Slategray:ニアミス

 事件が起きた。

 

 俺は眠れないまま朝を迎え、始発の電車で家に着き、少しトレーニングルームで体を動かした。いい具合に汗をかき、冷たいシャワーで体を整える。


 完全にOFFった俺は無に近い。


 風呂上がり、タオルを肩からかけて窓から見える景色を眺めると、ホワイトカラーの面々が急ぎ足で出掛ける様が見える。それはまるで蟻のようだった。

 この指でつまみ上げ、払いのけることも簡単にできそうだ。実際はそんなことはできないけど。



 俺は新しい服に着替え、店に向かう。洗濯物は置いておけば家政婦さんもどきが、きちんと対応してくれるから俺はなにもしなくていい。これも京香さんの力だ。


「ホストはね、指先も綺麗でなくちゃ。」


 いつか京香さんが言っていた。だから水仕事もしなくていい。というのが彼女の勧めだ。俺はそれに甘えている。今の俺は、京香さんに生かされているんだ。


 最近不安定なスイッチをONにする。


「仕事だ」


 この日はのんびりと時間が過ぎていた。給料日前の月曜日は、客の入りが少ない。一部ののキャストは、連絡を交換した客に連絡を入れている。そうして自分のことを思い出してもらい、来店を促すのだ。


 俺は京香さんがいたから、営業努力はほとんどしてこなかった。今月の数字は期待できないだろう。俺のお気に入りのばあちゃん、梅子さんが来てくれれば別なんだが…。呼び出すのは何となく気が引ける。


 客はみな、金に余裕があるわけではないだろう。だから俺の為に呼び出すような営業の仕方は、実は俺には向いていない。甘えるのも媚をうるのも苦手なのだ。


 今日は珍しく翔さんが休みだ。今週末のキックオフのために、oceanオーシャンに行くって言ってた気がする。噂では、翔さんがこのRebootリブートをそろそろ任されるのでは? と言われているらしい。


 翔さんなら、みんながついていくだろう。もちろん俺も。


 そんなことを考えていたら、和馬がこちらに歩いてくるのが分かった。トラブルか!?


大陸アースさん。すみません。ちょっと…」

「どうした?」


 和馬が困った顔で俺のところに来て膝まずく。


うららさんと言う方が…、大陸アースさん指名で入り口にいらしているのですが、ご紹介でもないようで、どうしたものかと」

うらら…」


 あの女、本当に来やがった。俺は大きなため息をついた。和馬に追い返してもらいたい。でも、あの女は絶対諦めないだろう。面倒事が大きくなるだけだ。


 俺は腹をくくり、入り口へ向かう。


「和馬…、今日は翔さんがいないけど、回せるか?」

「今日はお客も少ないので、大丈夫です。あ、お帰りいただけるように俺から話しましょうか?」

「いや、ちょっと面倒なことになりそうだから、俺が話をつけるわ」


「例の女ですか?」


 和馬は少し困り顔だ。俺のことを心配してくれている。店に迷惑かけないように何とかしなければ。



大陸アース! 来たよ~!」

「よくわかったな」

「だって、この前のオジサンが言ってたじゃない? ねぇ、中に入れてくれない?」

「ダメだ」


 なんでよ~! とうららがふくれっ面をする。うららの声を聞きつけて、勝利かつとしが店の奥から顔をのぞかせた。


「お、君可愛い~ね。大陸アースさんをご指名? 大陸アースさん高いですよ? 俺はどうです? 俺、今日暇だし」

「えっ?」

「ダメだ」


 俺はうららを連れて出口へ向かう。そして振り向きながら勝利かつとしに釘をさした。


「こいつは、未成年だ。ちょっと送ってくるから、店頼むな」

「ちょっと~、未成年だって飲めるわよ! お酒くらい」

「俺たちが捕まる。やめてくれ」


 勝利かつとしはそんな俺たちをニヤニヤ見ながら、「了解っす」といって店の中に消えて行った。

 こっちも面倒な匂いがする。



「もう帰れ。お前が来るような場所じゃないだろ?」

「お前じゃない! うららよ!」


 分かったわかった、と俺はうららの背中を押しながら歩かせる。

 うららを送るため、さっき和馬にお願いをしたタクシーを待つ。


「何で入れてくれないの? 私はお客だよ!?」

「ここは会員制なの。紹介者が必要なんだよ」

大陸アースが紹介してくれればいいじゃない」


 うららはいたずらっぽい顔で俺を覗き込む。こうゆう場合は困った顔をするに限る。


「そうゆう訳にはいかないの」

「もう私たち、れっきとした関係者だよ。恋人同士って言ってもいいんだよ」

「はぁ?」


 俺はうららのセリフに、訳が分からなくなる。さて、何と答えるのが正解なのか…。


「恋人って、定義がわからないな」

「足触った。腕組んだ。家まで送ってくれた。どう? もう恋人でしょ?」


「もう帰って寝ろ。俺の事は忘れてくれ」


 いいタイミングで店の前に到着したタクシーにうららを乗せる。そして運転手に万札を渡して住所を告げた。この前送り届けた時に場所を覚えてしまった自分が憎らしい。


「ちょっと大陸アースってば!」


 タクシーは大声でわめくうららを乗せ、走り去っていった。このまま大人しく、キレイさっぱり俺のことを忘れてくれればいいのだが。


 助かった…。俺がそう思った矢先、黒塗りのベンツがうららを乗せたタクシーと入れ違いに店の前に現れた。


「京香さん…?」


 あれは京香さんの車だ。


 プシューっという音とともにドアが開き、翔さんが降りてきた。開いたドアのルーフを手でおさえているようだ。

 続いてあの男が降りてきた。ギラギラした感じに夜だと言うのにグラサンをかけていて、ここからでも重圧を感じるキザ野郎だった。


 JINジンだ。俺は咄嗟に身を隠す。


 そして翔さんとキザ野郎が店の中に入って行った後、助手席からゆっくりと彼女が現れた。


 何かの撮影か、結婚式に参列でもしていたのだろうか? 着物を身にまとった彼女は、店のライトを浴びて儚くも美しく輝いていた。


 俺は全身に電気が走ったような痺れを感じた。


 いや実際痺れていた訳じゃない。俺は彼女を呼び止めることもできず、彼女があの男の後について店に入るのを黙って眺めていた。


 なぜ? Rebootここへ? 俺は慌てて店に戻る。


 京香さんがうららの姿を目にしていないことを祈って。

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