第10話 前編08 熊谷次郎直実②

「その笛は、「青葉の笛」であろう」




 源氏方総大将。源義経はそういった。




 熊谷直実くまがいなおざねは、合戦後の夜、義経の本陣で、先刻のあらましを報告した。


 そして現場に残された、兜と笛の入った白い絹袋を義経に見せたのだ。




 義経は笛に施された装飾を触りながらこう続けた。




「都にいた時誰ぞに聞いた。清盛入道の父忠盛ただもりが、鳥羽上皇から賜ったという名笛である。」




「そのような笛でございましたか。」




「今の持ち主は経盛つねもりの息子、平敦盛。都でも評判の笛の名手で、おなごのような美しい顔立ちだそうじゃ。」




 直実は思わずドキリとした。敦盛が女性であるかもしれないことは、報告していない。なぜか、言ってはならないことのように、直実は感じたからだ。




(それにしても義経公は、情報収集の達人と聞いたが、ようもそんな些事までご存じだ。)




「平家方より昨晩、美しい笛の調べが聞こえてきたと報告されています。おそらくは敦盛公によるものかと」




「笛の腕を惜しんで神隠しにでもあったのであろうか。面妖なことじゃが戦場ではまれに変異があるもの」




 土肥実平どいさねひら、梶原景時かじわらかげときらがうなずきあう。




「いずれにしろ熊谷殿の功績として記録する。苦労であった。下がってよい。」




 直実は、組み敷いた武者がおなごであったかもしれないことは黙っていた。見間違いだったかもしれない。




 だが、直実は、もう一度あの美しい公達きんだち、平敦盛公に会ってみたいと思った。




 そして、なぜそう思うのか彼自身もわからないが、彼女は生きていて、また会うことになるだろうとも思った。








 一月が過ぎた。




「ほとほと嫌になった」




 熊谷次郎直実くまがいじろうなおざねは、息子の小次郎直家こじろうなおいえに、今日何度目かの愚痴をとばした。




 一の谷の戦いの後、源氏軍は次に攻撃する大目標を、四国屋島にある平家の拠点に決めた。




 範頼軍は鎌倉に、直実が所属する義経軍は京へ移動し態勢を整えることになった。


 源頼朝は、平家の追討を朝廷に願い出るのと同時に、捕虜となった平重衡たいらのしげひら(平清盛の五男)と三種の神器を交換するよう平家と交渉した。




 平家の総帥平宗盛たいらのむねもりはこれを拒否した。


 平家内部では、この交渉を機会に、頼朝と休戦し、体制を整える時間を稼ぐべきだとの意見もあった。




 しかし、宗盛は「もし鎌倉の頼朝がわれらを許しても、京の義経はわれらを許すまい。」と言った。




 交渉が決裂し、鎌倉へ護送されることになった平重衡は、出家を願い出たがそれを朝廷は許さなかった。


 それならばせめてと、黒谷の法然坊という僧と話をしてみたいと願い出て、それは許された。




 直実は平重衡の移送役の一人に選ばれたのである。


 本来直実は、戦場でこそその本領を発揮する武士だ。




 一の谷の戦いのあと、すっかり厭世的になり、あてがわれた屋敷から出なくなっていた。


 長男の小次郎直家は、父の不調の原因は、敦盛公を討ったことことだろうと推測した。




 最近の父は、拝領した「青葉の笛」を袋から取り出し眺めては、ため息をついていた。


 平家との戦は終わったわけではないし、現在も小競り合いは続いている。




 武蔵にある本領熊谷郷での、大伯父久下直光くげなおみつとの境界争いも解決しておらず、しっかりしてほしいのだが。




「父上、それでは重衡卿の移送の役目も断りますか?代わりに私がお受けしてもかまいませんが」




 直実は、少し考えたあと小次郎に向き直り言った。




「いや、そうもいくまい。法然坊とやら、私も話をしてみたい」




 前日より雨がしとしとと降り続けている。梅雨の長雨のなか囚人平重衡を移送する任務は、40半ばを過ぎた直実には骨が折れるものであった。




「私は人を殺め、寺を焼き、多くの罪を犯しました。しかし、それは天下静謐てんかせいひつのため行ったこと。後悔はありません。しかし、出家を許されず、地獄に落ち責め苦を受けることを考えるとその覚悟が揺らくのです」




 平重衡は、黒谷の法然坊にそう語ると、両手で顔を覆い、うなだれた。




 二人の後ろに控え聞いていた直実は、あの敦盛のことを思い出していた。




(初陣以来、戦いの中、敵の命を取るのをためらったのは初めてだ。あの時なぜためらってしまったのか。自分の行為に罪を感じたのか?)




(おなごとわかってあわれと思ったか。いやそれだけではない。おなごに劣情を感じたか?いやそれでもない……わからぬ。)




 あの事件は直実の心の中に、抜けない棘のように刺さったままである。




 法然は重衡にゆっくりと語った。




「重衡様、阿弥陀如来あみだにょらいは、すべての衆生しゅじょうをもれなくお救いになります」




「罪深き私でもですか?」




「はい。南無阿弥陀仏なむあみだぶつと一心に唱えれば、臨終の間際に西方浄土〈せいほうじょうど)から仏様が迎えてくださり、極楽往生間違いありません」




 重衡は法然の顔を見上げ、涙を浮かべた。








「法然上人様、本日はご苦労にござった」




 重衡と法然の対面は、一刻ほどで終わり、移送役の熊谷直実は法然に挨拶をした。




 直実はあたりを見まわし、誰もいないことを確かめた。


 幸い家人どもは帰り支度をしている。




「上人様」




「いかがされました、直実様」




「私は、何のために戦っているかわからなくなってしまった。私は先のいくさで、若い武将を倒しながら、その首を取るのに躊躇した。この若い命をとったとて、何になるのだろうと」




「……」




「しかもその相手はなんと男装したおなごであった。しかも不可思議なことに、目の前から消えていなくなってしまった。これは、私に、もう人を殺めるのはやめろという、仏のお導きなのであろうか?」




 法然は一瞬驚いだ表情を見せたが、すぐにいつもの温和な顔に戻った。




「直家様。私にはその怪異のことはわかりませんが、仏様のお導きということはないと思います。武士としてのお務めも大層な苦労があるでしょう。ましてや人を殺めるのは大きな罪障です」




「……」




「直家様が可能ならば武士をやめるのもよいかと思います。しかし、今武士をやめるわけにいかないのなら、己の責務を全うし、すべてを阿弥陀如来様にお任せするのです」




「……」




「阿弥陀様はすべての衆生をあまねくお救いになります。ですから、今生きているこの時、おのれの信じる事やるべき事を、迷わずだだ行うことが、御仏の心に適うことかと存じます。直実様も重衡様も、そして私も」






 京へ帰る道中、直実は、法然と別れた後もその言葉が頭を離れなかった。




「おのれの信じる事を、迷わずか」




 信じる事やるべき事とは……。




 なぜか、彼の頭に、あの時の平敦盛の顔と、【何か】に乗っていた若い男の顔が浮かんだ。




「父上、そろそろ鎌倉に到着します」




 小次郎が声をかける。




 雨はいつの間にかやみ、日差しがさしていた。


 直実は手綱たづなを強く握り馬を走らせた。




 懐の「青葉の笛」が少し揺れたように思えた。

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