いであり、ただ、これと似た感覚に陥るのは、この映画を見ている時だった。

 この映画をホラーやオカルトのイメージで見ているわけではない。ということは、同じ日を繰り返しているという感覚は、今となって思えば、怖いという意識が露骨に表に出ていたわけではなかった。

 最初の頃は見返すたびに、いろいろな感覚が頭をよぎったが、何度も見直すうちに、さほど考えが頭をよぎることはなくなった。映画を見ながら、さつきを見つめているせいか、ほとんど何も考えていないようだ。

――今までに、こんなことはなかったはずだ――

 一度見た番組を何度も見直している時は、いつも他のことを考えていた。逆に言えば、他のことを考えたいから、同じ番組を見ようと思っているのかも知れない。沈黙の中で何かを考えていると、

――余計なことを考えてしまい、ロクな発想が頭に浮かんでこない――

 と、思うからだった。

 映画を見ていると、充希が最後は誰かを探しているところで終わっていた。

 俊哉がどうなったのか、史郎は結局死んでしまうのか、そのどちらもハッキリとは描いていない。

 充希は確かに誰かに恋心を抱いていたはずなのだが、それが誰なのかも分からない。

 ミスをして落ち込んでしまった俊哉には、性格的にトラウマになって残ってしまったものがあっただろう。さらには何といっても、生きることを許されないかのように、検査で死の宣告を受けてしまった史郎は、誰にも自分の死を知らされず、残り少ない人生を生きなければならない。

 確かに史郎に対しての同情は、桁外れのものがあるだろう。だが、冷静に考えれば彼は死ぬのだ。同情を永遠に抱くことはできないのだ。彼が死んでしまえば、肉親でもない限り、どんなに今思っていても、時間の経過とともに、彼のことを忘れ去っていくのだ。

 また、そうでなければ、病院のように、

「一年でどれだけの人間が死んでいくというのだ」

 落ち込んでいては身が持たないし、神経ももたない。病気の患者は、待ったなしなのだ。そう思えば、同情というのがどれほど甘い考えなのか、少し冷静に考えれば分かることのはずだった。

 だが、病院を舞台にした作品は、そのほとんどが、人の死というものを避けて通ることのできないものだ。そして、ほぼ同じ思いを誰もが持っていて、それを乗り越えなければ、病院では仕事ができないというのが定説のようになっている。

 定説であろうとも、病院を舞台にした作品は今も昔もなくなることはない。それだけテーマとしては永遠のものなのだろう。俊哉にしても、史郎にしても、結論は見えている。しかし、この作品は、その結論を出していない。何度も見直してみるのは、その答えを見つけようとしているからだ。毎回同じ内容のものを見ていて、見つけられそうな結論は、いつも微妙に違っている。

――もうここまでくると、結論を見つけるなど、どうでもいいことだ――

 と思うようになっていた。

 何度も繰り返して見ているのは、最初こそ、

――何かの結論を見出したい――

 と思っていたからなのかも知れないが、今となってみれば、気になっているのは、充希が、

――一体誰を探そうとしているのだろう?

 という疑問だった。

 探しているのが充希だとすれば、映画の中の登場人物ということになるのだろうが、逆に探しているのがさつきであれば、画面という境界を越えて、誰を探しているのかというのを見つけることは果てしなく難しいことになってしまうだろう。

 最初は、充希が探しているものだと思っていたが、途中から、

――探しているのはさつきの方ではないか――

 と思うようになっていた。

 確かに最初は充希が探していたように思えた。そして、充希が探している人が見つかったことで、今度はさつきがまた違う他の人を探すことになる。充希が誰を見つけたのかということが、今さつきが探している相手と関わってくるような気がして仕方がなかった。

 そのことに気が付いたのは、さつきの表情を懐かしいと感じたからだった。

 確かに顔はさつきのものだが、表情や雰囲気の中に、時々懐かしさを感じることがあった。それが由香であるということに気づくまで、さらに時間がかかったのだ。

 忘れてしまったと思っていた由香だったはずなのに、さつきを見ていると由香のなつかしさを思い出すのは、さつきが由香と関わりがあったことを示すものだったような気がする。

 悟は由香のことを好きだった時期があったが、いきなり冷めた気分になったのは、

――由香の中に、他の女性を感じた――

 と思ったからだった。

 もし、それが男性であれば、明らかに嫉妬なのだろうが、女性であるというのは、嫉妬ではないと自分に言い聞かせていたのだが、本当に嫉妬ではなかったのだろうか? 男性であれば、簡単に理解できるものも、相手が女性であれば、余計に頭が混乱してしまう。

――自分の知らない世界を、由香は知っているんだ――

 と感じたからだった。

――その時の女性というのが、充希を演じているさつきだというのは、あまりにもでき過ぎなのだろうか?

 と感じた。

 偶然という言葉で片づけられないことは、他にもたくさんあるだろうが、元々、バーが消えていたり、夢の中の世界にいるような感覚だった。どこまでが自分の考えなのか、結界のようなものがあるように思えた。

 由香が他の人に惹かれていたというのは分かっていたつもりだ。だが、それがさつきだったというのは知る由もなかった。ただビデオを見ているうちにもう一人誰かが潜んでいるのを感じると、今まで思い出すことのなかった由香だったというのは皮肉なことだった。

 しかもビデオの中で由香を感じると、今まで思い出すことがなかったはずの由香を、毎日のように思い出していたのではないかと感じる。錯覚ではあったが、ただの錯覚として片づけられないものがあった。

 ビデオの中に由香を感じると、

――今の由香なら、何でもできそうな気がする――

 と感じた。

 由香は冷静ではあったが、急に冷めたりするようなことは考えられない性格だと思っていた。

――買いかぶりすぎていたのかな?

 と思っていたが、「いきなり」ということには慣れていた悟には、急に冷めたことにも慣れてしまったような気がして、深く考えないようになっていたのは、悟にとっての短所だったのかも知れない。

 短所を簡単に認めたくない悟は、

――短所は長所の裏返し、さらには、短所と長所は紙一重というではないか――

 と思うことで、短所に対していろいろな「言い訳」は用意できた。

 だが、しょせんは言い訳でしかない。由香に対して冷めた理由を考える前に、由香から遠ざかってしまったのは言い訳では済まされない気がしてきた。

「今さら手遅れよ」

 この言葉を由香の口から言われれば、悟は立ち直れないかも知れないと思った。しかし、その可能性は限りなく薄い。由香から直接聞くことはできないと思っていた。由香が自分の前から消えてしまったあの日、バーの存在も消えてしまった。目の前から消えてしまったバーがどうなってしまったのか、怖くて確認できなかったのは、由香が自分の前から消えてしまったことに対して感覚がマヒしてしまったことを正当化させるためには必要なことだったのだ。

 バーの存在を消したのは、悟だけのことだっ。あれからバーがあったあの通りを通ることはなくなったからだ。もし、そのバーが同じ場所に存在していれば、きっと悟は立ち寄るに違いない。自分で分かっているつもりだ。そこに現れるはずがないと思っている由香を待つことになるというのも分かっていることだった。

――それこそ、その日から抜けられなくなるんじゃないだろうか?

 もう一人の自分の存在を意識しながら、同じ日を永遠に繰り返している自分を想像することはできない。想像することはできないくせに、展開は他にはないと思うのだった。

 悟は、自分では執念深い性格だとは思っていなかったが、三十代の頃から、

「意外と君は根に持つところがあるよな:

 と、同僚から言われたことがあった。

 会社では、あまり同僚と話すことがなくなったのはその頃からのことで、それまではちょくちょく仕事が終わって一緒に呑みに行ったりしていたが、数人で呑みに行っても、いつも他人の会話に入り込むことができず、一人浮いた存在になっていた。

 それも慣れからなのか、誘われて断ることを知らない悟は、いつも孤独だった。しかし、孤独も慣れてしまうと、さほどでもなかった。ただ、

――一体何が楽しいんだ?

 と、まわりが浮かれていることに対して、絶えず冷めた目しか持っていなかった自分がどんな表情をしているのか、想像することは難しかった。

 そんな時、無理して自分冷めた目を想像することはしなかった。その場の雰囲気に流されるだけの人間になってしまっていることを分かってはいたが、だからそれがいいことなのか悪いことなのか分からない。そもそも善悪で片づけられる問題でもないと思っていたのだ。

 一人で浮いてしまっているのだから、放っておいてくれればいいのに、急に話しかけてくる輩もいた。そんな連中を適当にいなしていたが、さすがに誰が聞いても失礼なことを言われると、ショックは隠せない。

 しかも、その言葉が発せられた時、その場は凍り付いたように固まってしまった。言葉を発した方も、ばつの悪そうにしていたが、すでに遅く、まわりの冷めた目は、その男に注がれていた。

「何だよ」

 と、言葉に出して言いたいのだろうが、言葉に出すことはなかった。まわりの視線の冷たさに、自分んp発言がどれほど愚かなことだったのかということに気が付いたようだが、そういう軽い気持ちで言葉に出すやつに限って、まわりの視線には敏感だったりする。

 追い詰められた表情は、喉の渇きを呼び、焦りながら視線は悟を捉えていた。

「助けてくれ」

 目はそう言っている。悟だけがその時、この男に冷めた視線を浴びせなかったのだろう。すでに焦りから前後不覚の状態に陥っているこの男は、冷静な判断力は皆無のようだった。自分が傷つけたであろう相手に対して、助けを請うなど普通の精神状態ではありえないことだろう。

 完全に立場関係は逆転したのだから、仕返しはし放題だったのだろうが、悟はそんな気にはならなかった。

――明日は我が身――

 という思いもあったのだろうが、それ以上に目の前にいるこんな男と少しでも関わっていることに嫌悪を感じていたのだ。

――これ以上、この男を意識すると、俺は自己嫌悪に陥ってしまう――

 と思った。

 自己嫌悪に陥ると、下手をすれば、そのまま鬱状態に入り込む危険性がある。少なくともこの時の雰囲気は、鬱状態を引き起こすには十分な可能性を秘めていたような気がしたのだ。

 悟は、その時から人を冷静な目で見るようになり、相手の視線にまずは気を付けるようにした。

――視線だけを見ていれば、その人の考えや、それからのその人との関係を垣間見ることができる――

 とまで思っていた。

 由香に感じた冷めた視線、それはその時から以降、

――一度入った亀裂が修復されることはない――

 と思わせた。

 一度、距離を取ったからと言って同じことなのかも知れないが、しばらく距離を取ってもう一度視線を感じたいと思ったのは、それまでの由香との会話が忘れられないほどだったからだ。

――この人が、こんな冷めた目をするなんて――

 信じられない気持ちでいっぱいで、その時のショックは、だいぶ後になってからでも思い出せるものだった。

 しかし、由香に対してのハッキリとした記憶は、その時の思いだけだった。

――もっと仲良くなりたい――

 と思った知り合った頃、

――これ以上関わりたくない――

 と思ったショックの後の心境。

 そのどちらも意識はしているのに、その時の心境を思い出すことはできない。感覚で思い出すことができなければいくら記憶が思い出させても、それが本当に自分の記憶から引き出したものなのか怪しいものだった。

 悟は、自分が根に持つ性格だと言われた時のショックは、その言葉を言われたからではなかった。

 それまで意識していなかったはずの、

――根に持つ性格――

 ということ、言われてから意識するようになったのは仕方がないことなのかも知れないが、本当に根に持つようになってしまったことは、自分にとって不本意なことだった。

――思ってもみなかった展開――

 いきなりが多い悟にとっても、青天の霹靂だった。

 ただ、根に持つというのがどういうことなのかというのを、人から言われるまで意識していなかった。

――どこからどこまでを根に持つというのだろう?

 根に持つということを、範囲で考えようとしていた。

 漠然としてしか考えていなかったことに対して、範囲で考えようとするということは、より具体的な感覚であり、さらには真剣に考えようという姿勢の問題でもあるように思えた。

 若い頃は、漠然と考えたとしても、何かの結論が早い段階で得られたであろう。だが、それが本当にゴールだったのかどうか分からない。どうしても、最初に見つけた結論を、本当の結論だと思い込むのは無理のないことで、若いだけに、猪突猛進にもなりがちであった。

――物事には、段階というものがある――

 ということに気が付いたのは、かなり後になってからのこと。つまりは、それだけ年齢を重ねたということだ。経験がそう感じさせたのか、それとも年齢を重ねたことで感じるようになったのか、そのどちらもが微妙に絡み合うことが大切だと最近では思うようになった。

 その頃から、気に入ったものであれば、音楽でもビデオでも、何度も繰り返して見返したりするようになった。若い頃はそんなことはなかったのだが、それがなぜなのか、考えたこともなかった。ただ、同じことを繰り返すようになってから、

――時間を無駄使いしているように思っていたんじゃないのかな?

 と感じるようになった。

――ひょっとすると、同じ日を繰り返すという思いを、近い将来するのではないかと思っていたのかも知れない――

 と、感じるようになった。

 自分が気に入ったことを繰り返すようになったのが、決して時間の無駄ではないということに気づいたからではないだろうか。そう思うと、

――タイミング的に、その時だったのはなぜなんだろう?

 という思いを残すことになったが、最初から予期していたと思うと、その日だけだったことが今さらながらによかったと思えてならなかった。

 もし、二日以上続いていれば、自分の中で、

――もう抜けることはできないんだ――

 と感じてしまい、本当に入り込んではいけない世界の扉を開いてしまったと思い込んでしまうことだろう。開けてはいけない

――パンドラの匣を開けてしまった――

 という後悔してもすでに遅い状態に陥ると、誰かが入ってくるまで抜けられない苦しみを味わうことになってしまう。

――由香は、ひょっとすると、その世界にいたのではないだろうか?

 という思いに駆られた。

 つまりは、由香というクモが張り巡らせた糸による罠に嵌ってしまいかけた悟は、寸でのところで罠から抜け出すことができたのではないかという思いであった。

――じゃあ、由香というクモはどうなったんだろう?

 どうもなったわけではない。

 最初からそんな女は存在したわけではない。元々、同じ世界を繰り返している中にいた由香は、誰かが来てくれるまで自分が抜けられないことを悟り、自分から動かなければ誰も入ってくるはずはないという結論を自らが作り出した。

 由香がこの世界に入り込んでしまった原因については、ある程度見当はついている。そこに気づいたことで、ここから抜けるには、誰かと入れ替わることしかできないと思うようになったのだ。

 あのバーを隠れ蓑にしていたのかも知れない。悟はそんな場所を自分の「隠れ家」だと思うようになったことで、由香の神経のアンテナに反応したに違いない。

――この人なら、自分の身代わりになってくれるかも知れない――

 という思いから、悟に近づいた。

 しかし、悟が自分の身代わりにはならないということに気が付いたのだろう。その思いから、急に態度が冷めてしまったのだ。

 ただ、由香はもう少し悟と話をしたり、考え方を聞くべきだったのだ。

 悟も由香と同じように同じ日を繰り返す状況に陥ったのに、一日だけで抜けてしまった。考え方が由香とは違ったからだろう。元々悟に同じ日を繰り返すという感覚はなかったので、話をしても、由香が直接聞きだしたいことを聞き出せることはないだろうが、少なくとも悟を自分の身代わりにすることよりも、難しくはないはずだった。

 由香がこの後どうなったのか?

 悟は思い返すことはなくなったが、映画を見ていてもう一人の誰かを感じた時、由香のことを思い出している自分を感じていた。

 由香が、さつきと知り合いだということまでは知らなかったが、由香が自分以外に誰かを求めていたのは女性だということだけは分かっていた。ハッキリとした確証があったわけではないが、お互いを求めあったことは想像できる。

 由香の相手を想像することは難しいはずなのに、いやらしさはさほど感じない。いやらしさというよりも、芸術的なエロスを感じさせ、それが由香の魅力だったことを今さらながらに感じるのだった。

「あなたは、私の後ろに誰かがいるのを感じているの?」

 と、由香が言っていたのを思い出した。

――おかしなことを言う――

 とその時は感じたので、それについて回答は控えたが、由香自身も、答えが返ってくることはないと思っていたようだ。

 だが、その時悟はハッキリと分かった。

――由香の後ろには誰かがいて、それは女性なんだ――

 という思いである。

 さつきという女性を、悟は知らない。しかし、さつきの演じる充希のことは誰よりも知っているのではないかと思っている。さつきという女性の現実世界に悟が入り込む余地はないだろうが、充希という女性を自分のものにするくらいのことはできるのではないかと思うようになった。

 充希が画面の外を意識していると感じたのは、それからしばらくしてからのことだった。最初はビデオを見ている他の人すべてを意識しているのではないかと思っていたが、悟自身が、

――自分が意識しているのは、充希だ――

 と考えるようになってから、充希の視線を感じているのは、自分だけなのだということを悟った気がした。

 充希が気になり始めてから、充希の後ろに由香を感じたのはどうしてなのだろう?

 由香はさつきを意識していて、充希を意識しているわけではないはずだ。さつきは、由香を気にかけていながら、避けていたのかも知れない。由香の抱えるその奥にある大きな闇に気が付いて、引き寄せられないようにしないといけないことを悟っていたのだろう。

 さつきが由香を避けることで、由香は、さつきの中にいる充希に照準を絞ったのかも知れない。しかし、悟は逆のことを考えていた。

――さつきの中に充希がいるのではなく、充希の中にさつきがいる――

 と思っていた。

 充希を見ていてその後ろに由香を感じたのは、充希しか見えていない今、さつきがどこかに隠れているからである。隠れるとすれば充希の中しかないではないか。そう思うと、由香が感じているであろう感覚と、悟との感覚は、平行線を辿ることになる。それは、由香と悟の間に、お互いに侵すことのできない強い結界があることを示していた。

――由香は死んでいるのかも知れない――

 と感じるようになったのは、その時からだった。

 ただ、由香が本当に死んだという意識は正直言ってない。

 以前から由香のことが意識から薄れるたびに、

――由香は、もうこの世の人間ではないのでは?

 と何度か思ったことがあったが、なぜかすぐに否定している自分がいた。

 気配を感じないことが、人の死を予感させるものであるのを否定はしないが、由香に関しては死んでしまったというよりも、違う世界に入り込んでいるイメージが強い。

 それが由香というクモの張り巡らせた糸をイメージさせるのかも知れない。ただ、由香が張り巡らせた糸の先にいるのはが自分だということを、今では感じることはなかった。その相手はやはりさつきなのではないだろうか? 充希が誰かを探しているというイメージは、見えているようでハッキリと見えない相手として、クモの糸を張り巡らせた由香ではないかと感じさせるのだった。

 由香がこの世の人間であったとしても、クモの糸を張り巡らせているのであれば、その狙いが誰であるのかが問題だった。すでに自分が違っていることは分かっている。あの時バーがなくなっていたことで、由香も悟と縁を切りたがっているということを察したからだ。あの時、悟が少しでも由香の気持ちに気づいていれば、少しは違ったかも知れない。彼女は冷めていたというよりも苦しんでいたのかも知れない。そう思うと、彼女が哀れに感じられた。

 だが、この映画が気になって仕方がなかったのは、さつきの演じる充希が、探そうとしているものが何であるか、それが気になったことと、充希が自分を気にしているという感覚と、充希を演じるさつきの後ろに暗躍している人がいて、その人を自分が知っていると思ったからだった。

 この話が中途半端に終わっているのは、充希が何かを探し求めていて、それが見つかっていないからだと思う。

 由香がクモの世界に入り込んでしまったのは、さつきを自分の世界に誘い込んでしまいたいという願望を抱いたからではないだろうか? 由香は最初からクモになっていたわけではない。自分の中に抜けることのできない世界を感じたことで、自分が好きになった人を引きづりこみたいという思いがあったからではないだろうか?

 それがさつきであり、さつきとの関係が冷えてくれば、悟だったのだ。

 元々由香は、相手が女性でないと関係を持てないと思っていた。相手が男性であれば、腹を空かしてしまうと、相手を食べてしまうという妄想に駆られているからではないだろうか。だから、相手はさつきでなければいけない。さつきが演じる充希ではダメなのかと感じていたようだが、充希は由香の考えが分かったのか、さつきから分離して、一人で意

思を持つようになったのだ。そして、さつきは充希を演じることで、同じ日を繰り返しているという世界に、由香を閉じ込めたのだ。その世界に導くことができるのは充希だけだった。由香を引き付けるだけ引き付けておいて、同じ日を繰り返す世界に送り込んでいた。この世界は由香には自然に感じられた。まさか自分のいた世界と違う世界に入り込んでしまうなど、想像もしていなかったからだ。これも充希の力である。充希はさつきによって作られた虚空の世界の人間なのだ。

 同じ日を繰り返すという現象を自然だと感じた由香は、悟も同じ世界に誘おうと思った。由香にしてみれば、悪気があったわけではない。確かに自然な世界ではあるが、一人では寂しい。その相手に悟を選んだのだが、最初、この世界を自然に感じられるまで、疑問を感じていた由香が表に表した態度が、冷めているように悟には感じられた。

 そんな由香の様子を勘違いした悟が、由香の誘いに乗るわけがない。由香のことを全面的に信じていない限り、同じ日を繰り返しているということを自然に感じるなどありえないことだった。

 もし感じたとしても、本当に由香と二人で入り込むことを望んだだろうか?

 今となっては分からないが、由香は今も同じ日を繰り返しているのかも知れない。

――同じ日を繰り返していると、年を取ったり、死んだりしないのだろうか?

 と考えたが、年も取るし、死ぬこともあるだろう。死ぬことで同じ日を繰り返しているという現象から抜けられるのかも知れないが、そのどちらも本人が望んでいないとするならば、何とも皮肉な結果が最終的には待っているのかも知れない。

 由香は、悟を誘い込むことに失敗したことで、一人でこの世界に残ってしまったことになった。そんな由香の存在を知っている人が一人だけいた。それが、さつきが演じている充希だったのだ。

 映像の中で充希が探し続けているもの。それが由香であった。由香が同じ日を繰り返していて、さつきの分身である自分なら、由香と一緒に同じ日を繰り返すこともできると思っているのだろう。

 そんな充希を表から見ている悟。悟には充希が何かを探しているように思っていたが、それが何なのか分からない。

 悟は充希を見つめながら、その背後の由香を感じていた。

――僕はこのビデオを見ている時だけ、現実の世界にいるのかも知れない――

 ひょっとすると充希が探しているのは、由香だけではなく、悟なのかも知れない。ビデオをいつも見ている悟の前で、絶えず何かを探している素振りを見せる充希、彼女はナースでありながら、人の死をまわりが感じているよりも軽く感じていたようだ。

――ビデオを見ていない時の僕は一体どこにいるというのだろうか?

 そう思った時、ビデオの向こうに椅子に座ってこちらを見ている一人の男がいるのを感じた。

――僕じゃないか?

 ビデオを見ているという意識がない時、それは自分がビデオの中にいて、充希と同じ世界にいる。しかし、二人が出会うことはなかった。同じビデオの世界であっても、そこは次元が違っているようだ。

――決して出会うことのない二人――

 それは、決して交わることのない平行線を描いている気がしていた。

――そういえば、同じ日を繰り返していると思っていたあの時、数分前を歩く、「もう一人の自分」を感じたんだっけ?

 と思うようになっていた。

 もう一人の自分は、ビデオを見ている自分、そしてビデオを見ていない時は、ビデオの中の別次元に潜んでいるのだ。

 充希が探している相手というのは、由香に間違いはないだろうが、それだけだろうか?

 充希は、ビデオの中にもう一つの次元が広がっているのを知っていて、そこに、いつもビデオを覗き込んでいる悟がもう一人いて、そこに潜んでいるということに気が付いているのかも知れない。

――充希が探している二人のうちの一人を見つけることができると、もう一人も同じ次元に引き寄せられるに違いない――

 と感じた。

 一体、悟がいつこの世界に入り込んだのかハッキリと分からないが、由香が冷めてきたことを感じた時、今の世の中に寂しさと失望を感じたのをおぼろげながらに記憶している。今となっては、どうでもいいことなのかも知れないが、望みとしては充希に、

――早く僕か由香を見つけてほしい――

 と思うことだった。

 決して出会うことのない人が次元を超えて出会うことで、それまで歪んでいた世界が一つにまとまる気がしてきたが、やはり、そんなことはもうどうでもいいことだった。

――焦らずに待ってみるか――

 こんな落ち着いた気分になったのは初めてだった。一人が寂しいと思う時期はずっと過去のこと、少々のことでは何も感じなくなっていた。

――いや、もし以前にもこんな落ち着いた気分になったことがあったとすれば、バーが目の前から消えたのを見たのに、それほど驚愕しなかったあの時なのかも知れない――

 と思う悟であった……。


                  (  完  )

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時空を超えた探し物 森本 晃次 @kakku

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