円環の空・循環の海・破滅のオルドビス

葛鷲つるぎ

第一章 笑う人

第1話 鉄屑の荒野

 声がする。


 雑音混じりのそれは、徐々に、徐々にと明瞭になっていき、頭に鳴り響く。



 ――笑うな、と。



***



 辺り一面、荒涼とした大地が広がっていた。


 かつては普遍的な街並みだったそこは、人の住めるところではなくなり、今や見るも無残に瓦礫の山を築き上げている。打ち捨てられ、数年の年月が経っている。


 そのような場所に、少年ハトバは居た。


 いつからか。草木がいたるところで弱弱しく芽吹いては、灼熱に萎れ、小春日和にわずかな生き残りが最後の生命力を振り絞り、冷たく音のない白い世界に埋もれ、また芽吹く。そんな季節の移り変わりを六度ほど。


 住む家など当然なく、ハトバは晴れの日も雨の日も、軒下もなく過ごしていた。しかし肌は薄汚れているものの、ハトバの肌色はその国にありふれたもので、ほとんど野外で過ごしていることを鑑みると、まったく日焼けしておらず色白と言って差し支えなかった。衣服は身体が大きくなったり破けたりする度に、そこら辺で拾っていた。


 あちこち跳ね上がった黒髪は、傷みを知らず、首元で癖っ毛となり鎖骨辺りまでかかっている。そのような出で立ちなので、衣服のぼろさを除いて、何も知らない者がハトバと出会えば目の印象に怯んでしまうだろう。


 なにせハトバという少年ときたら、目の下にどす黒い隈が双眸を縁どり、灰青色の瞳がひどく落ちくぼんで見えるのだ。何の感慨も映さない目つきで、平坦に世界を見ている。


 事実、ハトバの心は、荒れ果てた大地に感情を抱いたことはなかった。


 人類が有史以前より戦ってきた怪物のせいで命脈が弱っているこの場所では、動植物の繁殖は望めない。住民が残した食料も、歩いて行ける距離ではとっくに底が尽きている。


 ハトバ一人だけの、無音に近い孤独な世界であった。


 何故そのような憂き目に遭っているのかといえば、少年の側で唯一存在する、ちょうどいま頭上で浮かぶ黒い球体のせいだった。


 その黒い球体は、ハトバの中から生じていた。人の感情を吸い取る代わりに、黒球の持ち主の生命を守っている。ハトバは記憶喪失ゆえに様々なことが分からなかったが、本能でそのことを知っていた。


 このためハトバはこの六年間、己が何故ここに居るのかも分からずに、ただ人里に近づいてはいけないという危機感に従って、この壊れた土地に居座っている。


 ハトバのように、黒球を生み出す者を[黒持ち]と言うが、人類の歴史はこの存在を嫌悪しており、その事実が深層心理に残っていたからだ。しかし記憶消失の少年ハトバは、黒持ちゆえに迫害されることを無自覚に理解しながらも、黒持ちゆえに悲嘆にくれることはなかった。


 ただ坦々と、人里へ向かおうとする敵を倒す日々を送っている。誰かに見られることもなく、賞賛されることがなくても。


 それがハトバの日常で、普通のことだった。


 怪物を倒さなければならない。という生物が持つ危機感のままに。


 よしんば誰か人が居たとて、嫌われ者の黒持ちである。世間が認めるものではなかった。いずれにせよ、鉄くずだらけの廃墟と化したこの場所で、米粒ようにひっそりと、子供が一人居残っているとは思うまい。ましてや、人が居るはずのない場所から人を見つけだそうなど、誰が考えるだろうか。


 驚くべきことに、あるのだった。そんなことが。


 敵が現れない間はいつも通り、ぼんやりとしていたハトバは、ふと奇妙な気配を覚えて顔を上げた。敵の出現なら、もっと違う気配だが、それでも新手の敵かもしれないと気を引き締める。すると頭上の光帯に遠く白い雲が浮かぶ程度の真っ青な空が、瞬く間に膜に薄っすらと遮られた。


「…………」


 ハトバは目を眇めた。膜は地平線すら覆った。恐らくは、辺り一帯が膜に覆われている。閉じ込められたのだ。


 そう考えているうちに、急速に近づいてくる気配が一つ。膜を張った存在か。敵か。気配は小さく、その程度の敵であるならば、こんな速度になるはずもないが。警戒するに越したことはなく、手の甲を上に右手を横に伸ばし、黒球を手中に置いた。


 気配は、音もなくハトバの目の前に現れた。


「こんにちは。少年」


 分かっていたはずなのに、いきなり現れたような錯覚。ハトバはわずかに目を見開いた。心に生じた驚きは、すぐに黒球に吸われて無感動へ。しかし、驚いた事実は記憶にきちんと残っていた。六年前から、となるが、心身の状態は欠損なく連続している。


「久し振りだね。元気そうで何よりだ」


 現れた気配の、ニパッと崩れる相好。


「…………?」


 ハトバは、わけも分からず怪訝に目をすがめた。


 紫がかった銀の長髪に、薄紫色の瞳。腰には刀。袴と軍服を掛け合わせたような衣服で身を包んだ長身の男が、ハトバを見て微笑んでいる。冷たいのか、柔和なのか、話しかけ方一つで眼差しや表情の雰囲気は変わった。


 少なくとも、ハトバの記憶にはない存在である。そもそもハトバは、割れた姿見で見かけた自分自身の姿以外、人間を見た記憶がない。


 目の前に現れた男が、記憶にある限り、初めて見る他人となる。


「……誰だ」


 ハトバがそう訊ねると、相手は軽く目を瞠った。


「覚えていないのか」


 その男は、ほんのわずかに悲しさをにじませ、苦笑する。


「いや、私が言えたことではないな。申し遅れた。私はペルセウス機関アシトヨ圏支部第二大隊長のシキョウだ。今日は君の勧誘に来たんだが、あの時は君の名前を聞く機会がなくてね、すまないが、君の名前を教えてもらってもいいかな」


 手を胸にあて、自らをシキョウと名乗った男は、軽く頭を下げた。そうして上目遣いに、ハトバと目を合わせる。


 子供は、一瞬、自分の名前を思い出しかねた。さっきまで、覚えていたような気がするのだが。なんであったか。なにせ子供は記憶喪失の上、長らく名乗る機会がなければ、あえて認識することもなかったのだ。


 しかしながら名前というものは、黒持ちが唯一保持する自我、自己認識に最も根深いものである。お陰で少年は、すぐに自分の名前を思い出した。


「ハトバ。僕の名前は、ハトバ」


「――ハトバ」


 シキョウは、噛み締めるように復唱した。


「ようやく君の名前を知られて嬉しいよ、ハトバ。今後ともよろしく頼む」


 また不思議なことを言われて、ハトバは眉をひそめた。


「……? 僕はお前と一緒に行かない。勧誘? には乗らない」


 そう言うと、シキョウは首を軽く左右に振った。


「申し訳ない。勧誘とは言ったが、これは強制でね。この度、我が圏では私人によるアルゴル討伐が禁止された。君を見過ごすことは出来ないんだ」


 アルゴルが何を意味するのかは分からないものの、それは詐欺ではないのかと、ハトバは思った。


 分かっていたら、さっさと逃げている。嗚呼、だから逃げ道を塞がれたのか。ハトバは直前に張られた薄膜に合点がいった。


「キビシスはアルゴルの逃走を防ぐ結界だが、このタラリアの運動性能を底上げもする。私としては、君が素直についてきてくれると有り難い」


 思わず動いた視線の先を悟られたのか、ハトバの心を読んだようにシキョウが言った。右足を軽く持ち上げ、羽根の文様が彫られた銀の足輪を晒す。


「なに、そんな取って食いはしないさ」


 朗らかに言われても、だ。とんだ脅しだった。だが、それで怯える感情がハトバの心を支配するのであれば、六年間ここで孤独に生きていない。


「僕はアルゴルのことなんて知らない。それに僕は黒持ちだ」


 この黒球が目に入らないのだろうか。いぶかしい素振りを見せたが、ハトバの様子などシキョウは気にならないようだった。



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