第六章 夢

その日も、竹沢一恵さんは、落ち込んだままであった。それとも気力がなくなったという方が適切かもしれない。時間経つのを待つしか無いと影浦先生は言っていたが、それだけでは立ち上がれそうにないほど、彼女は落ち込んでしまっていた。

「竹沢さん。すみませんが、お話を聞かせてもらえませんか?」

と、華岡と部下の刑事が製鉄所へやってきた。

「なんですか、いきなり来て、話を聞かせてくれなんて、影浦先生の許可がなければ許しませんよ。」

ジョチさんは玄関先でそういうのであるが、

「いえ、今回は、何も覚えていないでは済まされません。分かる範囲で大丈夫ですから、話を聞かせてください。」

華岡たちは、なにか確信を持っているようで、ジョチさんが止めるのを無視して、製鉄所の部屋のなかに入ってきた。一恵さんは二人を食堂へ通した。

「実はですね奥さん。竹沢玲さんのことで、ちょっとお話を聞かせていただきたくて。竹沢玲さんが、山下椿さんと食事したり、お茶を飲んだりしているのを、店の近隣の住民が目撃しておりました。これでもあなたは、竹沢玲さんの殺害に関わっているとは、言えないでしょう。竹沢玲さんが、山下椿さんと、愛人関係になっていたのは、知っていたのではないですか?」

華岡は、竹沢一恵さんに言った。

「そんな事知りません。第一、竹沢玲が、不倫なんてするとはとても考えられません、何かの間違いではないですか?」

と、一恵さんは答えるのであった。

「そうなら、そのような確証は何処にあるんですか?何の根拠もないのに、そういうことが言えるのはどうしてなんでしょうね。良いですか?ご主人と、山下椿さんが、一緒にお茶を飲んだとか、車に乗っていたとか、そういう事は多数目撃されているんです。それでもあなたは、竹沢玲さんと山下椿さんが、関係を持っていた事実は無いというおつもりですか?」

華岡は詰め寄るように言った。

「奥さん、もう少し考え直してくださいよ。ご主人を信じたい気持ちはわかりますけど、事実は事実として受け入れてください。」

「いえ、そんな事はありません。」

一恵さんはしっかりと言った。

「私のような女性の面倒を見てくれたんです。不正交友なんてするわけないじゃありませんか。私は、私のような人間が社会で生きていくことはとても困難であるということは知っていますし。、山下椿さんも、同じようなところがあると聞きましたから、私は、主人と山下さんがそのような関係であったとは、どうしても思えないのです。」

「なるほど。それはつまり、あなたのような精神障害のある女性と言うことですかね?」

華岡はそう彼女に聞いた。

「でも、それを持っている人が全て善とは限らないでしょう。そういうことなら、普通の生活を求めて他の女性に走ることだってあるのではないでしょうか?それをあなたは認めたくないんじゃありませんか?」

「そういうことなら、同じ障害を持った山下椿さんと関係を持つでしょうか?」

一恵さんは華岡に言い返した。

「まあそうかも知れないですねえ。」

思わず部下の刑事が言った。

「そういうことだったら、華岡さんたちは、どうしてうちの主人が山下椿さんと関係を持ったのかとか、そういう事を調べてくださいよ。」

一恵さんに言われて華岡は、

「そうだねえ。」

と、思わず小さくなった。

「一体うちの主人が、どうして山下椿さんと知り合いになったのですか。それならまずは、そこを説明してもらわねば。」

「何もご存知ないのですか。夫婦としてそれもまたおかしいと思うけど。」

華岡がそう言うと、

「警視、こうなったらもう変な形式はやめて、すぐに言ってしまいましょうや。なんでも山下椿さんは、妹の山下ミチさんと一緒に、竹沢学園の学校説明会に来たときに、竹沢玲さんに目をつけられたそうです。そして、玲さんと度々合うようになったとか、それでカフェや音楽ホールで度々目撃されているですけどね。そのような事は全く知らなかったと言いたいんですか?」

部下の刑事はちょっときつく彼女に言った。

「私はたとえ主人が他の女の人と時々あっていたとしても、情事に及んでいたとは考えたこともありません。主人は、そのようなことができる人間ではありませんから。」

「何を言っても糠に釘か。」

と、華岡も部下の刑事も呆れた顔をしていった。

「そんなに奥さんがご主人のことを信じているんじゃ、ご主人は本当に幸せな人だなあ。奥さんもそれなりに幸せんだと思うけど。あーあ、俺もそんな女性と結婚してみたいものだ。」

華岡は呆れた顔で彼女、竹沢一恵さんを見た。

「それほど、ご主人が情事に走らないと断定的に言える理由を教えてくれませんか。どうして奥さんはそう言えるのです?」

部下の刑事がそう言うと、

「はい。主人は、もう子供を作れないからです。」

と、一恵さんは答えた。

「私たちは、子供を望んでいましたが、主人は性器の悪性腫瘍が原因で、二度とそういう事はできなくなりました。だから私達は、自分たちで子供を育てることはできないから、せめて他所様の子供さんを育てようということにしたんです。宦官症とからかわれたこともありましたが、それでも、わたしたちは乗り越えてきました。だから、私を裏切るような真似はしないんですよ。」

「そうなんですか。つまるところ、それは、発情できないということですか。それで、学校をつくろうという気になったんですね。はああ、、、。なるほど。」

部下の刑事はなにか考え込むような顔をした。

「だから、わたしたちの夢だったんですよ。事情があって、学校にいけなくなってしまった子供さんたちを助けること。子供を作れなくなった私達が、社会に貢献できる方法はこれだと思ったんです。随分つらいこともありましたよ。だけど、そういう事をすれば、わたしたちも、社会に貢献できる。そう思って、私は主人と学校を作ることに精を出しました。事件のことは、思い出せませんが、そこまでは思い出せます。」

一恵さんは、そういうのだった。

「そうなのか、そういう事ではこの奥さんに何を聞いても無駄になってしまうな。しかし、竹沢玲が、宦官症であったとは、ご愁傷さま。まあ確かに、有名な宦官も居ることだし、そういうことなら、奥さんがそういうのも不思議はないな。」

「もしかしたら、宦官症だったことを、弱みとして握られていたのかもしれませんね。」

華岡と、部下の刑事は顔を見合わせた。

「まあとにかくですね。この奥さんに話を聞いても、成果になるような物は何も無いでしょう。まあ、わかったのは、竹沢の宦官症だけでした。それだけでも良い収穫を得たと思わなくちゃ。それでは俺たち、帰りますが、もう少し思い出してくれたら、すぐに言ってくださいよ。できるだけご主人の事は思い出してもらわないと。」

華岡たちは、意気消沈して、製鉄所を出ていった。

「いやあ、お一人でよく追い出せましたね。なかなかそういう女性は、見当たりませんよ。しかし、よく思い出してくださいました。そんな素敵な夢があったなんて、素晴らしいことじゃないですか。」

ジョチさんが、呆然とした顔をしている一恵さんにそう言うと、

「ああ、ありがとうございます。でも、正直言うと怖かったですよ。周りの人からは、事実、宦官と言われて、バカにされたこともあるんですから。」

一恵さんは、ちょっと辛そうな顔でいった。

「でも、そういう主人ですから、とても優しかったです。確かに、男性的な事は何一つできなかったかもしれませんが、だからこそ優しかったのかもしれません。だから私達は、他人に優しくしようと思えたのかもしれません。」

「そうですか。確かに、それを取ってしまうと、体の男性ホルモンが全部なくなりますから、性格もそうなってしまうんでしょうね。そうなると確かに、不倫関係になったということは不可能になりますよね。そういうことか。」

ジョチさんはなるほどという顔をしていった。

「それでは、一恵さんは、ご主人が、山下椿さんとあって何かをしていたとか、そういう事は覚えておられますか?」

「ええと、、、それは。」

やはり、一恵さんが覚えていることは、断片的にしか覚えていないのだろう。それを完全に思い出すことはまだ無理なようだ。

「いえ大丈夫です。それは仕方ありません。無理しないで少しずつ思い出していくしか無いです。」

ジョチさんは急いでそれを言ってあげた。

「でも、ご主人の夢を思い出すことができたのは良いことです。それはきっと何処かで役に立つと思いますよ。」

「はい。」

一恵さんは、小さく頷いた。

一方その頃、華岡たちも、捜査会議を行っていた。

「えーと、これまでにわかっていることを整理しよう。まず初めに、竹沢玲という人物は、学校法人竹沢学園というものを創始し、富士市内に学校を作るつもりでいた。事件が起きたのは、その竹沢学園という高校の、開校式典。スピーチの直前に竹沢玲が死んでいる。解剖の結果、死因は毒物によるもの。妻である竹沢一恵は、記憶が曖昧で、証言に信憑性がつかめない。それで、竹沢玲についてわかっていることは、」

と、華岡が言うと、部下の刑事が、

「はい。生徒の一人である、山下椿という女性と愛人関係にあったのではないかという噂もあったようですが、竹沢一恵は、そのような事は不能だと主張しています。」

と、発言した。

「そのあたりは、裏を取ってきたのか?」

と、華岡が聞くと、

「はい。竹沢玲が、静岡がんセンターに通っていた記録が残っていました。それによりますと、たしかに竹沢が前立腺がんに罹患したというのです。ですから、竹沢が情動に及ぶことはできないという一恵の主張もある程度理解できます。」

と、別の刑事が言った。

「それからもう一つ。竹沢玲と愛人関係にあったのではと言われる山下椿ですが、妹のミチの主張では、昨年行われた竹沢学園の学校説明会で知り合い、竹沢玲とよくあっていたようですが、椿は、自殺で命を落としていて、どんな関係なのかはわかりません。店の店員などに話を聞いてもあまり詳しく話してくれないんですよ。」

と、先程の刑事が言った。

「それは、山下椿も精神疾患を持っていて、周りの人たちが彼女に関心を持っているということはなく、彼女を厄介者と思っていたからかもしれないな。それで、妹の山下ミチは、姉が自殺の責任を取れと言うことで、竹沢一恵のもとへ乗り込んだが、竹沢一恵が記憶が曖昧で何も効果はなかった。」

と、華岡は言った。

「そういうことなら、山下ミチも、竹沢玲を殺害する動機はあったことになるな。」

「ええ、そうですが、山下ミチは竹沢が殺害された日、西多摩へでかけていたという証言があって、富士での犯行は不可能です。」

華岡がそう言うと、部下の刑事がすぐいった。

「じゃあ、もう一人。竹沢一恵のもとに乗り込んだ、紫藤タケオという人物はどうだろう?彼だって、意欲的に勉強したいと思っていたのに、それを奪われたということで、竹沢玲を殺害する動機はあるな。」

と、華岡が言うと、

「ええ。彼ですが、同じく竹沢が死亡した時刻には、孫のもとへ遊びに行っていますので、同じくできません。」

部下の刑事が言った。

「そうかあ。ふたりとも動機はあるが、犯行は不可能であるということか。ますますわからなくなってきたな。それに、竹沢一恵が殺害したとも考えられるが、彼女の話を聞くと、とても、殺害するような理由は見当たらない。そうなると、この事件は、余計に分けの分からない事件と言うことになるぞ。」

華岡は、大きなため息をついた。

「でも、人がやったということは確かなんだろうけど、、、。」

「警視が落ち込んじゃだめじゃないですか。絶対なにか理由があるから、徹底的に洗えって言ったのは誰ですか。それでは余計に俺たちは何のために居るのか、犯人に笑われてしまいますよ。」

華岡がそう言うと、部下の刑事の一人が言った。

「それなら、俺たちはどうすれば良いのかな。他に、竹沢玲に対して恨みを持つような人間を探すということか?」

「そうするしか無いでしょう。それに、竹沢玲は、学校法人の長ということで、もしかしたら結構強引に、学校開発事業を進めていたかもしれないじゃないですか。それで、絶対迷惑を被る人物も居るはずですよ。それを探して、早く犯人だと絞り上げましょう。」

と、別の刑事が言った。

「そうだなあ。」

と、華岡は大きなため息をついた。

「いずれにしても、山下ミチと、紫藤タケオのアリバイは絶対に崩せない。なので、ほかを当たるしか無いということになるんだろうけど。それでも俺たちは僅かな可能性を探して、やっていくしか無いんだよな。それでは、頑張っていこう。」

華岡がそう言うと、他の刑事たちは、嫌そうな顔をしてハイと言った。刑事の仕事も大変だ。こんなふうにいちいちいちいち調べていたら、たしかに疲れてしまう。

それから、数日後のことだった。

「やめる?」

一恵さんは、ずっと家を手伝っていた秋山さんという女性に向かってそういった。

「はい。実は、私の家族がちょっと大変になりまして、それで娘たちのところにいかなくちゃいけなくなったんです。」

秋山さんは申し訳無さそうに一恵さんに言った。

「本当は、前々から、娘にこっちに来てくれと言われていましたが、奥様を一人ぼっちにしてしまうわけにはいかなかったので、いつ言おうか迷っていました。でも、今の奥様であれば、あの製鉄所とか言うところに通えているようですし、それならもう寂しくないかなと思って、すみません。今日でやめさせてください。」

秋山さんは、ペこんと頭を下げた。

「ちょっとまってください。娘さんに娘さんの家に来てくれとずっと言われていたのですか?どうして仰ってくださらなかったの?それに、秋山さんの娘さんは、結婚していてもう子供さんもいるから、何も心配ないって、言ってたわよね?」

と、一恵さんが言うと、

「はい。そういう事になっていました。ですが、娘の娘つまり孫ですが、その孫が学校の勉強についていけなくなって、鬱になってしまったそうで、それで誰かがそばについて見てやることが必要になったんです。」

と、秋山さんは言った。

「そ、そうですか、、、。つまるところ、私と同じ精神疾患があるということですね。確かに、そうなってしまったら一人では生きていけないわ。誰かの世話を必要になるのもわかる。けれど。」

「大丈夫です。後任の女中さんは、私がしっかり見つけます。それは、責任を持ってさせていただきますから、心配しないでください。それより、奥様はあそこの製鉄所のみなさんと仲良く楽しくやって言ってくださいね。本当にすみません。私のわがままで申し訳ないのですが、今月分のお給料はいただかなくて結構ですから、今日限りでお暇させてください。」

秋山さんは申し訳ないという顔をして再度一恵さんに頭を下げた。

「そうですか。とても急だったのでびっくりしました。私は、もういらないと言うことなのでしょうか。主人もああ言う形で失ってしまったし、他の事実がどんどん露見してしまうし。それでは私は、どうして生きていけば良いのやら、、、。」

一恵さんがそう言うと、

「いいえ、奥様、そういう事は、きっと奥様が新しい人生を生きていくためのステップになるんだと私は信じていますよ。そういう事はそのためにあるんじゃないでしょうか。変わるということは大変なことでもあるけれど、それは必ず奥様にとって、素敵なものをもたらしてくれるんじゃないかしら。私はそう思います。」

と、秋山さんは言った。

「そうですか。私は二度と変わらないと思っていましたが、変わることもあるんですね。まだまだ私も、これからということかしら。秋山さん、お孫さんのことで大変だと思いますが、お体に気をつけて、元気に過ごしてください。」

一恵さんは秋山さんの前で右手を差し出した。秋山さんはそれを申し訳無さそうに見たが、それを静かに握り返した。

「奥様、まだご主人さまの記憶もちゃんと戻っていないと思いますが、それでも、頑張って生きていこうとしていれば、きっと何か良いことがありますよ。だから、それを忘れないで、生き抜いてくださいね。」

秋山さんは、長年使えていた一恵さんへのメッセージのような口調でそういったのであった。

「ええ、大丈夫です。あたしは、これからも頑張って生きますから。まだ、主人のことは解決できていないし。それをちゃんと見届けるまであたしは、動きませんから。」

一恵さんがそう言うと、

「奥様、本当に今までありがとうございました。本当にお体を大切に、そしてご主人さまの事を忘れないで生きて行って下さいね。きっと何か嬉しいことが待っていますから。私は、奥様より長く生きてますから、それはわかりますよ。ご主人さまは、一生懸命やっていらしたと思います。それは確かです。ある日突然という形で、旅立ってしまいましたが、きっとこの世の中になにか大きな足跡を残してくれたはずですよ。」

秋山さんは、意味深い事を言った。

「ええ。ありがとうございます。秋山さんこそ、娘さんやお孫さんのことを大事に、毎日を大事に生きてください。」

一恵さんに言われて秋山さんは、ハイと小さく頷いた。その日、秋山さんは、一恵さんの家中を丁寧に雑巾で磨いた。そして、夜になって、本当にありがとうございましたと言って、一恵さんの家を出ていった。

その翌日のことである。富士川から、歳をとった女性が浮いているのが見つかったと釣り人が、警察に通報した。華岡たちが急いでその現場に行ってみると、女性は、氏名を分からせるような物は何も持っていないというが、持っていた財布の中に、所属している家政婦斡旋所のカードがあったという。華岡たちは、そこへ言って、行方不明になっている家政婦さんはいないかと聞いてみたところ、秋山という人が不在であることがわかった。それでは、その富士川で浮いていた女性は秋山という人であることは間違いなかった。




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