すゞしろの足投げ棄ちて孃子はさやげる朝に味眠かも寐る


すゞしろの足投げちて孃子をみなごはさやげる朝に味眠うまいかも



 「大根足」という言葉があるが、この頃はあまり聞かなくなったように感じる。

 僕の手許にある『広辞苑 第五版』によれば、この語の解説に「大根のように、太くてぶかっこうな、女の足」とある。

 この第五版は一九九八年に発刊されているので、今から二十五年も前。その時代的な変遷を踏まえた上で見てみると、何だか、辞書の説明の表現自体、現代の感覚からは、ずいぶんと差別的で、危なげな記述であるようにも思われる。

 ちなみに、最新版は第七版ということだが、件の解説がどのように変化しているのか、または、全く同じ表現のままなのかは知らない。


 なお、現代の若い人たちは、僕らの世代に比べると、すらりと手足が長く、スリムな方が非常に多くなったように感じられるので、この語が当てはまる人自体が少なくなったとも言えるかも知れない。ただ、このような身体的特徴に触れる言及自体が、現代主流となりつつある価値観からすると、好ましくないとされてしまうようにも思われる。


 一体、ひと昔前に比べると現代は、他の人の外見の特徴を口にするのが、非常にはばかられるような時勢となってきた。

 この状況は、果たして、人に対して優しく思いやりのある理想的な社会に近付きつつあることの証左であろうか?

 或いは、画一化した価値観が押付けられ、自由や寛容といったものが抑圧される世の中になりつつあるのか?

 判断は人それぞれだろうが、成人式の前後を昭和の時代に経験した僕にとっては、どうも何だか窮屈な世相になってきたような気分を味わっている。


 いずれにせよ、昭和の末期と現代とでは、経済力・技術力などに代表される日本の国力、国際社会における位置付け、また、国内においても人々の生活レベルや価値観、ファッションやトレンドなども含め、非常にドラスティックに変化したものだと思う。

 そうした時代的な転換を受けて、「大根足」という言葉も、色々な意味で死語となりつつあると言ってしまえば、いささか大げさすぎるだろうか。


 ところで、女性の手足を大根にたとえることは、古代の日本においては、決して悪い意味合いではなく、むしろ誉め言葉、女性の色の白さを称賛する表現であったとも言われる。(現代においては、肌の色への言及自体、不適切とされるやも知れぬが)

 この話題で、よく引き合いに出されるのは、記紀に見られる仁徳天皇の次の御製である。


つぎねふ 山代女やましろめの 木鍬こくは持ち 打ちし大根おほね 根白ねじろの 白腕しろたゞむき かずけばこそ 知らずとも言はめ


 古 事 記 における表記:都藝泥布 夜麻志呂賣能 許久波母知 宇知斯淤富泥 泥士漏能 斯漏多陀牟岐 麻迦受祁婆許曾 斯良受登母伊波米

 日本書紀における表記:菟藝埿赴 夜莽之呂謎能 許玖波茂知 于智辭於朋泥 泥士漏能 辭漏多娜武枳 摩箇儒鶏麼虛曾 辭羅儒等茂伊波梅


 この中の「大根おほね 根白ねじろ白腕しろたゞむき」という箇所が、女性(この歌では皇后のこと)のただむき(=ひじから手首までの部位)の白く美しい様子をたたえた表現とされる。


 さて、拙歌を作ったのは、今から約二十年ほど前の通勤電車の車中。この冒頭における「すゞしろ」は「おほね」と同様に大根の古称である。

 これがいかなる意味合いであるのかについては、もはや作者としては詳述すまい。

 すべては、読者諸賢の解釈次第に委ねる所存である。




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