例のツイート、そこまで燃えてたとは存じませんでしたが、そこからこのような興味深い評論を聞くことができたのは面白いです。機械と人の境界は自分もよく考えていますが、未来においてはそうした境界ら実質なくなって、ただ課せられたタスクに特化した何者かになるのかもしれない。無限の未来の可能性を考えるのは楽しいものですね。
作者からの返信
言われたことだけをしたい。
機械になりたいというのも人の願望ですね。
創造的なことよりも、ただ仕事をしたい。私の身の回りにはそういう人もいました。
私はたまに思い返す小説の場面があるのですが
映画の「ストーカー」の原作となった脚本「願望器」のラストで主人公の一人が何でも願いを叶えるという金色の玉の前で
「幸せを分けてやる。それも、無料でだ!!」
「誰も不幸なままでかえしゃしないぞ!」
この後、何が起きたのかは描かれません。
誰もが幸せなら、それを誰かの視点で描くことは出来ない。
きっと、そういうことなのでしょう。
大変興味深く読ませていただきました。
ぽんこつな私は直ぐに答えを書くことは出来ませんが、良い頭の体操になりそうです。思考実験は楽しいですね。ただ、昨今の技術発展のペースを考えるに実験の結果が得られる前に完全に沼に嵌ってしまう、そんな予感が……そういった未来を見てみたいと思うのは怖いもの見たさというやつでしょうか?
作者からの返信
ですねぇ…技術発展のペースといえば、これらの考えは「加速主義」の枠内に入るかも知れません。
「加速主義」はポスト資本主義の文脈から発生しましたが、私は加速主義をそういった狭い枠内で見ることに批判的なスタンスをとっています。
加速主義は資本主義の矛盾や危機を深化させることで、その崩壊を早めるというものです。ですがこれは、必ずしもポスト資本主義の実現につながるとは限しません。
影響が産業のみならず、人や文化にも渡るからです。
加速主義は、技術進歩やイノベーションに対して楽観的な姿勢をとりますが、私はこれに疑念を覚えています。
楽観論は、技術の社会的・政治的・倫理的な影響や問題を無視することにもつながるからです。(悪いと理解しているからやっていいというわけでもないですが)
現代に存在する技術は、決して中立的なものではなく、資本主義の論理や権力やそれらの力関係によっても形成されています。仮に今のままで、加速主義を推し進めればどうなるか?
そうした後、人は一体何を問われることになるのか。
うーむ。