第8話 前編06 信太朗④

その後の医者の診察では、脳に異常はなく、いわゆる突発的な記憶喪失というやつらしい。


 数週間入院させて様子をみましょう、とのことだ。


 


 この病院は、姉ちゃんの大学や蛭尾教授とも関連している病院なので、なにかと融通をきかせてくれるらしい。


 保険証のない敦盛を入院させるには都合がよかった。




「何かのきっかけで記憶を取り戻すでしょう」




 と医者は気軽に言い、病室を出ていった。






 僕と姉ちゃんと蛭尾教授は、今までのあらましを、彼女に簡単に説明した。




「それでは私は本当に生きていて、名前はたいらのあつもり。そして今は私がいた世界ではなく後の世での世界……」




 彼女は目を見開き茫然として、やがて眼を閉じた。


 しばらくの間、だれも口を開かなかった。




 無理もない、記憶のない状態でこんなことを聞かされて、すぐに理解できるわけがない。




 やがて彼女はゆっくりと上半身を起こし、病院服の襟を整えると僕の目を見た。そして柔らかな口調でこう言った。




「あなた様方は、私の命の恩人です。改めてお礼を申しあげたく思います」




 僕はたじろいだ。




「命の恩人って別にそんなんじゃ」




「助けてくださらなかったら今頃死んでいました。貴方は命の恩人です。御恩は一生忘れません」




「一生って……」




「何か恩返しが……。そうだ!私の笛を!」




「笛?笛って確か……」




「これだろ、お嬢さんの小枝の笛。」




 蛭尾が敦盛に横笛の入った赤い絹袋を渡す。




「ああ!そうです。小枝さえだの笛です。ありがとうございます」




 なぜが笛のことだけは覚えているらしい。


 彼女は、目覚めて初めて笑顔を見せた。


 可愛い……。




 彼女は、点滴の管を気にしながら、笛を唇にあてる。


 小さく息を吸うと、桜色の小さく少し厚めの唇から、小枝の笛に息吹を注ぎ込む。






 一瞬の静寂。






 病室内に清らかな笛の調べが充ちはじめた。


 笛の音は、もの悲しく、どこまでも澄んで、僕の心を打った。




 僕の目から自然に涙が流れ落ちていた。


 大学受験に失敗して以来、ずっと我慢していた。どうやら僕は、ずっと泣きたかったようだ。




 横を見ると、姉ちゃんも泣いてる。


 姉の涙を見るのは、両親の葬式以来だった。




 蛭尾教授を見上げると、彼は目をつむり、わずかに微笑んでいた。






 どのくらい時が流れただろう。彼女は唇から笛を離し、僕たちを見て少し、はにかんだ。




「いかがでしたか?こんなことくらいしかできずに、お恥ずかしいのですが……」




 胸が一杯になって何も言えなかった。


 かわりに姉ちゃんが興奮した声で言った。




「いや凄いよ敦盛ちゃん!いや敦ちゃん!凄い、あんたは本物だ!」




「ほめすぎですよお姉さま。お恥ずかしいです」




「お姉さま!?……ねえ敦ちゃん、お願い、もう一回言って、ねえ」




「え?……はい、お姉さま」




 姉ちゃんは顔を真っ赤にして悶絶している。


 こんな姉ちゃんに見たことない。




「私の名前は弘子。よろしくね敦ちゃん!」




  姉ちゃんはなぜかもう一度自己紹介する。




「ありがとうございます、弘子お姉さま……それとえっと……」




 彼女は僕を見つめる。笛を吹き終わったからだろうか、顔が上気しているように見える。




「ぼ……お、俺の名前は信太朗……です。」




「ありがとうございます。信太朗様。私の命の恩人……」




 その時、看護婦さんが、血相変えて飛んできた。




「病院内で何を騒いでいるんですか!」




 僕たちは、看護婦さんにひたすら謝った。




 しかし、演奏が終わってから部屋に入ってきたところを見ると、看護婦さんも感動して聞き入ってたんじゃないかと推理する。


 その証拠に彼女の頬に涙の跡があるような。




 彼女は小枝の笛をゆっくり赤い絹袋にしまう。




「不思議ですね。自分がどこの誰かは覚えてないのですが、私の笛たちのことだけは覚えています……」




 言いながら彼女は何かに気付き、顔色を変えた。




「青葉の笛……あの、笛はもう一本、ありませんでしたか?」




 なぜか彼女は笛の事は覚えているようだ。




「君が着ていた装束の中には無いようだが……信太朗君、知らないか?」




「僕が車の中に落ちてるのを見つけたのは、その一本だけだです」




「そんな……大切な笛が……」




 彼女の悲しげな声。


 僕はどうにもたまらなくなり気がついたら大声で叫んでいた。




「その青葉の笛、俺が見つけ出してやるよ!」




「……」




「元の世界にも絶対戻してやる。記憶も取り戻してやる!」




「……」




「俺が連れて来ちゃったんだ。君のことは俺が責任を持つ!」




「……」




「大丈夫、絶対に見つかるよ!俺は敦ちゃんの味方だよ!」




 呆然としている彼女の顔を見つめ、僕は叫び終わった。


 次の瞬間、青ざめた。




 おいおい、気安く敦ちゃんなんて言っちゃったよ。姉ちゃんにつられちゃったんだ。


 絶対気持ち悪く思われたよ……。




 彼女は目をパチクリしている。




 だいたい、僕に何ができるんだ。タイムマシンを動かせるようにするのは蛭尾教授や姉ちゃんだし、記憶喪失を治すのは医者だ。




 でも、あの時の僕は、何かを変えたいと願いを込めてあのボタンを押したんだ。


 だから……。




 少女は僕から目線を外し、うつむいてしまった。




 やはり、引かれてしまったか……。




 数秒後、彼女はゆっくり顔をあげると、その燃えるような緋色の眼で僕を見つめた。




「信太朗様……ありがとうございます。よろしくおねがいします」




 僕は、彼女の笑顔を見て心臓がギュッとなった。


 自分の運命が大きく変わった事を確信した。


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