第35話:変わってしまった教室
「ネズミ人間……いや、ネズミ怪人って言った方がいいか。遅かったな」
ネズミ。そう呼ばれた瞬間、クラスに凄まじい緊張が走ったのを依緒は感じた。
みんなの視線が集中する。コイツ今から殺されるのか? みたいな目で見られている。
依緒はたまらず土下座していた。
「ごめんなさい、良くん! 今まで本当にごめんなさい!!」
……なんだ。
なんだ、あの、蒼白い髪の毛は。蒼白い眉毛は。
あれは、まるで、この街に伝わる御伽噺の……
――狼は若い衆を残らず踏み潰した。庄屋も、その娘も八つ裂きにした――
――村は血の海になったが、人でなしはいなくなったとさ――
――めでたしめでたし――
……昔、テレビで見た、同じ題名の昔話は、そんな
「随分と前歯が短くなったもんだな? ネズミ怪人」
良太が何か言う
穏やかで優しい声が、楽しそうに笑う声が、泣きたくなるほど懐かしい。
「それで? まさか、信用を失くした奴が軽い頭を下げただけで、何かがどうにかなると思ってるわけじゃねーよな? 土下座ってのが無防備な頭を相手に差し出す行為だって分かってやってんのか?」
ひぃっ、と息を飲んだのは、依緒ではない。
おじいちゃん、と佐藤院が呟く。
何があったか細かいことは分からないが、良太はオジイチャンとかアルジェとかの頭をどうにかして、教室の支配者だった連中に強烈なトラウマを刻み込んだのだろう。
はは、それ見たことか、と依緒は思う。少しだけ元気が出た。その機を逃さず、依緒は止まりかけた心臓を動かし、凍りかけた唇を開く。
「分かってる! 分かってるよ。それでも、まずは謝らないと、信用を取り戻すための最初の1歩も踏み出せないと思うから…… 何でもするよ。どうやって償えばいいか分からないけど、本当に、本当に反省してるから。例え許して貰えなくても、良くんに何をされても文句は言わないし、良くんの言うことは、何でもやります」
「そうか、ならまずは……
「……はいっ!」
名前を呼ばれて、眼鏡を掛けた少年が大きな声で返事をする。ビシッと椅子を引いて立ち上がった。まるで何かの式典のような
「宍野さん。僕は、日辻川くんに対する犯罪行為やハラスメントを強要され、多大な苦痛を味わいました」
え?
何言ってんの、こいつ?
あんたも一緒になって、良くんの椅子にウンコの絵かいてたじゃん。良くんの鞄に給食のカレーかけてたじゃん。
どうやって良くんに取り入った? このわたしを差し置いて!
「謝罪してもらえるかな? 慰謝料を出せとか、同じ目に合えとかは、僕は言わない。誠意を見せてくれれば、それでいい」
「フザッけんじゃないわよッ!」
思わず立ち上がった依緒の前に、良太が立っていた。
良太に睨まれた…… いや、
そりゃ、逃げるだろうよ。熊も猪も。
なんでわたしは、こんなのを怒らせるような真似をした?
飼っていた猛獣に殺された人々のニュースが、何故だか依緒の脳裏を
「宍野くん、脅えなくていい。僕らも通った道だ。日辻川さんは無闇に体罰を与えたりはしない。この期に及んでまだ悪意が在るなら話は別だが、君もそこまで愚劣では無いだろう?」
佐藤院絢梧がそう言った。誰だお前。気持ち悪い。人格を修正されたのか。
「……ごめんなさい」
依緒は山本堂に向かって居住まいを正し、丁寧に頭を下げた。
「それだけ?」
カースト2軍風情が、調子に乗って!
……まだそんなことを思ってしまう自分に、我ながら呆れた。
「……本当に、ごめんなさい。何でもします」
「……日辻川くんを虐めさせられることは、僕にとって、本当に、本当に苦痛だった。日辻川くんから報復を受けた時の、僕の気持ちが分かるかい? お前にそんなことを言う資格は無いと、君は笑うかな?」
ああ、そう言うことか。わたしらを攻撃して、良くんの手先になったことをアピールしたいか。全部わたしらのせいにしたいか。
まぁ、仕方ないよね。わたしだって、
良くんが何も言わないってことは…… アンタら
「……笑わないよ。わたしにそんな資格は無い。本当に、本当に、ごめんなさい。どんな報復をされたのかは知らないけど、その分まで気が済むようにしてくれていいよ」
「君に、誠意があるかどうかは分からないけど、少なくとも最低限の知性と品性が残っていることは、理解した。僕はもう、これで十分だよ。君に
そう言って、
茶番が終わったことに、依緒はひとまず胸を撫で下ろし……
「んじゃ次、
「はいっ」
依緒の顔が引き
「一件一件、一人一人に謝らせて回るからな。色々まとめてなんかごめん、とかが通用すると思うな?」
――自然保護官は、自然が好き動物が好きってだけじゃ務まらないからね――
――自然に人間の都合を押し付ける時に、せめてきちんと勉強した専門家たちの知識と調査を反映させようって仕事だから――
昔、良太が言っていた、子供らしくない意見…… いや、
「宍野さん? あたしも
良くん、だぁ!?
フザっけんな!! 何でアンタが、そんな呼び方をっ………………!!
……良太が自分を見た時の目を思い出した依緒は、逆上するどころか頭を上げることもできなかった。
「あたしは、山本堂くんと違って、慰謝料さえ貰えればいいかな。謝られたってしょーがないし。本気で悪いと思ってんのか、その場凌ぎで心にも無いこと言ってるだけか、あたしには分かんないもん」
これから何度も、何度も何度も依緒は否定され、自尊心を徹底的に磨り潰され、麗花のように疲れた目をして、満里奈のように背中を丸めているだけの人間にされるのだろう。
依緒は声を噛み殺して泣いた。
左目から涙が流れる。義眼で涙腺が塞がれた右目に痛みを感じた。
反射的に触れると、溜まった涙が溢れ出す。義眼がズレて、伊藤がうわっ!? と声を上げた。
「あっ…… い、今のは、ごめん」
「……うぅん。気に、しないで」
そこで予鈴が鳴り、担任の
******
まだ半分しか席が埋まっていない異様な教室で、担任は当たり前のようにホームルームを始めた。
いないクラスメイト達は、どこへ行ったのか。
考えても考えても、破滅的な想像図しか浮かんでこない。
これでいいの?
こんなのが、良くんの望んだ教室の姿なの?
依緒は良太を盗み見る。
良太は穏やかな微笑みを浮かべて一限目の教科書の準備をしていた。
……ああ、鞄が随分と小さい物に変わっている。
そりゃそうだ。良くんにとっちゃ、前の教室なんかよりよっぽどマシだよ。
こうさせたのは、私達だ……わたしなんだ。
依緒はただ、覚めない悪夢の中を
伊藤と加藤が、良太と釣りの話で盛り上がっていたのが、妙に印象に残った。
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