第2話 プロローグ2 熊谷次郎直実①
「哀れなものだ……」
熊谷次郎直実くまがいじろうなおざねはそうひとりつぶやいた。
海辺には船が多くつながれていた。敗れた平家の兵たちが、我先に船にと乗り込もうと殺到している。
船に乗せられる人数が決まっているのか、無理やり乗ろうとする者を、船上の武士が切り払っている。
ほんの数年前まで、平家一門はこの世の春を謳歌おうかしていた。
平清盛たいらのきよもりは武士として初めて人臣の最高位である太政大臣だじょうだいじんにまで登りつめた。
一門は残らず殿上人でんじょうびととなった。
清盛の義弟である平時忠たいらのときただは、「平家にあらずんば人にあらず」と言い放ったという。
しかし、治承じしょう5年(1181年)閏うるう2月4日、平清盛が病死すると、平家一門は一気に衰退する。
その後継者たちは各地の反乱を収めきれず、安徳天皇あんとくてんのうや三種の神器を連れて京を捨て、西国へ逃げた。
そして、元暦元年(1184年)2月、源範頼みなもとののりより・義経軍は、福原(今の神戸市)に陣を構える平家軍を攻撃した。
熊谷直実も源氏方に味方した坂東武士の一人である。
彼は、源義経軍に属し、後に「鵯越ひよどりごえ」と呼ばれる奇襲にも参加した。
虚を突かれた平家軍は潰走した。それが目の前の惨状である。
清盛死後わずか3年後のことであった。
「哀れなものだ……」
もう一度直実はつぶやいたのは、目の前の平家の惨状のこともあるが、世の移り変わりの凄まじさに背中が寒くなったからである。
今は自分たち源氏方が優勢だが、これからどうなるのか誰もわからない。
このまま源頼朝公が天下を収めたとしても、いつまでそれが続くか。
そして直実自身も。
(諸行無常)
そんな言葉が直実の頭をよぎる。
直実は首を振る。
(哀れではあるが、感慨にふけるのは後だ。今は逃げていく平家の将を討って、手柄をあげねば)
気を取り直した直実は海岸のほうへ馬を進めた。
すると、豪華な装束を着て馬にまたがった武者が一人、海に逃げていくのが見えた。
直実は、その武者に向かって、言い放つ。
「そこにいるのは、平家の大将軍とお見受けいたす。敵に後ろを見せるとは卑怯なり、引き返せ」
直実は、持っていた扇をひらいて武者をまねいた。
武者は聞こえたらしく、馬をかえし、引き返してきた。
小柄な武者だ。兜で顔はよく見えないが、自分の息子と同じくらいの若武者に見える。
「哀れとは思わぬ。戦場のならい、参る」
直実は若武者のほうへ馬を寄せた。
若武者が抜刀し、直実に切りかかる。
(ほう……)
若武者の剣の技量は思った以上で、直実でなければ、よけきれなかったかもしれない。
しかし、直実は保元の乱以来の歴戦の勇士。元服してから間のないであろう若武者のかなう相手ではなかった。
直実は若武者の刀を叩き落とし、そのまま力ずくで馬から落とした。
若武者は必死に抵抗したが、直実は組み敷いで離さない。
しばらく組み合ううち、若武者は抵抗する体力がなくなったのか次第にぐったりとする。
そこで、直実は首をかきおとそうと、小刀を手にもち、若武者の兜を剥ぎ取った。
直実はその時初めて武者の顔をはっきりと見た。
(美しい……)
気品があふれ、凛とした美しさだ。
なにより目を引くその瞳は燃えるような緋色だった。
直実は、美しい顔に刀をどう差していいかわからず、躊躇ちゅうちょした。
直実は若武者の首の下に目を移す。
若武者は兜はかぶっていたが鎧はつけていなかった。
直垂ひだたれの襟が、格闘の末か、乱れている。
若武者の胸元をみて、歴戦の勇士である直実はたじろいだ。
その胸は不自然に膨らんでいた。男子のそれではない。
襟元からわずかに胸の谷間が見えた。
直実は、思わず若武者から体を離した。
若武者は息も絶え絶えで、起き上がる気力もないようだ。
直実は尋ねる。
「いったいあなたはどういうお方ですか?お名乗りください、命だけはお助けしましょう」
若武者はささやくような小声で答える。
「……そなたこそ誰であるか。先に名を名乗りなさい」
こんな時にも武士の誇りを忘れない態度に、直実は感心した。
「失礼しました。大した者ではございませんが、武蔵むさしの国の住人で、熊谷次郎直実と申します。それより貴方様はもしやおなごでは……」
その時だった。
直実と若武者の周りが急に青白い光に包まれた。
あまりのまぶしさに直実は目を開けていられなくなる。
目を開けた時、目の前に【何か】が現れた。
(なんだ……これは……)
その【何か】は無理に例えるのであれば、京の都で見た牛車に似ている。
だが、牛車にしては大きすぎ、また、牛をつなぐ軛くびきがなく、小さな4つの車輪がついていた。
牛車ではないが、乗り物ではあるようで、中に、一人の男が乗っているのが見えた。
中から男が飛び出してきて、直実に体当たりをしてきた。
全く力のない体当たりだったが、身体がわずかに揺れた。
男は若武者を抱き上げ【何か】に戻っていった。
直実は起き上がると【何か】に近づき覗き込んだ。
見たこともない妙な衣を着た、どことなく愛嬌のある顔をした若い男だ。
若い男は、直実と目が合うと引きつった笑顔をみせた。
刹那、周りを今度は黄色い光が包んだ。
また、目を開けていられなくなる。
やがて光がおさまると、【何か】も若い男も、すっかり消えてしまっていた。
驚いたことに、倒れていた若武者も、いなくなっていた。
呆然としていると、味方の源氏方の武士、土肥実平どいさねひら、梶原景時かじわらかげときらが駆けつけてきた。
「熊谷殿、いかがなされた?」
「おぬし、平家方の武者を組み伏せていたようだが、どこへ逃げた?あやつの馬と兜は残ってるが……まことに面妖な」
口々に質問されるが、直実にもわけがわからない。
信じがたいことだが、あのまばゆい光も、あの【何か】と若い男も、土肥や梶原らには見えなかったらしい。
ふと、消えた若武者が乗っていた馬の足元に、白く細長い絹袋が落ちているのが見えた。
直実は絹袋を拾い紐を解く。中から、見事な装飾を施された、一本の横笛が出てきた。
「笛……」
直実は、昨晩平家方の陣から、笛の音が聞こえていたのを思いだした。
戦場にふさわしからぬ美しい調べに、思わずうっとりとしたものだが……。
「それは、笛でござるか?わが源氏方の兵に、まさか戦場に笛を持ってくる者はいまい。平家の公達とは、優雅なものでござるな」
土肥実平が皮肉っぽく言った。
「さて、熊谷殿、すでに敵は潰走した。只今の件は、戻って御大将に報告するとよい」
梶原景時は直実にそう告げた。
二人が去った後、直実は笛の入っていた絹袋をぎゅっと握った。
(あの若武者、いやあのおなごの命を取ることにならないで良かった。)
そうつぶやくと、直実は大事そうに笛を絹袋にしまい懐に入れた。
やがて、遅れていた直実の郎党も駆けつけてきた。
直実は、若武者の残した兜を馬に繋ぎ、本陣へ戻っていった。
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