第2話 この時の恨みは一生物
「ご懐妊でございます」
ニコニコと優しそうなおじいちゃん医師がそう告げた。途端、私の側で控えていた侍女メリィが、わっと歓声を上げた。
結婚して数ヶ月。
伯爵家の妻として最大の役目を果たせそうだという安堵と喜びで、私もメリィと手を取り合った。
その日の夜、政務から戻った夫に吉報を告げた。仕事で疲れた様子ではあったが、夫のラナン・キュラス伯爵も喜んでいるように見えた。多分。恐らく。
美丈夫と名高い夫。婚姻前にはその彫刻のように整った顔を綻ばせて、私に甘い囁きを慈雨の如く降らせたものだ。
――それも全て、婚姻まで、との注釈付き。それが現実だ。
そう、これが現実なのだ。
「おかえりなさいませ、今夜の夜会は如何でしたか?」
少し目立ち始めたお腹を撫でながら、疲れた顔で寝室へ入ってきた夫に声をかける。
「ああ、礼を失さない付き合い程度に社交してきた」
そう言い、サッサと寝てしまう。
身重の妻が、僅かばかりでも夫婦の会話の時間を持とうと、深夜の帰宅を待っていたとて。そんなものはお構いなしに、己の欲求に忠実に寝てしまった。
初めての妊娠、初めての事だらけな毎日。そこに、夫からの労わりは無いのだ。
「それでね、あの悪名高い男狂いの男爵令嬢が、キュラス伯爵にベタベタと纏わり付いていたんですって!」
昼下がりの小さな東屋に、友人の怒りの声が響いた。
私よりも数年早く結婚した彼女は、ようやく後追いをしなくなった子ども達を家庭教師に預けて、息抜き兼育児の先輩話しをしようとお茶を飲みに来てくれたのだ。
先日の夜会で目撃した情報を、身重で思うように外出出来ない私へ余す事なく伝えてくれる。
苛立ちをぶつけるように焼き菓子を咀嚼する彼女の姿を見て、私は微笑んで紅茶を口に含んだ。
へえ、そう、ふぅん。あの人、私には何も言わず、何もせず。それで? へえ、男爵令嬢、ふふふ、そう。
顔には一切出さないが、胸中で友人の言葉を繰り返していた。私の反応が薄い事に不満を隠さない友人は、更にヒートアップして声を上げる。
「フラン! あなたよくそんな平然としていられるわね。勿論、あの性悪泥棒猫男爵令嬢なんかが、キュラス伯爵をどうこう出来るとは思えないけれど……それでも、身重の間は男性が外へ目を向けてしまいがちと言われる時よ」
「あら、貴女の旦那様はそんな事無かったでしょう? 皆が皆移ろいやすい殿方でも無いわ」
「それはっ……そうだけど」
「ご心配ありがとう。こうして私の事を気にかけて怒ってくれる友人がいて、私は幸せ者よ」
「もう! あなたはそうやってのんびりしているんだから……でも、もし、もしも、もしもよ?」
ずずいっと、人目がないのを良い事に、御作法など忘れ去って近寄る友人。少し離れた場所に、侍女は控えているがそれだけだ。
「あなたが傷付く事があれば、私は必ず力になるからね」
友人の琥珀の瞳が、真剣な眼差しで私を映す。ふふっと、思わず笑みをこぼして私は頷いた。
「ええ、ありがとう。その時はお願いするわね……あ! 今、蹴ったわ」
「きゃあっ! 聴こえてましゅかー? 私がママの親友でしゅよー? 声を覚えておいてくだしゃいねー」
きゃっきゃと嬉しそうに私のお腹へ話しかける。
これって、冷静に見ると可笑しくなってきちゃうわね。
笑いを堪えながらも、友人の暖かい想いに気持ちが軽くなっていった。
とはいえ、面白いはずがない。
夫が他の女に馴れ馴れしくされて、面白いはずが無いではないか。
ましてや、身重である。
やっと悪阻も落ち着いてきたが、つい先日まではあまりの酷さに【もう無理、妊娠やめたい卵生になりたい】と本気で思ったものだ。
運良く平均的な期間で悪阻が収まってきてくれたが、人によっては産まれるその日まで続く事もあるという。
女神か。
私ならきっと発狂して耐えられないだろう。
それ程、想像など吹き飛んでしまう位に辛かった。苦しかった。
今までと全く変わらない生活の夫に、殺意という思いが初めて芽生えかけた。
二人の子どもを育むのに、何故、女というだけで私だけが身体的負担を一手に担い、夫は全く我関せずといった生活を送れるのか。
勿論、金銭的な事や医師やら侍女やらの手配なんかはしてくれている。
けれど、実際に毎日変化していく体に、初めての事に不安は果てしなく膨れていった。
「あああっぐあぁーーー!」
激痛に耐えられず、獣の咆哮が迸る。
意識は混沌としてどれ程の時間が過ぎたのか分からない。
ほんの数時間のような気もすれば、何日も過ぎているかのようにも感じた。
「大丈夫ですよー、吸って吸って吐いてー、まだ開ききってないから力まないでねー」
「ふっぐぅううぅぐぐぉおおおお!!」
「まだですよー、初産だから時間かかりますからねー、まだ陣痛から二日目だし、この開き具合じゃもう少しかかるかしら」
「っぁぁあああ……」
「あ、少し落ち着いてきました? 食べられそうなら軽く何か摘んで下さいね、体力持ちませんよ」
呪詛のようなその言葉に、いっそ殺してくれとすら思った。
体の内からねじ切られるような。
激痛などと生温い。
拷問と言っても、まだ足りるか分からない。
生きたまま、中から肉を血管を臓物を、捻じ上げて押し出そうという衝動に、抗う術も無い。
ただただ一秒が長く永く、永遠に感じるが過ぎ去るのを待つ事しか出来ない。
「あっ、まだ力んじゃダメですって、お尻が大変な事になりますからね」
ズン
私の尻専用手袋をして、私が力んではいけない時に力みそうになると、菊の蕾へと一撃で黙らせてくれる。
しかし、そうしなければ後々大変な事になるらしい。
百戦錬磨の彼女達が言うのなら、そうなのだろう。
「あ、っがあ、あり、が、とぅ、」
息も絶え絶えに呟く私へ、天使のような微笑みを返してくれる。
尻への容赦無いぐりぐりも、私の為なのだ。
それから数時間後……
ッフヒャァァ、ヒャアアっ、
ギャーギャー泣くのかと思えば、思いのほか頼りないフニャフニャした泣き声が響いた。
「おめでとうございます! 元気な男の子ですよ」
嬉しそうに赤子の体を清める助産師達。
それを、私は遠くに聞きながら、意識を手放していった――
「大変! 母体が息してません! すぐに先生を呼んで!」
口元に、何か当てられて風を感じた。
「お母さんっ! 息してっ! こんな可愛い赤ちゃん残して死んだらダメよっ!」
ばちこーーーん!
強烈な一撃で、私の意識は戻った。と同時に、ゴホゴホと咳き込んで息をする。
私の様子に安心したような助産師達に――特に意識を戻してくれた彼女に礼を言って体を休める事にした。
「……眠たい」
出産は、馬車にはねられて全治八ヶ月位のダメージを体に負わせるらしい。
しかし、その瞬間から、赤子に乳を含ませたりと母親に休む暇など無かった。
無論、私には侍女やら乳母がいるからまだ良いが、これが平民ならば全て母親が世話をするのか……
無理でしょ、神様じゃないのよ。
我が子は可愛い、こんなにも愛おしいとは思わなかった。
けれど、それと体が辛いのとは別問題なのだ。
伯爵の持論により、我が子へ与えるのは母乳のみ。
乳母の乳をやる事はまかりならんと、私は出産から三時間以上続けて寝た日が無い。これが平民ならば、一時間だって続けて休む事は出来ないだろう。
よく泣く子で、それも母親でないといつまでも泣き止まず死にそうにヒッヒッと咳き込む。
その為、貴族の女性にしては通常無い事だけれど、私は殆ど乳母の手を借りずに自分で子どもの世話をしていた。
社交界で散々褒めそやされた私の艶々だった肌も髪も見る影もない、やつれて幽鬼の如くクマの浮いた顔になっている。
そんな私の姿を見ても「母親だろう? 皆やっている事なのだろうから、できるだろ?」と、当たり前のように伯爵は何もせず、以前と変わらない日々を過ごしている。
――そして、今宵もまた、夜会で楽しく過ごしたのだろうか。
子どもが産まれてからは寝室を別にしている(普通はありえないが、我が子は育てにくく体も弱い子だったので私が付きっ切りとなった)伯爵へ、何日も顔を合わせていないしと顔を見に行こうとした。
廊下へ出ようとした時、ほんの少し開けた隙間から、伯爵と侍従の話し声が聞こえてくる。
思わず、その場で聞き耳を立ててしまった。
「……また件の男爵令嬢ですか。旦那様、いい加減に外聞と言う物をもう少し気にして頂きませんと……」
「そのうち飽きるさ」
怒りで、血の気が引く感じがした。
そっと扉を閉める。
いつかの友人の言葉が思い起こされた。
――身重の時ほど、外へ目が向いてしまう。
侍従の言葉が追い打ちをかける。
――また件の男爵令嬢。
へー、ふーん、そお。
異国のチベスナなる動物のように無表情となっていくのが分かった。
私が死にかけて貴方の子を産んで、体をボロボロにしながらも育児に励んでいる間、貴方は可愛い子と楽しい事をしてたの?
ふふ、命がけで貴方の子を育む私には目もくれず、言い寄る若い子に良い顔してるのかしら?
私には、労い一つでもかけたかしら?
本当に、釣った魚に餌はいらぬと言う事かしら。
ッギャー!ホンギャァァア!
丁度、息子が目を覚まして夜中の授乳をする。
ちうちうと可愛らしく乳を吸う子を見て、いつのまにか私の口元も綻んだ。
ゲップをさせて、寝かしつける。
ふふふ、なんて可愛いのかしら。
あのバカタレの子どもだなんて信じられないわ。
一時間だけでも寝ようとベッドに横になる。
ふふふ、夫よ。
この、妊娠産後の恨みというのは、一生モノだそうでしてよ?
貴方。
や っ て し ま い ま し た わ ね。
心の中の復讐日記が、ガリガリと書き殴るように加筆されていった。
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