貴婦人は笑顔で背を向ける

ちょこっと

第1話 甘い囁きは刹那の夢

「それでは、貴方。ごきげんよう」


 そう言って、私は小振りのトランクを片手で持ち上げた。白手袋越しに伝わってくるのは結婚生活二十数年を過ぎて、それでも私が大事にしたいと思えた僅かな品々の重み。


 優雅に踵を返す私を見送るのは、マヌケな面を晒して固まる一人の男。というか夫。もうすぐ、元夫になる予定。


 その男が重厚な書斎に座り、貴族然とした佇まいだったのは数秒前までの事。

 凛々しく整った眉毛に鷲のように鋭い瞳、品良く整えられた髪や髭も、今は鳩が豆鉄砲喰らったようなマヌケ面で台無しになっている。

 いつもバリトンを響かせて偉そうに指示していた声も、半開きのその口から零れる事はなかった。


 二十年近く我慢してきたけれど、存外アッサリと捨てられるものね。


 スタスタと軽やかな足取りで、私は豪華な御屋敷を後にする。

 門の前には荷物を積まれた馬車が一台、側に控えていた侍女が私の為に扉を開く。


「ありがとう」


 実家から付いてきてくれた馴染みの侍女は、私に続いて乗り込むと、穏やかな笑みで扉を閉める。


「やっと、やっとお嬢様の苦労が報われるのですね」


 感極まった声を上げるメリィに、私はレースのハンカチを渡した。

 ぽろぽろと溢れる涙を拭きながらも、メリィは続ける。


「あの、外面だけは良い馬鹿たれ伯爵が……お嬢様をこんなに長い間苦しめて、逃げられぬよう鳥籠に閉じ込められた日々は、私めも苦しゅうございました」


 オイオイと泣き続けるメリィに、私は苦笑が漏れてしまった。


「ふふふ、メリィったら、泣き虫なのはいくつになっても変わらないわね」


 そっと、その頭を優しく撫でた。長年私を支え、ここまで寄り添ってくれた彼女は、本当の姉のようにも思えてくる。

 感謝と労わりと愛情を込めた声音を耳にして、更に激しく泣き出してしまったメリィをあやしながら、私は馬車の外へと視線を向けた。


 王都の華やかな街並みは、若い頃には刺激的で楽しくもあったが、齢四十近くにもなると、それまでよりも少し落ち着いたものを好むようになってきた。


 ――少しだけ寂しいわね、二十年近く過ごしたのだもの、どんな所であろうと去る時は寂しさを感じるものかしら。


 ゆっくりと流れていく景色を眺めながら、メリィの隣で深く座席にもたれると、私はそっと瞳を閉じた。







「フランボワーズ嬢、どうか、私を選んでほしい。

 貴女と共に生きると神に誓いたいのだ。

 叶うのならば、私の生涯をかけて貴女だけを愛しぬこう」


 薔薇の咲き誇る庭園で、若く美しくて男らしい伯爵様と私だけ。

 まだ開き始めた蕾の如き、十代の私の手を取り、口付けた夜。

 夜風が薔薇の甘く深みのある紅茶に似た香りを漂わせて、月明かりが照らす世界には私達二人だけと錯覚しそうになったあの頃。


 情熱的な眼差しで私を見つめる彼は、数人いる婚約候補の中の一人。

 婚約適齢期となった私に寄せられた縁談の中でも、周囲の評判も良い彼からのお誘いは胸が躍った。


 夜会でダンスを踊り、ホールの熱気から逃れて涼もうと、庭園へ誘われた今。

 その雰囲気と熱い視線に絆されて、私は静かに頷いたのだった。


 色よい返事に、伯爵様の熱い抱擁を受ける。


 そうして、二人はいつまでも幸せに暮らしましたとさ、めでたしめでたし。


 ――とは、ならないのが現実である。







「なんだこれは、犬の餌か。

 こんな滅茶苦茶な中身の取り合わせなど初めてだ、下げてくれ」


 そう言って、伯爵は出されたサンドイッチを皿に投げるように捨てて、席を立って出て行った。

 結婚してまだ数か月、蜜月とも言える新婚生活の筈だが、婚姻後の彼にそのような甘い気配は無い。


 彼の素っ気ない態度と言葉に、食堂に居た使用人達が気遣わしげな表情で、私とサンドイッチの皿を見比べているのが分かる。


ふぅ


 一息ついて笑顔を作ると、私は使用人達へ声をかけた。


「いいのよ、下げて頂戴」


「で、ですがっ、奥様。これは、前からお約束していて奥様が作って下さったのでは……中身の取り合わせも、奥様はちゃんと旦那様に確認して決められた筈」


「いいのよ、ありがとう。優しい子ね」


 年若い侍女に微笑むと、彼女は泣きそうな顔でしょんぼりと皿を下げていった。


ふぅ。


 再び溜息をついて、自分の皿に視線を落とす。


うん、不味そう。


 中には、サンドイッチの具材が目一杯挟まれている。

 具沢山で美味しいというサンドイッチはある。

 しかし、これは明らかに食べ合わせが良いとは思えない。


 分かっていたが、ちゃんと伯爵の好みを聞いてその通りに作ったのだ。


ぱくり


 全部は口に入らないから、少しかじる。

 っ……苦味の強い野菜も多数入っているが、余す事なくその存在感を発揮してくれる。


 少しずつのアクセントに選んで入れるのならば美味しいだろう。肉の後で口の中を爽快にしてくれる。


 しかし、これは取り合わせが滅茶苦茶だった。


「……不味い」


 すこぶる不味いが、不味い不味いと言いながら、全部食べてやった。





 そもそも、伯爵は結婚してからというもの、【釣った魚にやる餌は無い】と言わんばかりに、金は与えるが私の話を聞いたりする事はなくなった。


 だから、新婚のとある夜、寝る前に話しかけてみたのだ。


「あなた、今度薔薇園へ行きませんこと? 天気の良い日に、お茶とサンドイッチでもつまんでゆっくりするのはどうかしら」


 先にベッドに入り本を読んでいた伯爵は、寝室へ入ってきた私に目も向けず読書をしている。


「……ああ……しかし、暫く忙しいんだ」


「そうですか。では、私が朝食のサンドイッチを作ってみようかしら」


 普通ならあり得ない、伯爵家の妻が自ら料理をするなんて。


「ああ……うん……いいんじゃないか」


 明らかに聞いてないだろオマエ。

 ベッドに入り、横目で伯爵を眺める。

 顔はいいのよね、顔は。


「サンドイッチの中身は何が良いかしら? ハムや卵は定番として、クレソンやルッコラなんかも栄養があって良いと思うの」


「ああ……うむ」


「そうそう、ケールという野菜も栄養豊富なんですって。お仕事でお忙しいあなたには、栄養満点なサンドイッチを作って差し上げたいわ」


「うん……それはいいね」


「でも、何でもかんでも入れても美味しくはないわよね、どんな取り合わせにしようかしら?全部なんてないわよね」


「うん……いいんじゃないか」


「今お話ししたもの全てを入れるのかしら」


「ああ……うん……君の好きにするといい」


「そう、分かりましたわ」


 そう言って、伯爵と反対側を向いて瞳を閉じる私。

 寝入ったと思ったのか、おざなりに頭を撫でられた。




 そのような経緯を経て、あの苦味盛りだくさんなサンドイッチが出来たのである。

 伯爵には、一口かじって捨てられたが。


「ふふ……私の事を、大人しく従順な思い通りに出来る女だとでも思ったのかしら。

 愛はね、枯れるのよ。思い遣りと慈しみと愛情という水を注がなければね」


 巫山戯んじゃないわよこの野郎ですわ。


 こうして、結婚して早々に私の意趣返し計画は、幕を開けるのであった。

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