第2話 異臭
晃少年には好きな女の子がいた。
その娘は、晃少年が通っている病院に入院しているのだが、彼女は晃少年よりも、いくつか年上であろう。小学生の低学年くらいの男の子から見て、三歳ほど年上であっても、かなりお姉さんに見えていたに違いない。彼女も、晃少年が低学年の小学生には思えないほどのしっかりとした雰囲気を感じていて、人を寄せ付けない雰囲気だけが表に出ていることを感じていた。
ちょうど次の日は病院への通院の日だった。病院には一週間に一度通っている。別に何か治療を施しているというわけではないが、定期検診のようなレントゲンや採血などを行っている程度だった。
病院まではメイドの一人が連れてきてくれた。執事も一緒に来るものだと思っていたが、病院だけは、執事は一緒に行くことはないようだ。
晃少年が病院で入院している女の子と仲良くなっていることは誰もが知っていることのようだった。午前中に診察を済ませてから、午後は彼女と一緒にいる時間を作ってくれた。執事がついてこなかったのは、一日掛かりになってしまっては、忙しい自分には、一日を棒に振ることは許されないのかも知れない。
その女の子の名前は、佳苗ちゃんと言った。相手のことをかなり年上のお姉さんとして一目置いているくせに、彼女のことを晃少年は、
「佳苗ちゃん」
と呼んでいるようだ。
俊三は佳苗のことを何も知らないはずなのに、目の前にすると、勝手に言葉が出てくるような気がした。佳苗を正面にした瞬間に、俊三の意識の中に、晃少年の記憶がよみがえってきたかのようだ。だが、晃少年の身体の中に、晃少年の意識は存在しているわけではない。佳苗を正面にした時も、晃少年の意識が戻ってきたわけではなく、記憶が俊三の中でよみがえってきたというのが一番適切な表現であろう。
あくまでも今の晃少年の身体の中にある意識は俊三しか存在していない。
――では一体、本当の晃少年はどこに行ってしまったのだろう?
一つ気になるのは、俊三がどうして晃少年の中で「生き直す」ことになったのかということだった。
俊三の生きてきた人生のどこかに、晃少年との接点があるのかも知れないと思ったが、記憶の中を紐解いても、どこにもそんな記憶は存在しない。
――自分が生き直すためには、生き直す相手の記憶を消してしまわなければいけないのだろうか?
と思ったが、そのわりには、要所要所で、晃少年の記憶がよみがえってくるのだ。それは晃少年の主観的な意識ではなく、俊三が感じていたであろう晃少年の記憶だったのだ。
記憶に対して、俊三は特殊な考え方を持っていた。
一言で「記憶」と言っても二種類ある。一つは、表から感じるものと、もう一つは中から感じるものである。前者は思い出すもので、後者はよみがえってくるものであった。
つまり、俊三が考える晃少年の記憶は、中から感じるもので、よみがえってくるものであった。
初めて見たはずの佳苗を見て、
――本当に初めてなんだろうか?
と感じた。
佳苗は俊三の初恋の女の子に似ていた。今まで好きになった女の子のほとんどは、初恋の女の子を彷彿させるもので、初恋の女の子に恋をした瞬間、自分がどんな女の子が好きなのかということが決定したような気がしていた。
初恋の女の子は、俊三の中で永遠の存在だった。
「初恋は成就することはない」
という言葉通り、うまくいくことはなかった。なぜうまく行かなかったのかということを考える気もしなかったが、それは、今から思えば、初恋の思い出を汚したくなかったという思いからだったのかも知れない。
その日は、佳苗の方から晃少年に話しかけてきた。
「晃くん、診察終わったの?」
分かりきっていることを聞いてきた。佳苗は見るからに余計なことを口にするタイプではなさそうだったが、晃少年の前では従順なようだった。ただ、それは表向きは晃少年でも、中身が四十歳の俊三なのだ。小学生の女の子の気持ちくらい、分かって当然だと思っていた。
ただ、どうしても視線だけは見上げるようになってしまう。これだけはどうしようもない。晃少年の記憶がよみがえるのは、上を見上げる視線のせいなのかも知れない。そう思うと俊三は、複雑な心境になってきた。
「うん、終わったよ。佳苗ちゃんこそ、体調の方はいいのかい?」
この言葉は俊三の意識の中から出てきたものではない。勝手に口が動いて、声になったものだった。
「ええ、大丈夫よ。心配してくれてありがとう」
何ら変哲のない会話なのに、佳苗の気持ちが分かってくる気がした。晃少年だったら、分かるはずもないこと、そして俊三の意識ならなおさら分かるはずものないことでも、二人の意識と記憶が一緒になれば、分からないことも分かってくる気がした。
ただ、複雑な心境だった。
――佳苗ちゃんは、僕と同じなんだ――
晃少年の記憶が、俊三に向かって呟いている。呟いている言葉を、俊三だけが聞いてあげることができるのだが、誰も聞いてくれないのに呟いている虚しさとは違い、晃少年の呟きは、俊三の意識に深く入り込んでくるようだ。
俊三は、晃少年が自分の言葉で話していないことに気付いていた。どこかぎこちないのは、自分にも覚えがあった。
――やはり、晃少年にとっての初恋なんだ――
自分の三十年前を思い出す。
あの時も近所に住んでいたお姉さんだった。母親同士が仲が良かったこともあって、一緒にいる機会が多かったが、それが自分の初恋だと気付いたのは、本当に最後のことだった。
お姉さんが遠くに引っ越してしまうという話を母親から聞かされた時でさえ、自分がお姉さんのことを好きだということに気付かなかった。引っ越しの日がいよいよ一週間と迫ってから、急にお姉さんのことが気になり始めたのだ。
まわりが急によそよそしくなっていくのを感じた。引っ越して行く相手に対して、どう接していいのか皆が分からなかった時期なのだろう。
――あれ? 何か感覚が違う――
いつものように家でテレビを見ていても、どこかソワソワしている。最初は、そのソワソワが、楽しみなことなのか、嫌な予感に基づくものなのか分からなかった。しかし、テレビを見終わってから、いつもであれば風呂に入ったりするのに、その時は、見ていた番組が終わっているにも関わらず、ただ画面を見ていた。頭の中では見ている番組が終わっているという意識はあるのだ。上の空であっても、ボーっとしているわけではなかったのだ。
今から思えば、成長するにつれて、同じ思いを何度もするようになった。失恋した時だけに限らず、何かショックなことがあったわけではない時でも、同じように上の空でも、ボーっとしているわけではないことがあったのだ。
その時の自分の心境に、共通点があったわけではない。ショックなことがあった時はもちろんのこと、別に特別に何かがあったわけでもない時でも、同じような心境になっていた。
最初は周期的なものだと思っていた。
思春期には、自分でもよく分からない心境になることも少なくはなかったので、その影響からだと思っていたが、どうやらそうではないようだ。生まれついての感情が、思春期の不安定な心境と絡まって、自分の性格を形成する一部になってしまったのではないかとも思えてきた。
初恋は成就しないという発想は、晃少年の中にあった。小学生の低学年で、そこまで感じているというのは、ある意味すごいことだが、どのようにして初恋が終わるのかというシュミレーションも頭の中にあるようだった。
――俺の子供の頃は、ギリギリになるまで、初恋だということに気付かなかったのに――
と、俊三は自分と晃少年との違いを痛感していた。
――人それぞれだと思っているはずなのに――
晃少年が羨ましく感じられた。記憶だけでそこまで感じるのに、もし意識が存在していたら、俺のことをどう思うだろう?
晃少年の意識は、本当は最初から彼の中にあったのかも知れない。
晃少年には自分と同い年の俊三しか見えておらず、四十歳の意識を持っている俊三には、晃少年を感じることができないのと同じで、同い年の俊三を意識してしまった以上、晃少年には四十歳の俊三を感じることができないのだ。
そういえば、俊三の初恋のお姉さんが、引っ越していく最後に、面白いことを言っていたのを思い出した。
「俊三君とは、また会えるような気がするの。でも、その時、私はどうしているのかしらね?」
と言っていた。
――どういう意味なんだろう?
その言葉が俊三の中でずっと引っかかっていた。高校生になるくらいまで、その言葉を覚えていて、
――絶対に、もう一度会えるんだ――
と思っていたものだった。
そのせいもあってか、俊三が異性に興味を持ち始めるのは、かなり遅かった。高校生になってからのことで、ちょうどその頃から、お姉さんのその時の言葉を忘れかけていったのだった。
異性に興味を持ち始めると、最初に感じたのは、
――女性と一緒にいるところを見せびらかしたい――
という思いが最初だった。
散々、まわりから女の子と一緒にいるところを見せつけられていた。自分に異性への興味はなかったはずなのに、どこかイライラした感情が燻っていた。どこから来るものなのか分からないだけに、俊三はストレスの持って行きどころに困っていたのだ。だから、異性への興味というよりも、まわりに見せびらかしたいという思いから、彼女がほしいという発想に至ったのだ。
――俺って、発想がおかしいのか?
とも感じたが、同じように感じているのも自分だけではないはずだ。
「隣の芝生は青い」
というではないか。羨ましいという気持ちも異性への思いを掻きたてるための、一つの起爆剤のようなものだと思えば、自分が晩生だったことも分かってくる。
お姉さんの言葉を忘れていたわけではなかったのに、俊三はお姉さんと会うことができなかった。
いや、厳密に言えば出会っていたのだが、気が付かなかったのだ。
その時、俊三には付き合っている女性がいて、その人しか目に見えていなかった。しかも彼女は、お姉さんに雰囲気は非常によく似ていた。似通った部分が気になるところであったなら、お姉さんのことも気がついたのかも知れないが、あくまでも雰囲気が似ているという程度で、ハッキリとしたことは言えなかった。
俊三にとって、お姉さんは、
――侵すことのできない神聖な存在――
だったのだ。
その思いがあるから、お姉さんに気付かなかった。妄想が想像をはるかに上回ったための悲劇だった。
お姉さんは、気付いていたのだが、自分から声を掛けることができなかった。子供の頃は手を伸ばせばいくらでも自分の思い通りになった存在だったのに、年月の流れは、完全に立場を逆転させていた。
お姉さんは引っ込み思案になり、俊三はいよいよ異性への興味が爆発し始め、しかも整った顔の作りが女性にモテたのだ。
有頂天になった俊三は、自分でも抑えきれないほどの暴走を体験し、挙句の果てに、女性からは、信用を完全に失うことになった。友達も離れていき、一時期一人孤独に苛まれる日々が続いたのだった。
そんな記憶は、すっかり忘れているつもりだったが、初恋を思い出してしまうと、
――どうしてあの時、お姉さんに気付かなかったのだろう?
と、後から思えばお姉さんが、
「俊三君とは、また会えるような気がするの。でも、その時、私はどうしているのかしらね?」
と言った言葉は、それ以降の自分の人生に暗雲が立ち込めることへ繋がっていくことを示唆していたのかも知れない。
その時のことを思い出すと、晃少年が思いを寄せる佳苗に対して、俊三が生き直す意義を考える時だと思えてきた。俊三の中にいる晃少年の記憶の中に佳苗のことはインプットされているが、それはあくまでも状況だけで、自分の気持ちに対しての表れは、一切なかったのだ。
それは俊三が中にいることで、晃少年の記憶が「他人事」としてブロックしているからなのか、それとも、俊三の方が晃少年の意志を感じないことで、晃少年に対して一線を画しているからなのかの、どちらかではないだろうか?
ただ、俊三が感じているお姉さんへの思いと、晃少年が感じているであろう佳苗への思いとでは、かなりシンクロした部分があるように思える。俊三は、晃がどんな少年なのか、本気で知りたいと思うようになっていた。
いつもなら、日帰りでの定期検診だったが、その日は、一年に一度の全体チェックの時だった。大人で言えば人間ドッグのようなものであるが、晃少年の場合は精神的なことや休養を含める意味でも、三日の入院が必要だった。
俊三にとっては願ったり叶ったり、佳苗と話ができる時間が増えたと思った。もし、晃少年であっても、きっと喜んだに違いないと思う。
三日もあるのだから、検査の時間が押しているわけではない。一日にいくつかの検査をするだけで、その間は自由時間だった。佳苗を見舞うくらいの時間は十分にある。どうやら佳苗と知り合ったのは、一年前の全体チェックの時だったようで、佳苗と晃少年にとって、記念すべき日だったのだ。
晃少年は、佳苗のことをほとんどと言って知らない。話をすると言っても、核心部分に触れるようなものは何もなく、家族構成がどうなっているのかということから、病名もハッキリとは知らなかった。ただ、佳苗のいる病棟には、普通はなかなか入れないという。そこが精神的な病を患っている人が入るところだということを晃少年はウスウス気付いていたようだが、元々大人の俊三には、そこが異様な雰囲気に包まれていることで、早い段階で分かっていた。
俊三も、中学生の頃、病院通いをしていたことがあった。総合病院に通っていて、そこで初めて精神的な病に罹っている人が入院している病棟を見た。
窓には鉄格子が仕掛けられていて、仰々しい雰囲気が醸し出されていた。その病棟を初めて見た時、ちょうど夕方だったこともあって、砂塵が舞っていたのを覚えている。風に舞う砂塵は黄色い色をしていて、無臭のはずなのに、何か薬品の臭いが漂ってくるようで、嘔吐を催したのを思い出した。
もし、これが晃少年の身体ではなく、俊三自身の身体であれば、薬品の臭いを思い出しただけで、嘔吐を催したことだろう。条件反射によるものだが、気持ち悪さは一瞬で済みそうにもないように思えた。
俊三はその時、一人の女の子が気になっていた。寂しさが漂っている女の子というのは、
――どことなく――
という但し書きが付くものだと思っていたが、彼女の場合は違っていた。露骨に寂しさが現れていた。
――滲み出た――
などという中途半端な表現ではなく、ハッキリと分かるのだった。
ハッキリと分かるというのは、俊三だけではなく、他の人ほとんど全員にも分かるであろうと思えることで、ここまで露骨に寂しさが滲み出ていると、余計なわざとらしさが感じられ、
――気にはなっても、決して友達になりたいとは思わないだろう――
と思えた。
ましてや恋心など微塵も湧いてくるはずもない。気持ち悪さが増幅されるだけで、嘔吐以外の意識は感じられなかった。
その時、黄色い色を感じた。
「黄色というのは、気が違った色」
というのを、子供の頃、まだ物心がついてすぐくらいの頃に聞かされた記憶があり、その思いが頭にこびりついていた。
――やっぱり本当だったんだ――
と、まんざら覚えていたことも無理のないことだったのだと思うと、自分が無意識に記憶していることが他にもないか、探ってみたくなったとしても、無理のないことだったのだろう。
もちろん、無意識に覚えていることを、意識して思い出そうとしてもなかなか思い出せるものではない。それでも思い出そうとしていると、いくつか思い出せそうになるのだが、やはり最後はぼやけてしまって、体力だけ消耗し、思い出すことができなかった。
――それって無駄なことだったのだろうか?
自問自答を繰り返す。
無理なことだったとすれば、それ以後、余計な記憶の詮索はしようとしなかっただろう。しかし、とりあえずは試みてみることを止めなかったのは、一度でも思い出すことができたからなのかも知れない。それがどういう記憶だったのか分からないが、かなり自分の中で印象に残っていることだったのであろう。
俊三が感じた気持ち悪さと、晃少年が感じている思いとは、かなり違っていた。
晃少年は明らかに佳苗のことを好きになっているようだった。
年齢的に言っても、これが初恋であることは分かっていた。それまでに他に好きになった女性がいないのであれば、俊三が感じたものと違っているとしても、それは無理もないことだった。
しかし、俊三が異性に興味を持ち始めたのは、もっと後のこと、お姉さんにだって、女性として興味があったわけではない。そう思うと、俊三はどれが自分の初恋だったのか、分からなくなっていた。
それでも、精神を病んでいた女の子ではないことには違いない。そう思っていると、晃少年が佳苗に感じた思いは初恋であっても、本当の恋ではないと思えていた。
しかし、晃少年の目線に立って見た俊三は、あながち佳苗を気持ち悪いとは思えない。むしろ、純粋な心の持ち主のように見えてきて、晃少年の気持ちも分からなくはない気がしてきた。
もちろん、成就することはないだろう。何しろ異性としての意識がないのだから、友達になることはできても、これ以上好きになることもないはずだ。ただ、気になって仕方のないこの思いは、何かの結論に導いてあげないと。中途半端なままでは悩み続けることになるだろう。
中途半端なままでも、しばらくすると時が解決してくれて、想いは次第に薄れていくことになるだろうが、根本的な解決にならない。何かの拍子に表に出てきて悩むことになったとしても、その悩みがどこから来るものなのか分からずに、余計な悩みを植え付けてしまい、今度は解決してくれるはずの時間も、当てにならなくなってしまうかも知れない。
俊三は、佳苗と話をしてみたいと思うようになった。彼女がなぜゆえに精神が病んでいるのか、知りたくなったからだ。
「佳苗ちゃん」
「あ、晃君。久しぶりね」
佳苗の表情には安堵の様子が見えた。別に他の女の子と何ら変わりのない、屈託のない笑顔ではないか。
笑顔にはいろいろな種類があると俊三は考えていた。
今の佳苗のように、屈託のない笑顔。そして、何かを見つけて安心した時の笑顔。それは今の佳苗からも感じられた。そして、明らかに引きつっている笑顔。それは何かに怯えている自分を隠そうとして無理に作っている笑顔で、見る人によっては、笑顔というよりも、断末魔の表情に見えなくもない。もっとも、断末魔の表情に見える人は、その人も心のどこかに闇を持っていて、普段から不安を隠しきれない人に違いない。俊三は今まで生きてきた中で、そんな人を何人も見てきた。そして、
――自分がそんな表情をしているのではないか――
と感じたことも何度もあった。
子供の晃にも佳苗にも、そんな思いをしたことがないことを祈りたい気分になっていたのも事実だった。
「今回は、知り合った時のように数日ここにいることになるんだよ」
というと、佳苗は素直に喜んでいるのか、
「えっ、そうなの? じゃあ、もっといろいろお話ができるわね」
と言ってくれた。
しかし、その言葉を聞いた時、三日という日が長いようで短いことを俊三は悟った。最初から一日だけだと思っていると、時間配分を考えることもないが、三日という猶予があうとはいえ、ずっと時間があるわけではない。お互いに入院している身、それぞれに診察もある。
だが、それよりも気になっているのは、時間が経つにつれて、時間に対しての考え方が変わってくるということだ。
最初の一日は、
「まだ二日ある」
と思う。しかし、二日目が終わろうとしてくると、
「あと一日しかないではないか」
その時までに、自分が考えていたことのほとんどが終わっていないと、必ず焦りに繋がってくるはずだ。それは、夏休みなどの長期休暇の時に身に沁みて感じていたはずだ。特に俊三は、半分も過ぎる頃になると、先が見えてきていたからだ。ただ、なかなかギリギリになるまで自覚することのない俊三だったので、最後になって慌てて宿題に取りかかるのは、他の子供たちと同じだった。しかし、考え方には違いがあり、長期休暇があったとしても、本当に楽しいと思っているのは、前半だけだった。
俊三は、佳苗との三日という時間に、子供の頃の夏休みを重ね合わせた結果、考えが堂々巡りを繰り返し、先に進まないことに業を煮やしていたのだった。
「明日には帰っちゃうのよね」
二日目の最後に、佳苗が呟いた。まるで俊三の心の奥を覗いたかのように思える言葉だった。
それまでに、佳苗も俊三も、お互いの話をほとんどしなかった。俊三は、その時の佳苗の心境を、
――同じだ――
と感じていた。
俊三が入りこんだ晃少年は、先がないと思っていた。俊三だから、不治の病でも、助かるんだと思っているし、このまま生き直している自分が、少なくとも四十歳になるまでに死ぬことはないと思っている。そのことは、神父が約束してくれたではないか。もっとも、それは生き直すことに対しての、俊三の望みでもあった。
「同じ年齢に達して、生き直してよかったかどうか感じてみたい」
と言えば、
「よかろう」
という返事だったのだ。
そして、神父が言うには、
「あなたのように生き直すという選択をする人は、基本的には自分が生き直したいと思ったところまでは生きることができるようになっている。その時に、一体何を思うかということだね」
そう言って、不敵な笑みを浮かべた。
その笑みは、まるで断末魔の笑みに感じられた。恐ろしさに背筋も凍るとはまさしくこのことだった。だが、それでも生き直すことを選択してしまった俊三は、もう後戻りすることはできないのだった。
――俺には何も残っていなかったんだ――
失うものは何もないと思っていないと、生き直すなど、とってもではないが、思いついたとしても、選択できるはずのない夢物語ではないだろうか?
晃少年が死なないと思っているのは、この時代では俊三、つまりは晃少年だけだった。晃少年の身体を借りて生き直しているのだから、晃少年も、きっと誰かの身体で生き直しているに違いない。
――晃少年は、子供ながらに、自分の命が短いことを知っていたのだろうか?
もちろん、まわりが教えるわけはない。それでも知っていたのだとすれば、よほど勘が鋭いのか、それとも、究極の不安から、秘めたる力が引き出されたのだろうか。
部屋にあった医学書と、その中にあるボロボロになった部分を見ればよく分かる。しかし、その医学書を与えた人がいる。それはやはり執事なのだろう。晃少年にとって執事は親以上の存在であり、ある意味、自分にとって生存できる上での、絶対的な存在なのかも知れない。
だが、俊三には、もう一つの不安が根づいていることに気が付いた。神父は、晃少年の命が、今まで生きてきた俊三の年齢までは保証してくれると言ったが、それ以上の年齢までは何も言わなかった。
――ということは、俺の命は、晃少年が俺が晃少年に乗り移った時で終わってしまう可能性が高いのではないか?
と感じることだった。
人間は、いつどこでどうなるか分からない。ひょっとすると、明日には交通事故で死ぬかも知れない。逆に、百歳近くまで生きるかも知れない。一寸先は分からない。それが人間だと思っているから、
――どこまで生きる?
ということを、敢えて考えないようにしている。
しかし、寿命が決まってしまっていればどうだろう?
それが半年であれば、絶望で気が狂いそうになるかも知れない。だが、晃少年はさほど慌てているようには思えない。神様は誰かの寿命を短くしなければならないことが決まっているとすれば、その人を選ぶ時、晃少年のように、死に対して何も感じないような性格の人間を選んでいるのだろうか? もし、そうだとすれば、神様ほど罪作りなものはない。もっとも、神様というのが一人ではなく、この世に人間を作った神様と、寿命についての責任のある神様が別人だというのであれば、罪作りではないのだろうが、人間社会だけではなく、神の世界にも理不尽なことが存在するのだと思えば、やりきれない気持ちになってきた。
――いや、神の世界だからこそ、余計に理不尽なことが多いのかも知れない――
神の世界が理不尽なことを引き受けてくれていなかったら、この世での理不尽さは大変なことになり、世の中の存在自体を揺るがすものになっていたかも知れないとも考えられるからだ。
いくら四十歳まで生きられるのが分かっているとしても、その先がないのが分かってしまうと、これからの人生をどう生きていいのか、急に分からなくなるのではないだろうか?
――人生の先が分かっていないから、人は頑張れるというものだ――
この考えは、実は本の受け売りだったが、それ以前から意識していたような気がする。
俊三は本を読みながら、
――こんなことは、前から分かっているさ――
と考えることが多く、読書が好きなくせに、急に本を読むのがバカバカしくなって、プッツリと本を読まなくなることがある。しばらくするとまた読み始めることになるのだが、読書に関しても、頭の中と行動がそれぞれに堂々巡りを繰り返すことになるというのも、皮肉なことだと思っていた。
また、俊三は超能力というものに対しても、
――ひょっとすると、神が人間の力の領域にまで入りこんでいるのかも知れない――
と、感じるようになっていた。
人間には、超能力というのを使いこなせる人がいる。使いこなせるのは特定の人に限られているのだろうが、力を持っているのは特定の人だけではない。誰もが持っているものだという。
表に見える力は、人間の持っている数パーセントのもので、残りは使いきれていないだけのものだというではないか。俊三はその話を信じている。そして、どうしてその力を使いこなせないのかということを、
――特別な力を持っているのを意識できたとしても、それは半信半疑の元でしか意識できない。そんな状態で、発揮できるほど、超能力というのは甘いものではない――
と感じている。
そして、それを裏付ける考えとして、
――超能力を使いこなすには、制御する力も備わっていないといけない――
ということを、無意識に感じているからだと思っている。超能力がその人にとって「諸刃の剣」であることを誰もが本能として感じているのではないかと思っていた。
そんな考えが、一般の人から見ると異端に感じられ、精神異常に思われるのではないかと考えるようになった。精神異常というレッテルを貼られた人は、ひょっとすると、
――他の人にはない卓越した能力を発揮できる、あるいは、すでに発揮している人なのかも知れない――
と、感じるようになっていた。
超能力という意味では、人は生きているうちに、その中の力を一度は発揮できるのではないかと俊三は考えていた。その力がどれになるのか、それは人それぞれであり、その力が本人にどれだけの影響を与えるかというのも、その人それぞれであろう。
強大な力を発揮できる人も中にはいるだろうが、ほとんどは目立たないもので、まわりにはその力が発揮されたことすら気付かないこともあるに違いない。それでもその人にとって大きな意味をなしていることも少なくなく、
「あの人、急に変わった」
と、まわりから見れば豹変したように見える時というのは、その人の中でその能力が使われた時なのではないだろうか?
俊三は晃の中に入りこんだ時、晃少年の存在を感じなかった。まるで抜け殻の身体の中に入りこんだと思ってもいいくらいだった。ただ、記憶だけは存在している。記憶を残したまま、生き直しているのだろうか?
入院三日目の最初の一日が終わろうとしていた。
子供だったら、それほど苦にもならない入院であろうが、大人の感覚を持った俊三とすれば、入院というのは、苦痛以外の何者でもなかった。仕事をしている時は、
――たまには病気になって入院くらいしてみたい――
と思ったこともあったが、そんな時に限って病気になるわけでもない。胃が痛かったりして検査に行っても、
「別に異常はありませんね。薬を出しておきますから、それを飲んで気を楽にすれば、すぐに治りますよ。あなたの場合は精神的なものなので、気分が晴れれば自然によくなります」
と言われて、精密検査を受けても、どこにも異常は見られないと言われるだけだった。
暗示に掛かりやすい俊三は、医者の言う通り薬を飲んでしばらくすると、胃の痛みなどすぐになくなっていた。
――病は気から――
と言われるが、まさしくその通りだった。
だから、俊三自体は入院したことはない。
学生時代から、化学や医学に興味があり、大学も理数系の学部に進み、何とか中小企業の医薬品を扱う会社に入社できたのだが、数か月ともたなかった。
身体を壊したわけではないが、精神的にもたなかった。学生時代からの友達で、医薬品関係の会社に入社した連中のほとんどは、半年以内に辞めていた。俊三もその中に一人だった。
元々、成績もパッとしなかったので、中小企業にしか就職できなかったが、辞めるとなると、却って気が楽だった。学生時代からいい会社に入社したくて、必死に勉学に励み、徹夜の実習なとも頑張ってこなしていて、やっとの思いで入った大企業。それを半年ももたずに辞めることになった連中の気持ちを思い図ることは俊三にはできなかった。
それでも、会社を辞めた連中と卒業して半年で集合することになったが、彼らは思っていたより明るかった。
呑み会ではそんな彼らが中心に盛り上がっていたし、暗さを微塵も見せないところは、最初、
――無理をしているだけなのでは?
と思ったが、どうやらそうではないようだった。
開き直りがあったのも、もちろんだろうが、それだけではない。
――元々、人間の器が違うんだ――
そう思うと、自分が恥かしく感じられた瞬間があった。だが、その思いはことのほか短い間しか感じなかった。
――結局、何だかんだ言っても、皆辞めてしまったんだから、ここから先は同じスタートラインだ――
と感じた。
それを感じさせてくれたのは、大企業を辞めることになった連中の明るさだった。どちらにしても、彼らのおかげで、俊三は必要以上に落ち込むこともなく、それからの人生を歩むことができたのだ。
ただ、俊三は、元々必要以上のことをしないタイプだった。
自分が好きになったことは、一生懸命になるが、それ以外のことは、本当に必要以上のことをしたり考えたりはしないようにしていた。新しく入った会社でも、必要以上に仕事をしたりはしなかった。会社が求めている社員としては失格なのかも知れないが、頑張って達成しても、またそれ以上を求められる。達成感を身体中で味わっている暇を与えてくれないだろう。
自分で掴み取った達成感は、なるべく長い間持続させたいと思っていた。だから、好きなことに対しては一生懸命になるのだ。その思いは決して他の人に負けないという自負があった。
しかし、いかんせん、年齢を重ねるにつれて、本当に自分が好きなことが何なのか、分からなくなってきた。すでに三十歳以降、自分が一生懸命になれるものが何なのか、まったく分からなくなり、何となく人生も投げやりになってきた。
――その日、一日が平和に終わればそれでいい――
そんなことしか感じなくなったのだ。
ちょうどその頃からだったのではないだろうか、俊三は、自分の記憶力が極端に落ちてきたことが気になり始めた。
何かをしていて、さっきまで何を考えていたのか、ふと分からなくなるということから始まったような気がする。
「お前だけじゃないさ。俺だって、そんなことは時々ある」
気の合う仲間と呑みに行くこともあったが、そんな時、記憶力についての話題が時々昇っていたが、気の合う連中との会話では、誰もが似たり寄ったりの考えを持っているようで、ある意味参考にはならなかったが、
――自分がどうしてそんな状態にあるのか?
ということくらいは、感じさせられるようになっていた。
――類は友を呼ぶというが、本当なんだな――
と感じていた。
だが、四十歳になって生き直すようになろうなどと思いもしなかったが、入りこんだ晃少年の意識にも同じものがあるのは意外な気がした。
元々、晃少年には友達らしきものは存在しない。まわりには、メイドと執事が控えているだけで、病院に通院や入院した時に佳苗と一緒にいる時間だけ、大人でいうところの、
――癒し――
を感じているのだと思うと、子供ながらにいじらしさを感じるのだった。
佳苗には、
「しばらくいる」
と答えたが、三日という日を晃少年は最初に長く感じたことで、
「しばらく」
という言葉になったのだが、佳苗がどう捉えるか分からない。佳苗がこの病院の、しかも精神に異常をきたす病棟に入院したのがいつなのか分からないだけに、佳苗が何を考えているか、想像もつかなかった。
――人が何を考えているかなど、しょせん誰にも分かるわけはないんだ――
と、常々考えている晃少年だったが、なぜか一番分かるはずなさそうな佳苗の気持ちだけは必死になって分かりたいと思っていた。
必死になったからと言って分かるはずのないことは、晃少年が一番分かっていることではないか。
佳苗の病棟に近づくにつれて漂ってくる異臭。急に意識を失いそうになるこの異臭は、晃少年に入りこんだ俊三には耐えられないものだったが、晃少年はどうだったのだろう?
案外、平気だったような気がするのは、晃少年を俊三が買い被っている証拠なのかも知れない。
俊三は、自分が三十歳代から自分の記憶が薄れてきたことを意識していたくせに、過去の記憶だけは意外にハッキリしていることを分かっていた。
――ある地点からの記憶がなかなか思い出せない――
その頃から、記憶が薄れていくのを感じたのかも知れない。
だが、本当はその記憶はないわけではなく、奥の方に封印されているだけで、時系列が崩れてしまったことで、記憶力の欠如を意識せざる負えなくなっただけのことだった。そのことを理解させてくれたのが、この病棟から漂っている異臭だった。
――一体どういうことなのだろう?
そうは思ったが、逆に、
――人の身体に入りこんでしまったことで、意識と記憶だけになれた。直接感じることができるようになると、これから自分の身に起きることは、すべて意味のあることで、無駄なことはほとんどないのではないか?
と感じるようになっていたのだ。
病棟に近づくにつれて、異臭によって気が遠くなるのを感じながら、俊三は、
――おや?
と何かしらの違和感を感じた。
先ほどから感じていたような気がしていたが、気のせいだという思いの方が強く、特にこんな異様な雰囲気の中では、気のせいだと思うようなことは、余計に気にしないに越したことはないと思っていた。
――晃は、この異臭の中で、気持ち悪く感じているどころか、何かウキウキした気分になってきている――
そんな風に感じた。
考えられることとしては、それほど佳苗のことを好きになったということになるのだろう。
――痘痕もエクボ――
というではないか。好きになった相手のことなら、人が気持ち悪く思うことであっても、却って相手の特徴だと思うことで、余計に好きになるのかも知れない。そんな感覚は、俊三は感じたことがない。それだけ真剣に誰かを愛したことがないからだった。
だが、晃少年が、本気で佳苗を好きになったような気がしない。もし本気で好きになったのなら、俊三にも、晃の感じているものを遠まわしにでも感じることができるのであろうが、愛情という感覚では感じることができない。
もちろん、気になっているのは分かっている。それが恋愛感情に結びつきそうなのも分かっている。しかし、異臭までもがエクボに感じられるほど好きになったようには、どうしても思えないのだ。
――晃という少年は、自分の心の中にもウソをつける少年なのかも知れない――
「自分のことを一番よく知っているのは自分だけど、逆に自分のことを一番知らないのも自分なのかも知れないね」
と、俊三は自分の学生時代の友達からそんな言葉を聞かされて、それが今でも頭に残っているのを思い出した。晃も自分が思っているほど、自分のことを知らないのかも知れない。それは、俊三にも言えることで、きっと自分の顔を鏡でしか直接見ることができないのと同じで、他の人が見る目線と違うことで、鏡に写った自分の姿のように、正反対に見えているのであれば、実に面白いことに思えた。
異臭にワクワクするのは、自分が佳苗のことをどのように思っているのかを、本当に知らないからではないかと思う。表から見て、自分の心の中は佳苗を好きになったと思っているのだろうが、心の奥では、
「好きになってはいけない」
と言い聞かせる自分もいたりするのだろう。
ジレンマであったり、葛藤が、自分の中で渦巻いていることを感じたことがある俊三には、その気持ちは分からなくもなかった。
佳苗という少女を、俊三は直接見たことはない。ただ、想像だけで感じているのだが、イメージは、
――当たらずとも遠からじ――
だと思っている。
一つ言えることは、自分が子供の頃に好きだったお姉さんとは似ても似つかない相手であってほしいと思っていることだった。
女性の好みは人それぞれ、特にまだ子供の晃少年は、これからどんどん、女性の好みが変わっていくことになるだろう。だが、基本は最初に好きになった人であることに違いはない。晃にとって、自分が本当に佳苗のことを好きになったかどうかということは、とても重要なことであった。
俊三は、晃少年が佳苗のことを気にしていると感じた時、少し表から晃少年を見つめていることに気が付いた。完全に晃少年の中に入りこんでしまうと、自分を見失ってしまうような気がしたからだ。
だが、自分が少しでも晃少年の中から出てしまうと、晃少年は、完全な抜け殻になってしまう。ついつい晃少年の意志が、まだ彼の身体のどこかに潜んでいるように思えてならない自分に気が付いて、生き直している自覚がまだまだ足りないことに気付かされた。
本当は、自分が晃少年の身体を借りて「生き直して」いるのだから、佳苗のことも無視しておけばいいのに、無視することができない。もし無視してしまうと、完全に晃少年の記憶の中に佳苗の姿は封印されてしまって、晃少年の意識すべてを感じることができなくなってしまうのではないかと思えたのだ。もし、そんなことになってしまうと、自分はその瞬間から、晃少年の中で生き直すことが不可能になる。あくまでも、生き直す身体が持っている意識を保持したまま、新たな命として自分が生き直しているということなのだ。
――何か、俺の都合のいい考えしかないような気がする――
と思ったが、自分に都合のいい生き方をするにしても、生き直すにはこれほどの制限や縛りがあるのを思うと、
――人生をやり直したい――
などということを考えなければよかったのだ。
俊三は三十代になった頃から、自分の記憶が急になくなってきたのを感じていたが、それは自分だけのことではないのを知らなかった。年齢的には微妙に個人差があるが、誰もが記憶力が急になくなる時期を意識するものだった。
そのことを、誰にも知られたくないと思う。
自分でも信じられず、信じたくないと思っていることもあって、人のことを気にする余裕もなく、自分のことだけで精一杯なのだ。
だから、他人がどうであるかなど、気にすることは俊三にはなかったが、他の人は、
――自分が記憶力を失うくらいなのだから、他の人だって同じことではないか?
と考えるようだった。それだけ自分の記憶力に自信を持っているのだろう。俊三に関しては、元々自分の記憶力には疑問を持っていた。若い頃はそれでも、何とかごまかしが効いたが、三十代になって、一気に記憶力が下がってくるのを感じると、もう歯止めが利かないように思えてきた。
元々が自分の中での記憶力は、見下ろすところにしか存在しなかった。つまり、下を見ていて、少し遠い位置にあるのだ。それがさらに遠くになってしまうのだから、かすかに見えるか見えないかのところまで行きつくのも時間の問題だと思っていた。
ただ、どんなに遠くに行って、小さくなってしまったとしても、自分が見逃すことはないと思っていた。もし、見逃してしまったとすれば、
――すでに頭の中は自分ではなくなってしまうのではないか――
という妄想に憑りつかれることになるだろう。
――それは、誰かに自分の中に入られたことを自覚するからだろうか?
いや、そんなことはない。
自分の中に誰かが入りこむとすれば、その時には、自分の精神も自分の身体から抜け出し、
――生き直す――
という選択をしているに違いなかった。
――俺の肉体の中に、誰か他の人が入っているのだろうか?
と思えてきた。
しかし、自分が生き直したいと感じ、神父の姿をした自分に出会ったのは、もう四十代になってからだ。まだまだ人生の半ばだとは言え、四十歳の人間の中に入って生き直すという選択をする人がいるだろうか?
もしいるとすれば、その人は、自分の寿命に気付いているか、、そろそろ人生の終焉を意識していることで、
――あまり昔に帰りたくない――
と、思っている人なのかも知れない。
ある程度まで自分の人生を全うしてきて、自分にとっての最近になるまで、ある程度自分の人生に満足してきた人が、急に寿命を意識することで、
「俺の人生は、本当にこれでよかったのだろうか?」
と、急に考えた人がいたとしても、無理のないことのように思えた。
俊三から言わせれば、
「贅沢な悩み」
だと言えるのかも知れないが、死というもの、しかも、それは自分から選ぶ死ではなく、逃れることのできない寿命というものであれば、感慨もひとしおというものではないだろうか。
俊三は、意識だけが晃少年の中にあるとはいえ、まだ自分の肉体への未練のようなものが最初は残っていた。晃少年の中にいながら、何となく自分が宙に浮いたような存在だったのを感じていたのは、目を瞑れば、元の自分の肉体を感じることができたからだ。
しかし、最近の俊三は、意識の中で、今まで感じていた自分の肉体を、目を瞑っても感じることができなくなっていた。
――もう、すでに俺の肉体には誰かが入りこんだのかも知れない――
と感じた。
すると、急に自分の中を覗かれているようで、恥かしいというよりも、自分の意識や記憶を、自分に乗り移った人がどのように使うのか、気になっていた。
元々の意識を、まったく無視して、俊三の中で生き直そうとするのだろうか?
もし、そうだとすれば、その人がなぜ俊三の身体に入りこんだのか、その意図が分からない。その時の俊三の環境が、その人にとっての、
――生き直したい時代――
にピッタリだっとのだとしか思えないのだ。
――ということは、俺が晃少年の中で生き直したいと感じたのは、無意識に、晃少年の年齢からやり直したいと感じたからなのか、それとも、死を意識した晃少年が本当は死ぬこともなく、このまま生き続けることができるのを知らずに、他の人で生き直そうとした晃少年の身体に興味があったのか――
そのどちらかなのではないかと思っていた。
晃少年は、死ぬことを怖がっている様子はあまりない。死というものをあまり意識しないようにしているのは間違いないが、それだけで、本当に死を怖くないと思えるものだなのだろうか?
「何か悩みがある時、一番安心できる時と、一番不安に感じる時があるとすれば、いつですか?」
と聞かれたとすれば、答えは決まっていた。
「一番安心できる時は眠りに就く時で、一番不安に感じるのは、目が覚める時だ」
と答えるだろう。
しかし、それは自分だけではなく、聞かれた人のほとんどが同じ答えをするだろうし、もし答えを思いつかない人がいたとしても、この回答を聞いて、
「そうそう、その通り」
と答えるに違いない。
眠っている間に見る夢が、悩みに関係のない夢を見ると思っているからだ。眠ってしまえば自分の意識は意志に支配されることがないという思いからなのかも知れないが、それは夢というものが、
――潜在意識が見せるものだ――
という考えとは矛盾している。それでも眠っている時が一番安心できる時であり、夢の世界で怖い夢を見る時というのは、えてして、悩みなどのない時のように思える。そう思うと、
――夢というのは、人間の欲を制しようとするものなのかも知れない――
とも感じるのだった。
少年の中に入りこんでいるのに、考えていることは大人の考えだ。ただ、大人の考えが表に出ることはない。あくまでも自分の考えの中だけのことだった。それでも晃少年の考えていることが何となくであるが分かる気がするのは、晃少年が死を意識していないつもりでも、考えていることが堂々巡りを繰り返しながら、着実に死に近づいているからではないかと思えた。
――本当は自分が死なないということを、分かっていたのではないか?
と感じるのは、病院で嗅いだ異臭が死神を追い払ってくれるのではないかという、それこそ子供の発想ではあるが、本当に死なないという結論を導き出すのであれば、それは、一種の予知能力の類に違いない。
――死を意識した人には、他の人には使いこなすことのできない力を引き出すことができるのかも知れない――
と感じた。
もう一つ感じたのは、
――大人には分からなくても、子供には分かるものがあるのではないか?
ということである。
大人には、それまでに培ってきた経験と知識があるが、時として、経験と知識が邪魔をして、新たな発想であったり、奇抜な発想を拒否してしまうことがあるが、
――大人には見えなくても、子供になら見えるものがある――
という柔軟性がどこまで子供の晃に入りこんだことでできるようになるかが、焦点ではないだろうか。
この病院での異臭は、今までにもどこかで感じたことがあるように思えたのは、晃少年ではなく、俊三の記憶の中にあるものだった。以前に感じた時の異臭は、気持ち悪くてすぐにその場から逃げ去ったのだが、そう簡単に忘れられるものではないほど、インパクトの強いものだった。
その時のことを思い出していると、その臭いが何だったのか、思い出せそうな気がした。
――そうだ。あの時に感じたのは、最初に鉄分を含んだような臭いで、その後立て続けに違う異臭がしてきたのだが、それはホルマリンの臭いだったような気がする――
最初に感じた臭いは、今から思えば、あれは血の臭いだった。鉄分を含んだ臭いだと感じた時点で、臭いの正体を鼻で感じる前に、
――鉄分を含んだ――
と感じた時点で、連想として血の臭いという発想が生まれていた。
間髪入れずに臭ってきたものが、あまりにも強烈だったため、最初の血の臭いを打ち消すものだったことで、すぐには臭いの正体を感じることができなかったが、分かってしまうと、今度は自分が耐えられなかったことで、臭いの正体を意識して忘れようとしたのかも知れない。
俊三がこの臭いを感じたのは、自分が生きてきた四十年の中で一度ではなかった。少なくとも数回は感じたことがあったはずだ。二、三度というような少ないものではなかった気がする。
その中で覚えているのが、まだ学生時代のことだったのだが、ちょうど歩いていて、交差点でのバイク事故を目撃した時のことだった。
普段は思い出すことがないのだが、何かのきっかけで思い出すことがあると、記憶は鮮明なものだった。
――そういえば、血の臭いよりも、なぜかホルマリンの臭いの方が、印象深い気がする――
と感じていたのは、思い出す時というのが、病院にいる時がほとんどだったからだろうか?
血の臭いの方が気持ち悪いはずなのに、ホルマリンの臭いの方が印象深いと感じるのは、思い出すきっかけになるのがホルマリンの臭いによるものだからだった。ホルマリンの臭いは病院に行けば感じることができるが、血の臭いはなかなか感じることができないからではないだろうか?
俊三は、悲惨なバイク事故の瞬間を目撃した。音に気が付いて振り向いたわけではない。偶然見た方向で、出会いがしらに車とバイクの衝突の瞬間を目撃したのだ。バイクは転倒し、火花を散らしながら、クルクルと回りながら、あらぬ方向へと突っ込んでいく。バイクに気を取られていたので、運転していた人がその時どのようになったのか見ていなかったのだが、気が付けば、黒い繋ぎを来た運転手が車からさほど遠くない場所に横たわっているのが見え、遥か先にヘルメットは吹っ飛ばされていた。人間だけが、衝突した場所から、それほど吹き飛ばされたわけではなかったのだ。
車の近くn道路に、キラキラ光るものが見えたのは、ガラスの破片だった。そのことにはわりとすぐに気が付いたのだが、どこのガラスなのか、すぐには分からなかった。野次馬が集まってきていたが、皆一定の距離から近づくことがなかったのは、気持ち悪さから近づかなかったのか、それとも、事故現場を保存の必要があるという思いから近づかなかったのか、そのどちらもであろう。事故を目撃したと言っても、他人事、ショックであっても、冷静さはすぐに取り戻せる。現場の保存を意識したとしても、不思議なことではないだろう。
その時目撃した場所は、馴染みの喫茶店を出てすぐのことだった。少しでも時間がずれていれば、事故の現場に直撃することもなかっただろうに、そう思うと、背筋に寒気を感じた。
だが、目撃した事故から数日経ってから、
――事故を目撃するような予感めいたものがあったように思えてならない――
と感じるようになった。
もちろん、事故を見る前にそんな予感があったのなら、最初から身構えてしまっていたはずなのに、まったくの無防備だったことで、見てしまった事故のショックが抜けることはなかったはずだ。ここでも、自分の中に矛盾が生じている。
自分の中で時々矛盾を感じていることは意識していた。しかし、その矛盾はすぐに忘れてしまう。矛盾をいちいち気にしていては、埒が明かないと思っているからなのかも知れないが、矛盾が堂々巡りを繰り返してしまうことを、その時の俊三には分からなかった。
――堂々巡りを繰り返すのは、矛盾を何とか解消しようとしているからなのではないだろうか?
と考えたことがあるが、矛盾していることが本当に悪いことだけなのか、そんなことまで考えたことがあった。
――矛盾が自分の正当性を認めてくれるのであれば、それもありなのかも知れない――
事故を目撃したことに対して予感めいたものがあったのだとすれば、それは自分に何かの正当性を求めようとしか結果なのかも知れない。そう思えば、矛盾も悪いことではないように思えたのだ。
さすがに事故現場まで近寄ることはできなかった。野次馬は集まってきているし、そのうちに救急車やパトカーのサイレンがけたたましく聞こえてくると、いやが上にも、現場の喧騒とした雰囲気が、自分をその場から置き去りにしていくように思えてならなかったのだ。
事故の現場を見た瞬間、まるで石のような臭いを感じた。同じ臭いを、その後、しばしば感じるようになったのだが、決まって湿気が多く、今にも空が泣き出しそうな天気の時に多かった。
雨が降ってきそうな空模様で、身体に纏わりつく湿気が汗と一緒になり、気持ち悪さを身体が感じている時、鼻をつくような臭いを感じるのは、埃が湿気を伴って、鼻を刺しているからなのかも知れない。
事故があった日は、雲一つない晴天だった。湿気は若干あったかも知れないが、空模様を見ていると、雨を降らせるような湿気ではない。衝突の瞬間、グシャっという鈍い音とともに、鼻をついたのが、埃が湿気を伴ってできる石の臭いだった。
それと一緒に焦げたような臭いを感じたのは、衝突の瞬間に火花が見えたからかも知れない。火花の色は薄い青い色だった。
――おや?
と一瞬感じたが、その色がまるで人だまのように感じられたのは、事故を見た瞬間でなかったことは確かだった。火花が散ったと感じたのは、まるで線香花火のように、小さな光がまるで毛細血管のように飛び散っているからだった。
その瞬間、目の前が急に真っ暗になった。喧騒とした音も、暗さに紛れ、何かに吸い込まれているかのようだった。
その時、暑いとも寒いとも感じなかった。感じたのは、真っ暗な中で広さなど分かるはずもないのに、暗黒は狭い世界の中でだけ繰り広げられているのを感じた。
――暗闇が果てしなく続いてくれては困る――
という発想から来たのかも知れないが、何よりも息苦しさを感じたからだった。事故に遭ってひっくり返っている姿は想像できなかったが、少なくともその場所では、時間が停止していることだけは分かっていた。
――人が死ぬと、一定の範囲で、時間は止まってしまうんだ――
と、その時の俊三は感じていた。
だが、それが間違いだったことに気が付いたのはいつだったのだろう?
社会人になって、今度は違う事故を見たことがあった。その時は、事故の瞬間を見たわけではなかったが、即死だった被害者が転がっているのを見た。その時も最初は、
――時間が止まって見える――
と思い、脳裏を学生の事故がよぎったのだが、どこかが違っているのような気がした。
――何が違っているのだろう?
と感じたが、その答えはすぐに見つかった。
――時間が止まっているわけではなく、ごくゆっくりと進行しているんだ――
と感じた。
その空間であれば、鉄砲の玉も掴むことができるのではないかと感じるほど、本当にゆっくりと時間が進んでいる。
――まるで凍り付いたみたいだ――
と、思うと、さっきまで感じていた色もモノクロームになり、次第に白い部分に青みを帯びて感じられるようになった。その部分がまるで氷のようで、
――凍り付いたようだ――
という発想がそこから来ているのが分かった。それと同時に思い出したのが、前の事故で見た火花が、青白かったことだった。
最初に見た事故から何年も経っているにも関わらず、青白さに共通点を見出したのを感じると、前の事故がまるで昨日のことのように感じられた。
さらに昨日のことでさえ、覚えられないほど記憶力が低下したと感じ始めた頃だったこともあって、
――時間を飛び越えたかのようだ――
と感じるほど、前の事故のことが鮮明に思い出された。
しかし、鮮明に思い出したと言っても、すべてが鮮明だったわけではない。ところどころハッキリと記憶されている部分もあれば、曖昧な部分もある。記憶に時系列が関係しているとするならば、覚えていること、あるいは忘れてしまっていること、どちらかがウソっぽいことになる。やはり記憶に時系列が関係していると思っていることで、忘れてしまうのか、覚えられないのかのどちらかなのだろう。
その時思い出した前回見た事故の記憶は、色と臭いによって思い出されたと言っても過言ではない。普通であれば、一番記憶するのが難しいはずの色と臭いである。それを覚えているということが、記憶をまるで昨日のことのように感じさせる原因となったのだ。
しかし、実際に色と臭いを感じることができないのは「夢」であって、過去の記憶というのとでは、微妙に違っている。俊三はその二つを微妙に絡ませながら意識していることで、
――夢を覚えていることなど、無理なことだ――
と風に考える理由だとして、自分を納得させようとしていたのかも知れない。
その時、事故現場に近づくことができて、実際に被害者を目の前に見ることで、現場を瞼の裏に焼き付けることができていれば、少しは感覚も違っていたことだろう。
俊三は、子供の頃から不器用で、ケガが絶えなかった。他の連中と同じようにしていてはケガをしてしまうと、
「あなたは、他の人と同じように遊んではいけません」
と、親から言われていたが、子供の世界は、大人の世界よりもある意味で残酷だったりする。同じことができなければ、遊びに入れてもらえないのは、火を見るよりも明らかだった。
それは子供にとって、一種の死活問題だ。
――自分さえ気を付けていれば――
と思うことで、まわりに気付かせないようにしていたが、子供はそんな態度には敏感なものだ。
俊三が恐る恐る行動していることは、他の連中にはすぐに分かった。まわりが分かっていないと思っているのは本人だけで、そんな思いをあざ笑うかのように、俊三を見る目は冷ややかだった。
俊三もそんな視線には敏感だ。被害妄想の強さが、まわりからの視線に対して敏感にさせる。
――俺って、そんなに分かりやすいのかな?
ビクビクしていることが、まわりに分かりやすくさせているということに、気付いていなかったのだ。
俊三は、何針も縫うケガをすることも少なくはなかった。病院で治療を受けている時、最初はケガをしたことを後悔し、二度と無茶な遊びはしないようにしようと思ったが、子供の世界の死活問題というよりも、親からきつく言われることの方が気に障って、またしても無理な遊びをしてしまうのが自分だということになかなか気付かなかった。要するに意地を張っているだけだったのだ。
しかし、俊三は意地を張ることで、自分の存在をまわりに知らしめていた。意地を張らなくなると、まわりの中のその他大勢になってしまうことを分かっていて、自分がその他大勢になってしまうことを嫌うのも、一種の意地だという堂々巡りを繰り返すことで、意地を張りとおさなければならなくなっていた。
病院は何度来ても気持ち悪かった。いつの間にか自分の身体に病院の臭いが沁みこんでしまうことを分かっていたつもりだが、沁み込むのは服にだけだという甘い考えが頭の中にあった。
それは、病院から離れると、自分でその臭いを感じることができなかったからである。餃子を食べて、ニンニクの臭いをまわりは感じるのに、自分では感じないのと同じことなのに、自分から納得しようとしない限り、臭いを感じることはできないのだ。
臭いが沁みついてしまった自分だったが、沁みついた臭いは肉体にだった。今は自分の肉体を離れ、晃少年の身体の中に入りこんでいるので、病院の臭いは消えていた。事故の記憶は鮮明に残っているので、病院の中での精神病棟での異臭が、事故の記憶に反応し、晃少年の中でも今まで感じなかった異臭を、本当に異臭として感じさせるものになった。その時、晃少年として初めて精神病棟が他の病棟とは違っていることを納得したに違いない。
だが、晃少年にとって、それは余計なことだった。
――なんで、分からせようとしたんだよ?
と、晃少年の叫びが聞こえてきそうだ。
本当は晃少年には、異臭を分かっていたのかも知れない。分かっていて、自分を納得させないことが、佳苗への思いに繋がると感じていた。それは頭で考えていたわけではなく、気持ちの中で感じていたことだった。
――そんなことができるんだ――
頭で考えること以外、自分を納得させることはないと思っていた俊三には、晃少年の考え方が分からなかった。
本当は晃少年が特別なのではなく、子供だから柔軟な思いがそこにあることで、頭以外でも自分を納得させることができることを知っているのだ。
俊三にも同じように子供時代があったはずで、実際に自分を納得させてきたはずなのに、どうしてそのことに気付かなかったのかと考えてみた。
――身体に沁みついた臭いに、自分自身が気付かないのと、同じことなのかも知れない――
と感じていた。
俊三は、子供の頃から、まわりに避けられていたような気がしていた。
あれは小学生のまだ低学年の頃だっただろうか。女の子から、
「晃君、変な臭いがする」
と言われたことがあった。
もちろん、自分の臭いを自分で分かるはずもなく、
「そんなことないよ。なんでそんなこというんだよ」
と、言い返したことがあったが、自分がどんな臭いを発していたのか、聞いたりはしなかった。余計に自分が惨めになるだけだと思ったからだろう。
他の人から変な臭いがすると言われたのは、その時だけだったので、気にすることもないのだろうが、言われたのが一人だけだというのも、余計に気になるものだった。
晃少年が異臭とともに佳苗を意識したのは、病院に来ての初日だった。
今まで住んでいた本宅から、執事やメイドの数人を連れて、別荘にやってきてからの半年ほどは、病院に行くこともなかった。本宅にいる頃は、一か月に一度の割り合いで、大学病院に通院し、ほぼ一日を検査で費やしていたのだ。
子供心にも、自分が病気で、しかも尋常ではないことくらい分かっていた。だが、自分には自覚症状はなく、言われるままの検査だったので、余計に辛かった。
両親から別荘の話を聞かされた時、
――いよいよか?
と、厄介払いされたような気がしたが、執事とメイドだけなら、好きなようにさせてくれたので、それが嬉しかった。
それでも、
「坊ちゃん、申し訳ございませんが、また病院通いをすることになります」
と言われて、一瞬、何のためにここにいるのかという疑問が頭を擡げたが、不思議と怒りや憤りは感じなかった。
――まるで自分じゃないようだ――
どうやら、俊三が晃少年の中に入りこんだのは、その時だったようだ。晃少年が記憶だけを残して、どこかにいなくなってしまった間隙を縫うように、俊三が入りこんだのだ。
――しかし、晃少年はいつ自分の中から消えてしまったのだろう?
他の人の身体に入りこんだ晃は、生き直すということの意味を分かっているのだろうか?
生き直すには、まだほとんど人生経験のない状態なので、それまでの人生に後悔も未練もないはずだ。ただ、死というものを本気で意識してしまっていたのであれば、それも仕方のないこと、ただ、まったく気になっていることがないわけではなかった。
それが佳苗だったのだ。
佳苗に対して恋心を抱いているかどうか、まだ分かるわけではない。ただ、佳苗を見ていると、短い間ではあったが、自分が生きてきたことを納得させる何かを持っているような気がしていた。それを確かめずに、死ぬというのは嫌だと思っていた。
俊三が入りこんだ時に感じた晃少年の意識は、さほど死に対して怖がっている様子はない。死ぬということがどういうことなのか、分かっていないというべきだろう。ただ、そんな子供であっても、本当に死というものが近づいてくると、急に怖くなったり、死にたくないと思うようになるだろう。実感が湧いてくるというべきだろうか。
それまで、大人はまるで腫れ物に触るように晃少年に接することだろう。その間に、潔さだけが表に出ている晃少年を、誰もが気の毒に感じ、痛々しくて見ていられない気分になることだろう。晃少年にもそのことは分かっていたようだ。
だが、表に出るのは、子供としての晃少年だけであった。それだけにまわりの雰囲気は重々しく、どうすることもできない大人にとって、晃少年はこのまま潔く死を迎えるだけだと思っている。
しかし、ある時点を境に、晃少年は我に返ってしまう。
「死ぬのが怖いよ」
と言って、どうなるものでもないのに、泣き叫ぶ。本当なら、最初にする態度を、死というものが、目を逸らしても、目から離れなくなるくらいの距離にまで接近した時、初めて、晃少年は子供に戻るのだ。
その時にまわりの大人は思い知らされる。
「潔く、死を受け入れるなど、子供であっても、大人であっても、ありえないことなんだ」
と、今さらのことのはずなのに、
――それなら、最初から慌てふためいてほしかった――
と考えるだろう。
地獄の底で喘いでいたのに、さらにそこから穴が開いて、想像もしたことのない世界へと叩き落される。
――どうして私たちがこんな目に遭わなければいけないんだ――
と、自分の運命を呪いたくなっても、無理もないことであろう。
だが、晃少年は死ななかった。俊三の思っていた通り、晃少年の命は、その後発見された新薬によって、奇跡的な回復を見せ、初めて死の恐怖から振り払われて生きることができるようになった。
俊三が晃少年の中に入ってから二年後のことだった。実際には一年後には、ある程度の実験は終わっていて、晃少年が助かることは、九分九厘決まっていたことだったのだ。ただ、晃少年にそのことを告げることはできなかった。ある意味で、完全に治ったということが証明されない限り、公にできることではなかったからだ。それでも、生きることができるのだと分かった両親は、今までの苦しみからある程度は開放された。母親は安心感から、体調を崩して寝込んでいた時期があったくらいだ。
父親の方は、母親よりも冷静ではあったが、ジレンマがなかったわけでもなかった。
――お金を積むことで、息子は助かる――
ということは、お金のない人は今まで通り、死を待つしかない状況に変わりはなかった。――もし、その人たちと立場が逆だったら?
と考えると、ゾッとしてしまう。
母親はそんなことはどうでもよかった。自分の息子が助かりさえすれば、それでいいのだ。新薬のことは今は国家機密に近いということを頭の中で分かってはいても、病気が治ってから歓喜の中で、つい口を滑らさないとも限らない。晃少年に、新薬を投与することが、そのことで母親を窮地に追い込むことになるというのは、その時、誰も知らなかった。
もし、そのことを知っている人がいるとすれば、晃少年の中に入りこんでいた俊三だけであろう。
俊三は、もちろん、この家族がどうなるかなど見当もつかないが、少なくとも母親の立場が微妙であることは彼一人が分かっていた。何とかできるのも俊三だけだろう。
だが、本当の親子でもない関係で、どこまで助けることができるか分からなかった。死を前にして取り乱したように晃少年が表に出てきたのは、一度だけで、後は我に返ることもなく、表に出るのは俊三だった。
――どうしてあの時、晃少年の本能が剥き出しになったのだろう?
と考えた。
その答えは見つかることはなかった。もしこのまま晃の中で生きることになったとしても、俊三には永遠に分からない謎ではないかと思う。今までほとんどのことが分かっていたのができすぎだっただけで、本当は晃少年の心の奥底を覗くことなど、できるはずもなかったのだ。
俊三は晃少年の中にいて、いつも自分の子供の頃を思い出していた。その思いが知らず知らずのうちに晃少年の本能を呼び起こすことになったのかも知れない。
――本能とは、精神が耐えられないところまで来た時、反発的に発揮する力なのではないだろうか?
と考えられる。
もちろん、それだけではないのだろうが、本能にパターンが一つではなければいけないということもないだろう。最初から計画された行動ではなく、衝動的な行動が本能だとすれば、その考えもありなのではないだろうか。
晃少年が表に出てこないことを確信したのは、結構早い段階からだった。表に出てきて荒れ果てた態度を露骨にしたあの時から、一か月も経っていなかったような気がする。
考えてみれば一か月という期間は実に中途半端な気がする。短いと言われれば短く感じるし、長いと思えば長く感じられる期間である。
その時の俊三は、長いとも短いとも感じなかったが、時間が経ってみると、短かったようにしか思えない。理屈に適った考えではあるが、それだけ遠い昔のように思えるのは心外だった。その一か月という期間、確かに自分の中に晃少年の本能がいたことを感じ、俊三にとって、短いはずのない時間を過ごしたに違いなかった。やはりそれからパッタリと晃少年の意識を感じなくなったことに対し、不安がよぎっていたからだった。
晃少年の本能は、最初に彼の身体に入った時から感じていたような気がする。
――出てくるんじゃないぞ――
という思いがあった。
それは本能を感じても、それがどんな本能なのか見当もつかなかったからだ。見当もつかないことを悩んでも仕方がない。出てこないに越したことはないからだった。
晃少年が生き残ることができたのは、新薬によるものだった。新薬はまだ表に出ていない。実際に誰かを使って人体実験をしなければいけない。この薬に限ったことではない。成功しなければ、公表することすらできないのだ。
確かに新薬開発には相当なお金と期間が掛かっている。実際には民間企業だけでできるものではなく、その中には国家予算が組み込まれていたのも事実のようだ。そんなことまでは研究員の中でも一部の人間しか知らない。新薬の実験台になる資格のある人間を選抜するのにも、かなりの時間が掛かったようだ。
晃少年に白羽の矢が立ったのだが、本当は晃少年が第一候補ではなかった。数人の候補があって、最終選考に残ったのは事実だったが、他の候補の方が薬を使う候補としては強かった。
しかし、他の候補は最終的に、「実験台」になることを拒んだ。
「もし、失敗すれば、お金はいりません」
という一言に、切れた人もいたようだ。
「うちの子供は、お前たちの実験台ではない」
それまで、
――どんな汚い手を使ってでも子供を救いたい――
と思っていた親だったはずなのに、急に切れたことで、候補から外れてしまった。その親が、その後、どんなに後悔したであろうかと感じるが、一度断ってしまったものは、どうしようもない。
本当は、それが佳苗の親だったということを知っている人は、さらに少なかった。佳苗が、新薬に候補に上がっていたことを知っていれば、異臭の理由が分かったかも知れない。新薬を投与する前に、その効果をさらに高めるために、予備薬を飲まされていたのだ。
予備薬がかなり異臭を発することは、研究者の間では改良の余地として課題に昇っていた。だが、実際にここまで酷い臭いがするとは研究者たちの間でも意外なほどだった。実際にこれが佳苗だったからこんな臭いがしたのだ。いや、佳苗だったという言い方には語弊がある。
「使った相手が女性だったから」
と言い直すべきであろう。
晃少年の時には、予備薬を飲まされたが、佳苗の時の半分の量だった。それだけ一年間で、予備薬の開発も進んだのだ。晃少年の身体から少し変な臭いがすることに気が付いた人もいたようだが、佳苗の時に感じたような臭いは、漂っていなかった。
「やはり、予備薬には女性ホルモンの分泌と密接な関係にあって、その影響で異臭が酷いのかも知れない」
それが改良の課題だったのだ。
課題は何とか克服された。しかし、佳苗から発せられる異臭に対し、一番敏感に反応したのが晃少年だったということは誰も知らない。しかも、晃少年の中には別人がいて、その人の記憶を刺激したなどということを、誰が信じるであろうか。
予備薬の開発は、元々交通事故に遭って、瀕死の重傷を負った人に対して使われたのが最初だった。
予備薬の効果の一番は、痛みを極限まで和らげることだった。生死の境を彷徨いながら、いかに痛みを感じているのかということは、表から見ている分には分からない。だから、効果があるかどうかの検証は皆無に等しかった。しかしそれでも、当初の思惑から外れることなく研究は進み、この研究が新薬の予備薬として効果があることが最近発見されたのだ。
表では、予備薬は交通事故などの事故に遭った人に使われ、裏では予備薬として使われた。俊三が子供の頃、交通事故に遭った人に感じた異臭が、予備薬によるものだったということを知ることはなかった。ただ、佳苗を晃少年の目線で見ることで、感じた異臭によって彼女が抱えている悲劇を感じたのだ。
――晃少年には分かっていたのだろうか?
理由は分からないまでも、異臭を感じることで、悲劇的な何かを感じていたのかも知れない。
晃少年が予備薬を飲まされた時、父親の態度が急に変わった。どこかよそよそしく、そして絶対に晃少年の顔を見ようとはしない。しかも、その顔を覗き込もうものなら、まるで仁王様のような恐ろしい形相が顔に浮かんでいた。それを見た時、
――俺をそんな目で見るな――
とでも言っているかのように感じたのは、俊三だった。
――どうしてあんな顔をするんだ?
晃少年の問題ではなく、父親自身の問題であれば、あんな顔にはならないだろう。
――そういえば、あんな表情、今までにも見たことがあったな――
と俊三は感じた。
それは晃少年の父親に対してではなく、さらに古い記憶で、確か俊三と同じ職場で働いている人で、その人のそんな表情を見て少しして、自殺したのを思い出した。
――あれは断末魔の表情だったんだ――
と感じたのを覚えている。俊三の記憶が正しければ、晃少年の父親の表情は断末魔の表情に近いものを感じた。
だが、父親が死ぬことはなかった。その代わり、顔色がどんどん悪くなっていき、ノイローゼになっていくのを感じた。
父親が隠れて何かの薬を飲んでいるのを気付いていたが、それが何の薬で、どうしてこんなことになったのか分からなかった。
晃少年も自分のことに必死で、他のことを考える余裕がなかったからだ。
俊三は晃少年の身体に入りこんで、初めて晃少年を表から見ようという思いに駆られた時期でもあった。
「時々抜け殻のように考え事をしている」
と、母親の目に移ったのだろう。父親のことも大変なのに、かなり辛い思いをしていたのも事実のようだ。
父親のそんな姿を晃少年は、想像できるようだった。俊三はそんな事実を知らなかったにも関わらず、父親が苦悩していることを最初から分かっていた。晃少年の記憶が、俊三に父親の苦悩を感じさせたのかも知れない。
――誰かが晃少年に余計なことを吹き込んだのだろうか?
いくら何でも、人から聞かされたと言っても、まだまだ少年の晃に、状況を理解できるほどの力があるとは思えない。
――晃少年は、その時二つの意識を持っていたのかも知れない――
一つは、晃少年自身のもので、もう一つは誰のものだったのだろう? 想像が許されるのだとすれば、ひょっとすると父親の意識だったのかも知れない。
父親にはそんなつもりはなかったとしても、子供のためとはいえ、自分の子供を実験台に使うなど、父親としては自分のプライドが許さなかった。
自分のプライドと子供の命を天秤に掛ければどちらが重たいかなどということは、当然のごとく分かるというものであるが、父親にとってプライドは、自分が生きていく上での大切なものだった。
守らなければならないものを捨ててまで、子供を助けることを美学だと考え、自分を納得させられるほど、父親のプライドは陳腐なものではなかった。父親は自分の中で大きく二つの自分が、激しく戦っているのを感じていた。それをどうすることもできないのが、表から見ているだけの自分で、戦っている二人も自分だということを考えると、どこまでが考えが及ぶ自分なのか、分からなくなっていた。
そんな父親の視線は、自然と息子に向けられる。中にいる自分が曖昧に感じていることで、視線も虚ろだっただろう。しかし、虚ろであればあるほど、見られている人にとっては気になるもので、向けられた息子とすれば、父親の視線に尋常ではないものを感じると、今度は自分に誰かが話しかけてきているように思えてきたのだ。
自分に話しかけてきたのは、神父の格好をした紳士だった。
「人生をやり直したいと思っておいでのようだね?」
と、いきなり不思議なことを言う。人生をやり直すも何も、まだ少年の晃には、やり直すだけの人生を生きていない。
思わず頭を下げてしまったが、自分がまだまだ生き直すだけの人生を歩んでいないことくらいは百も承知だった。
しかし、神父と一緒にいる自分は、いつの間にか大人になっていた。大人になっていたどころか、老人になっているではないか。その時はまだ自分の命が危ないことを知る前だったので、大人になった自分を想像したことはあったが、まさか老人を想像するなど、ありえないことだった。
「やり直せるんですか?」
「生き直すことになるけど、それでもいい?」
「どういうことですか?」
「今の身体から違う身体に入りこんで、そこで新しい人生を歩むことになるんだよ」
子供だったら理解できないような話だったが、その時の晃には神父の言っている意味が半分は分かっているつもりだった。
「ということは、別の人生ということですね? でも、僕の意識や記憶はどうなるんですか? もしまったくなくなるのであれば、それは『生き直す』という言葉とは厳密に違っているように思うんですが」
「その通りだ。君は『生き直す』わけだから、当然今の意識や記憶を持ったまま、違う人に入りこむことになる」
と話していた。
その思いは望むところではあったが、それまであった自分の人生はどうなるというのだろう?
「僕の抜け殻はどうなるんだい?」
「心配いらない。他に生き直そうとしている人が君の中に入ることになるんだよ。まわりの人には中身が入れ替わったとしても、それを察知されることはない」
「それって、とても寂しい気がするんですけど」
まわりの人が自分の何を見ているのかということを考えたことがあまりなかったことを思い知らされた気がした。
――それでもいいか?
晃少年は、そう思った。そう思った瞬間、目の前の神父も急に優しそうな表情になった気がした。
――何だ、こいつ。みんな分かってるんじゃないか?
と思うと、とても癪な気がした。
このまま、この男の言いなりになるのは嫌だったが、しかし、この男が少なくとも自分の敵ではなく、味方であることに間違いないことは分かった。
そう思い、ここまで自分のことを分かっていると思うと、
――ひょっとすると、この人は自分そのものなのかも知れない――
と感じた。
自分であれば、最初から逆らうことなんかできるはずもない。黙って従うだけだ。しかし、心のどこかに癪な部分が残っている。それはこの男に従うことに対して癪だというよりも、この男があまりにも知りすぎていることが癪なのだ。
――俺よりも知っているじゃないか――
この男は自分の心が姿を変えているだけだ。しかも、この男が言っていることが本当だとするならば、超能力を持っていることになる。そう、自分よりも優れた自分がいることが癪に障るのだった。
晃少年の心の動きとは関係なく、この男が現れた時点で、晃少年が「生き直す」ということは決定していた。晃少年は癪に障っても、生き直すことには異論はなかった。その中で問題は、
――一体、どこから生き直すというのだろう?
ということだった。
そこの誰だか分からない人の人生を生き直すのだから、最初に考えるのは、
――一体、誰の人生なんだろう?
と考えるに違いなかった。
それを考えないということは、
――誰であっても、関係ない――
と思っているからで、その心は、
――自分の意識を持ったまま、違う人に入りこんで人生を生き直す――
ということだからであった。
ただ、人生を生き直すということは、今の自分よりもさらに若くなければ話の辻褄はあわない。八歳の晃少年は、それ以上若くなければならず、そうなると、ほぼ自分で何かを意識できる年齢ではない。つまりは、生まれた時から生き直しているようなものではないかと思うのだった。
ただ、晃少年は、今の自分の身体から抜け出したいという気持ちはあった。
それは、
――死んでしまうかも知れない――
という思いよりも、今は新薬が開発されて、自分に使われるであろうことも分かっていた。
どうして分かったのかということまでは分からないが、分かってしまったことは本当なら喜ぶべきことなのだろう。しかし、そこに絡んでいるのはお金であって、お金を出すことで、新薬を使う権利ができた。つまりは、権利をお金で買ったということである。
生き残れる人がいれば、生き残れない人もいる。お金がなくて、新薬を使う権利がない人だ。
その中に佳苗も含まれていた。それを晃少年は、
――佳苗は精神に異常をきたしているから、薬が効かないんだ――
と思っていたが、本当は、お金の問題だった。
お金がないことで薬も使えない。しかも精神に異常をきたしたまま、このまま死を待つだけだというのは、晃少年にとって、やりきれない気持ちになった。
本人にとっては、
「このまま生き長らえるよりも、いっそのこと死んだ方がマシだ」
という思いを自他ともに持っていた。
だから、佳苗は死んで当然の女の子だった。誰も生き続けることを望んではいなかった。晃少年たった一人を除いては……。
この思いは、晃少年にとって、
――自分が助かる――
ということよりも、このやりきれない思いが、自己嫌悪を引き起こし、
――人生を生き直す――
という発想を生んだのかも知れない。
目の前に生き直すことを勧める神父が現れるのは、自分のことというよりも、他の人との絡みで、自己嫌悪に陥った人にしかありえないことなのかも知れない。晃少年に入りこんだ俊三にも同じことが言えるのだろうか?
晃少年は、自分の身体を離れた瞬間から、生き直す相手は決まっていた。晃少年が生き直す相手、それは佳苗だったのだ。
佳苗の魂はどこに行ってしまったのか?
晃には分かっていた。最初からそんなものはなかったのだということを……。晃少年が見ていた佳苗は抜け殻だった。彼女は精神に異常をきたしていたわけではなく、魂を持たずに生まれてきた。誰かに入り直してもらわなければ、このまま死を待つだけだったのだ。晃少年が入りこんだとしても、すぐに身体に馴染めるわけではない。何もなかった記憶を晃少年の記憶と意識から、過去の記憶を作り上げて行こうというのだから、それはかなり難しいことであった。
佳苗たちが異臭を発するのは、精神に異常をきたしているからではない。自分たちの仲で生き直してくれる相手を見憑けるためだった。もちろん、自分の中にそんな意識が存在しているわけではない。本能的に発している臭いだった。
――反応してくれる人がいるはずだ――
と思っているからで、だとすれば、晃少年に乗り移った俊三に、どうして異臭を感じられるのか、疑問であった。
確かに他の人には佳苗の異臭は、もう感じることはない。佳苗にかつて異臭が感じられたという記憶すらなくなっている。それは佳苗自身がまわりに忘れるよう、特殊能力をつかったわけではない。ごく自然に忘れていったものだ。人というのは、条件反射のように、その人を見ただけで、異臭を感じるようになっていたのなら、異臭がなくなってしまうと、今度は思い出すことができなくなる。異臭は自分の中で意識して記憶していたものではなく、条件反射の成せる業だったからだ。
――まるで諸刃の剣だ――
と、理屈に気が付いた人なら感じることだろう。
誰もが記憶と呼んでいるものには、条件反射は含まれない。条件反射というのは、
――疑似記憶――
とでも言えるのだろうか。曖昧な意味で解釈すれば、条件反射も記憶の一種だが、あくまでも、そこには、
――疑似――
という言葉が含まれて止まないものである。
佳苗が収監されていた病棟からは、佳苗以外の人に異臭は感じられない。晃少年に入りこんだ俊三が病棟の前を通りかかった時、今でも異臭を感じるのは、彼自身が、
――異臭という疑似記憶を晃少年の中に感じている――
ということに相違なかった。
異臭を感じたまま晃少年が自分の身体から離れたことで、疑似記憶は「木置き」へと昇格したのだった。もし、俊三が佳苗に異臭を感じなくなる時が訪れるとすれば、その時初めて晃少年が佳苗の中で生き直していることに気付くことになるのだろう……。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます