第4話 〈冷気の魔女〉
深い青の海は天上に広がっていて、どこまでも広く大きく果てが見通せなくて。いったいどこまで行けば抜けられるのだろう、空の海の外側だと思い込んでいる真っ暗な宇宙は実は外でも何でもない、空の深海なのではないだろうか、果てなど永遠にたどり着くことなんて異様なほどに難しいのではないだろうか。
白髪交じりの黒い髪が肩を覆うくらいの長さで重たく感じられる。黒い前髪は左側に伸びていて、右側の白くて不健康な印象を与える白い額が見事に露わになっていた。どんよりとした瞳で、メガネ越しに見つめることでようやく鮮明に広がる広大な空を思う存分その目に映し広げながら黒髪の少女、那雪はため息をついて、目の端に今にも浮かび上がりそうな涙を無理やり抑え込んだ。
那雪はこの上ない孤独を味わっていた。その孤独の海の果てはないのだろうか、この事実の外側は遠くてたどり着けないのではないのだろうか。そもそもこの孤独の外側など在るのだろうか。
ワカラナイ、ナニモ、ワカラナイ
永遠にも思えるひとりきり、それは誰が創ったものなのだろうか。四つの葉が張られた栞を細くて力のない手でそっと包んで過去の孤独から抜け出すことのできたあの時間を思い返す。
この極東とも呼ばれる日本となずけることで国という境界線を得た地に住まうオンナ。〈東の魔女〉と名乗ったただひとりの少女、彼女との思い出は色あせても擦り切れてもいまこの目に映る現実よりも鮮明に思い出すことが出来た。
過去は美化される、そう唱えた者は何人ほどいただろう。そう実感した人物はどれ程なのだろう。そうした人物は那雪が抱える思い出にも同じ言葉を向けるのだろうか。
いやだよ、そんな言葉であの思い出を、ホンモノの想いを、壊さないで
那雪には過去が輝いて見えていた。遠くて手を伸ばしても届かない程に深い過去の空の向こう側、涙すら枯らしてしまうほどに乾ききった青空の向こうに漂う白昼の六等星の宝石たち。
それは人々の思う一等星などとは比べようもない程に輝いていた。
人々の述べる思い出の美化など、幸せ者だからこそ言える真実でありながらの虚言。那雪にはあの幸せ以上のものなど一切ありはしなかった。
だからこそ、これからも〈東の魔女〉に会いたい、あの少女の名が那雪の口から零れ落ちる。
「会いたいよ……奈々美」
ここまで純粋な想いは届かないのだろうか、他の人々から受けた扱いやそうしたことから汲み上げた想いと比べてどこまでも薄っぺらで中身のない想い。しかし、何よりも濃くてそれひとつで那雪の身を充たしてしまうほどの深い味わいを持っていた。
栞に結び付けられた水色の帯、想い出の証。そこから二又に分かれる薄い赤をその目に見た。
どの景色にかざしてみてもどこに映してみても空に掲げてみても、全ての風景に透けるどこまでも淡くて儚い赤い帯。その内の片方は緩やかに柔らかに伸びて行ってどこに向かっているのかその目には視えなかった。きっと目を凝らして見てもメガネの度を上げてみても、その果ては分からないだろう。
もう片方もまた緩やかで優しく空を漂っていた。その道筋を目で追って、那雪の目が行き着いた先に那雪は驚きを得た。
それは、間違いなく那雪の小指に巻き付いて薄赤い蝶々となって留まっていたのだから。
「もしかして、奈々美と繋がってる」
青空を舞う赤いリボンのような帯、それを追って孤独の果てを目指して行った。
人々の波は何処までも激しくて、那雪は鬱陶しく感じながらもその群衆によって築き上げられた波を掻き分け進む。
人々の行き交うそこでも強い孤独を感じていた。学校でも、何故だか必要最低限の会話以外には目が合うこともない、いないような扱いを受けている那雪。気分はひとりきりだったものの、中学生の頃のようなイジメとは異なって刺々しい視線など一切感じられなかった。必要な時だけそこにいて、それ以外の時は存在すらしていないような体感。無視や目も当てられないといった想いから来る人類の悪意の為す業とはまた違った感じ。
やはり、那雪はこの上ない孤独の世界に生きていた。
昔、父がやっていたゲームを思い出す。昔那雪がやっていたゲームもまた思い出される。プレイヤーの手によって動かされるキャラクターは人々に話しかけなければいつまで経ってもひとりぼっち。話しかけたところで事務的に日常会話が繰り広げられるだけの電子世界に縛り付けられた虚しい人々。
待てど暮らせど孤独の旅路。
進んで現れるライバルや敵も必要だからと話しかけられているような気分に陥っていた。
今の那雪の心は、普通というモノにすら届いていなかった。
そんな彼女が気が付いた景色の中の美しき歪み、那雪の想いが生んでしまった孤独の帯、それを追いかけ続け、辿って駆け抜けて。続く道、どのような地図にも載っていない、何処のツアーのガイドも知らない道筋を駆けて行く。
青空はその姿を焦がし始めて赤い帯よりも仄かな朱に染まり始めていた。
草原は泣き顔で、人々は景色に見惚れていて、空気の熱は隠し事のない清々しさを見せつけていた。
そこに那雪が探している魔女はいた。癖のある茶髪はうねり肩に微かに触れた先が可愛らしく跳ねていた。那雪の髪も癖はあったものの、手入れをしなければただひたすら不潔に感じられてしまうために奈々美のようにクセを活かすことなど一切ありはしなかった。
――いつ見ても、奈々美は美人だね
うっとりとしていて頬は熱を帯びて仄かな赤みに覆われて優しく包まれて。久しぶりに見た彼女の姿は昔と比べてほんの少しだけ全体的に丸みを帯びているだろうか、そんな変化のひとつすら愛おしくて胸の内で叫び暴れ回る感情は今にも那雪の身体を引き裂いて飛び出してしまいそうだった。それでいながらも開かれた口からは荒い息しか出て来なくて音に声になってはくれない。
感情の圧はそれ程までにかかっているのだろう。
圧し掛かる想いをどうにかひねり出した。
「奈々美、久しぶり」
いつもよりも荒い声はあまりにも汚く感じられて那雪は顔を思わず逸らしてしまう。気まずい空気が那雪を支配して止まったようにも思える数秒間、奈々美は振り返ることもなくただ景色に見惚れているだけでしかなかった。
突然湧いて来る焦りは、那雪の心に迫って来る曇り空のような感情は、いつも通りの枯れ気味の声を、いつもよりも見開かれた瞳を、大きく揺れて安定を取ることの出来ない感情を呼び起こして大きく心を打ち付けるどす黒い波となっていた。
「奈々美、奈々美、返事をして」
再び、みたび、幾度も、声を上げて呼び続ける。心を押し出して、想いをしっかりと乗せて更には上塗りして。
何度呼んでも名を言葉にしても、目の前にいるはずの魔女は那雪の方など見てくれなかった。
嫌われてしまったのだろうか
薄暗い感情が那雪の感情の芯に根を張って、毒を孕んで育ち始める。毒は内側から那雪を蝕んで純粋な白を構うことなく忌まわしい黒に染め上げ侵し始めていた。その様はまさに穢れ一色の純粋を呼び出そうとしているよう。
全てが絶望に染まり上がる前に那雪はもう一度、奈々美の名前を呼ぶ。
またしても返事がなく、那雪はこの世にいないのではと思い惑わされて動くことも出来ない。
目の前の奈々美は無視しているというよりは聞こえていない、見えていない、そこにはいないといった扱いをしていて、明らかに異常だった。
異常は自分なのか奈々美なのか
考え込み、手の施しようもない深い暗黒に膝まで浸かっていた。ドロドロとしていて臭い無き悪臭に充ちていた。
全てを一度諦めて那雪は振り返り、家を目指して歩き始める。
歩道橋も空も人々が踏み締め汚す道路も何もかもが黒く暗く見えてどうしようもなかった。
夕焼けの空はようやく熱を冷まして微かな闇を差し込んでいた。それが今の那雪の想いとあまりにも綺麗に重なり過ぎて、完全な様が違和感を呼び起こしていた。何もかもが合い過ぎるということがここまで美しくないのだと今更ながらに思い知らされていた。
これならいっそのこと、私の気持ちだけが爽やかで晴れやかで美しければいいのに
もはや自分勝手、そのようなことなど疾うに分かり切った話、しかしながら渇望することなどやめられず止められず。そうして進められた想いの疾走はやがて那雪の身体を貫いて、得も言われぬ想いをもたらしてじわりじわりと広がって行った。
重なり合っていた世界観と心情はズレを見せ始めて妙な空気感を得ていた。那雪の記憶の中で暴れる想いは那雪がこれまで出会って来た感情の中でも大きくて強くて、それが現状に対して苛立ちにも似た焦りを生んでは身体を満たぬ心を占めるには足りぬ、そんな苦しみの味わいを付けていた。
奈々美がいないと、満足できないよ
泣いても笑っても、などと語る人物を時折見かけるものの、今の那雪は泣いても笑っても無駄、きっと現状を打破するモノは感情などではないのだろう。
家のドアを開いて中へと滑り込むように入り込む。平べったい身体、力ない身体に弱り果てた顔立ち、かつていじめを行なっていた人物から「この世で最も苦しみが似合う顔だね」と言われたことがあったものの、果たしてその人物はこの状況を見て喜び手を叩いてくれるのだろうか。
いっそのことそうであって欲しい、きっと今は存在すら忘れ去っているだろう。それは嫌、しかしその方が嬉しい、誰からも忘れ去られたくない、嫌な人物からの記憶からは消えていて欲しい。
那雪は己の醜さにまたひとつ気が付いて嫌気がさしていた。きっと誰がどのような事を想っていても、嫌いな人の想いも行動も記憶すらも全てが嫌で不満で仕方がない。結局のところ、嫌いな人間がなにをしていても気が済まず、ただ嫌いが重なり積もって全てを否定したくなってしまうのだ。
親にただいまの挨拶を告げる。枯れ気味に聞こえる力ない声でもしっかり届くのだろうか、不安は積もるものの、なんだかんだ毎度挨拶は返って来る、帰りの知らせに返って来る言葉でようやく自分はここにいるのだと悟って胸を撫で下ろし、先ほどのことを想う。
奈々美に話しかけても一切反応がないのだという不満、それは何度振り払い掻き消そうとも消えることなどありはしない。それどころか思う度に忘れようとする度に強くなって、欲望が願いの日を灯して熱の力で包み込んでいた。
「奈々美にも言えないね、こんな汚い私」
もしも昔と変わりのない奈々美だったならばそれすらも受け止めてくれるかもしれない、しかし今はどのように思うだろう。奈々美が一体どのような人生の道を辿ってどのような日々を過ごして来たのか。
奈々美が今の那雪の歳の頃に那雪と出会ってあのように励ましてくれた。それを想うだけで自らの弱さと汚さが織り交ぜられてあまりにも大きな苦痛を産み落としていた。
奈々美って凄く強かったんだ
きっと彼女は那雪との別れ際に言っていたように魔女の世話になりに行っていたのだろう。人生の中で様々な味を見て触れて、那雪には決して追いつくことも縮めることも出来ない距離が開いて行って、もはや違った存在にすら思えてくるほどになっていて。
考えごとはそこで切られてしまった。母が那雪を呼ぶ声が響いていた。晩ごはんの準備は出来たようだ。部屋を出て、ごはんを頬張る。きっとここまで味を感じることの叶わない食事など久しぶりだろう。いつ以来だろうか、悲しみに暮れ果てた中学時代、結局はその頃と全く変わっていない、成長など何ひとつ感じられないままでいた。
食事を終えて部屋にて明かりも点けないまま瞳をも鎖してしまう暗闇の中で色のついた想いを巡らせる。
奈々美は進んで行って那雪のことなど目にも入らない程遠いセカイに消え行ってしまって、目の前の距離だったあれはきっと異なる世界のような物だったのかもしれない。
那雪はいつまでも進むことの出来ない自身にすら嫌気がさしていた。
奈々美の隣に立つにはあまりにも似合わない自分、彼女と一緒に生きるのに相応しいオンナに成りたい、共にいい人生の鐘を鳴らしていたい。
進まなきゃ、ううん、進みたい
それは、今までの那雪が、否、今の那雪でさえ気が付いていない変化だった。奈々美との距離など錯覚、一緒にいたいのだという想いこそが大切。想いが届く届かないなどという前に、一緒に居たいと堂々と思うことが出来なければ、彼女に失礼だ。
この場をこの状況を打破して輝きへと導くモノは紛れもなく感情だった。
想いのない者に好きな人と一緒にいる資格などない。意志も理屈も総て何もかも何処にでも感情は付き纏って共に歩んでくれる。
夜空は空気を冷やして、しかしながら気温は思うように下がってはくれなくて暑苦しさで身を締めてくる。心までもが熱の外にいるような錯覚に陥って、世界から弾き者にされたような心地でいて。
セカイへと足を踏み入れるための行ないはどのようなものだろう、一体どうすれば奈々美だけにでも気付いてもらえるだろう。
奈々美は〈東の魔女〉だ、そう気が付いた。闇の中、足掻いても藻掻いても気づいてもらえない状態で、今那雪を取り囲んでいる闇のような深い暗黒のセカイの中で、どのように気付いてもらえばいいのか、きっと大きな魔法を使えば、セカイの闇をも焼き切ってしまえば、熱よりも熱くて冷たい炎、瞳の中に宿りし魂の姿が、自身のホントウが、ようやく那雪にも見えて来た。
栞に漂う帯はきっと魔力の流れ、奈々美の身体には炎を扱う素質が備わっていながらも魂には炎を扱う素質が宿っていなかった。
そこまで考えることでようやく那雪が奈々美に再び出会う運命というものを感じ始めた。魔力の繋がりがあるということは、那雪の方に奈々美にはない才能が宿っているということは、那雪が魔法を使っているのだということ。
そっか、あれは……私と奈々美を結ぶ運命の赤い糸だったんだ
糸の導きを、魔法の縁を、輝かせることで再び出会いに流れ着くことが出来るのではないだろうか。
那雪は栞を通してふたりを結ぶ糸を手にして口を付ける。甘くて虚しいキスは、この上ない希望に満ちていた。
那雪にはこれからどうすれば魔法が使えるのか、今の異変という魔法を解いてふたりの愛の距離を示す方法というものが、分からなかった。
ただ、過去に魔法を使ったことだけは確か。
那雪は糸に着けた口で感触を、魔力の香りを味わって、帯の過去を見つめ続ける。そこに刻まれし実態とは如何なものだろうか。那雪が汲み上げて感じ取った結論は、もはや答えになどなっていなかった。
ワカラナイ、ナニモ、ワカラナイ……けど
那雪の行動とは何ひとつ関係のないことによって取り出された結論が今、下った。
「魔法の使い方、多分想いだよね、奈々美」
帯からは何も読めなかった那雪がこれからとる行動は、完全なる感情論。
「使いたいから使う、意志さん、私の気持ちを分かって」
夜になっても冷たい闇に包まれても消え去ることの無い熱は那雪の想いを汲み取ってのことのように思えてくる。そのくらい、それほどまでに大きな心を持って向き合う程度がちょうどよい、那雪にも分かって来た。
このセカイでの魔女の魔法は、普通の精神では扱うことなど叶わないのだと。
「いいわ、私と奈々美の出会いを邪魔するような魔法の壁なんて」
那雪が言の葉を冷たい声で吐くと共に熱は那雪の身体スレスレのギリギリまで集まり熱同士、空気同士が擦れ始めた。
「例え過去の私の気持ちだったとしても邪魔するなら」
やがて空気は火花を散らし始め、那雪の周囲では危険な想いの星々が色付き暴れ始めていた。
「全部全部……焼き払ってあげる」
それは炎というよりは空気同士の爆発と呼ぶ方が相応しい、何処までも不安定な心の焔の魔法だった。
そうした焔が空気からセカイへと滲み出て那雪の臆病の外殻を焼き払い、無へと還す。
そうした焔は那雪の意志に従って空気の熱を吸い上げて更にこの世を焼いて燃やして消し炭へと変貌を促す。想いの爆発によって生まれる炎は激しく、この世の空気を吸い上げ発動されるが為に外の熱を大幅に吸って冷気をまき散らす。
那雪の周囲は冷気に充ちていた。魔法の熱と外の冷気、彼女の想いに反してまき散らされる負の熱は炎という属性以上に彼女の魔女としての存在を示すに相応しかった。
那雪は、この少女は〈冷気の魔女〉と呼ぶのが似合う人物だった。
ふたりのセカイ以外はどうでもいい、何もかもがどうでもいい、出会うための犠牲は、過去の自身の想い。
既に此処に居ない者の否定ならば誰の迷惑にもならない。
「見てよ見てよミテヨ、奈々美、何処にいるの。私、あなたに会うためなら何だって出来るもの、ほら、見てよ」
メガネをかけて表情を歪めた魔女は、焔を冷気を纏いながら細くて色気の欠片すらも感じさせない細い脚でセカイの外へと踏み出す。かつての想いなど全て燃やし尽くして、今の想いの熱は全て外から取り入れて那雪の胸の中に仕舞って。
那雪の世界に色が付く。この上なく鮮やかな色が薄っすらと。脚を静かに行儀よく踏み出す度に焔も冷気もついて来る。熱を仕舞って色を吐き出す。
セカイは爆発の焔によって照らされていた。
自らの世界を飛び出した後で目指す場所など分かり切っていた。魔法を焼き尽くしても尚残る仄かな靄のような薄赤い繋がり、それこそが奈々美との運命の赤い糸にして、那雪の幸せへの導き。
決して正しいとは言い切れない精神、歪んだ表情は心の鏡映し、夏の冷気はまさに今ここに那雪がいるのだという証。目には映らなくて美しさすら感じさせる程に醜い心のドレス。
「奈々美、今会いに行くからね」
言い放たれる言葉もまた、彼女の壊れかけの想いが滲み出ていて小汚いことこの上ない。そうした小汚さに美しさを見いだす者、それこそが人間というもの。那雪は己の醜い想いを綺麗だと言って想いを被せる。
焔の心と冷気の世界に充ちた夜の出歩きに人々は気が付いていないのだろうか、那雪が閉じこもっていたあのセカイは未だ焼き終えていないのだろうか。
「ねえ、気づいてよ。いっそのこと、自分の想いに狂ったバケモノと言ってよ、おかしい人だって嗤えばいいじゃない」
想いが荒波を立てて言葉に変えられて行く。心は声になって吐き出され、それでも充たされず止められず止まらず。きっと何を言われても気が済まないだろう。どのような扱いも許すことなど出来ないだろう。
静かな闇を歩いて赤い糸を辿って見つけた先、それは一軒のアパートだった。
近くに実家は在るでしょうに、何か嫌なことでもあったのかな
疑問を抱きつつも那雪は階段をゆっくりと踏み出し踏み込み昇り続ける。きっと今とてもではないが他人には見せられないような貌をしていることだろう。
二階へと上がり、更に歩みを進める。
ゆっくりと進むさまからやつれた身体から心を映し尽くした表情から辺りに漂う焔まで、何もかもが闇に似合う恐ろしさを持っていることだろう。
那雪はやがて細くて白い指を伸ばし、手を伸ばし、想いを伸ばす。きっと目の前のドアの向こうにこの世の何よりも大切で誰よりも愛している魔女が住んでいることだろう。指は呼び鈴に触れて、押し込んで。
聞き慣れた独特な音が奏でられる。那雪の耳にも当然のように届いていた。
それから沈黙の数秒間が、夜の静けさによって作り上げた時の余白が空気を包み込む。
ドアが控えめな音で開くことを告げ、ドアの向こう側が見えて来た。
その境界線の向こう、もはや目と鼻の先の所に愛しいキミがいた。
肩の辺りで明るい茶髪をうねらせた女、奈々美は那雪と違って大人の艶やかな雰囲気を纏っていた。
そんな奈々美は目の前に立つメガネをかけた少女を目にするなりその目を見開き顔を赤くしてその手を取って家に引き入れた。
「なゆきち、来てくれたのね」
ドアを閉めて思うがままに想いをこすり付けて頬を揉み、柔らかで温かな唇を重ねる奈々美に那雪は妙な子どもっぽさを覚えた。
「奈々美結構甘えん坊さんなのかな」
「なゆきち相手だから仕方ないわ」
それから魔法を解く方法を教え込み、無理やり抑え込ませ、瞳を覗き込まれて、那雪の中で湧いて沁みて染め上げる想いが那雪の身体を突き動かした。
奈々美を抱き締めてふたり倒れ込み脚を絡めて腕を巻き付けて。
「寂しかったよ」
自然と本音がこぼれたことに那雪は安心感を得て、ようやくひとりじゃないという実感を奈々美の温もりから拾い上げていた。
「ごめんなさい、寂しい想いさせちゃって、あと、昔より太っちゃった」
「いいの、あなたがいいの。奈々美じゃなきゃ、こんなに甘い想いは味わえないもの」
那雪には身体つきなど関係なかった。彼女がいるだけで、大切なたったひとりのキミがいてくれるだけで。
「ありがと……愛してる」
途端に那雪は背筋を勢いよく伸ばして奈々美を見つめる。奈々美もまた、照れを顔に出して那雪に対して熱を向けていた。
美しく透き通り交わる想いでお互いに優しく温め合った熱い一夜の出来事だった。
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