第五章 釘のあとに

「全く、変な女が慰謝料でも請求しに来るから。」

と、杉ちゃんは呆れた顔で言った。

「彼女、余計にだめになってしまったようだね。」

「そんな事は言ってはいけませんよ。竹沢一恵さんは、彼女なりに処理しようとしているんでしょうが、それが難しいというだけですから。」

ジョチさんがそういったのであるが、縁側に座っている彼女を眺めて、たしかに杉ちゃんの言う通りであるなと、頷いた。あの山下ミチさんという女性が製鉄所に押しかけてきてから、彼女竹沢一恵さんは、より無気力になり、なかなか他の人と話をしようとしなくなった。

「しかし、影浦先生が、釘は抜いても痛みは残ると言っていたが、こうなってしまったら、僕らも手の施しようが無いよ。」

竹沢一恵さんはまだ泣いていた。縁側に座って泣いている。それを、水穂さんが心配そうに眺めていた。そして、彼女にお茶をどうぞとか、優しく声掛けをしてやっているようであるが、竹沢一恵さんは、それも振り切ってしまった。

「ああいう女性に声をかけられるかは、水穂さんだけだ。みんな彼女がパニックになることを恐れて、誰も彼女に話しかけない。」

杉ちゃんの言う通り、製鉄所の利用者たちは、誰も竹沢一恵さんに声をかけなかった。それが難しいところだが、本当は彼女に声をかけてやったほうが良いと思われるのであるが、今は誰も彼女に声をかけてやりたいとは思わないだろう。

「まあ、しばらくは、彼女が立ち上がるのを待つのみですね。」

とジョチさんは言った。

「でも、変わらないと、解決にはならんよ。」

杉ちゃんがそう言うと、

「こんにちは。竹村です。クリスタルボウルのセッションに参りました。よろしくお願いします。」

と、玄関先で声がした。

「ああ、竹村さんだ。」

と杉ちゃんが玄関先へ迎えに行くと、

「ハイこんにちは。竹村です。今日は、アルケミークリスタルボウルというのを持ってきました。比較的症状が軽い人のために使うクリスタルボウルですが、今日は、あまり刺激的にならないほうが良いのではないかと思って、持ってきましたよ。」

竹村さんは、台車を動かして、製鉄所の建物内に入った。それと同時に、

「竹村先生、持ってきましたよ。これで良いんですね。」

と、一人のおじいさんが、竹村さんにマレットを二本渡した。

「誰ですかこの人は。」

と、杉ちゃんが言うと、

「はい。竹沢学園に入学するはずだった、紫藤タケオさんです。」

と竹村さんは紹介した。

「つまり、学生さんだったということですか?」

ジョチさんがそうきくと、

「はい。この年で学生とは信じられないという人もいるかも知れませんが、戦争で親御さんを亡くして、13歳で豆腐屋で住み込みで働いていたそうで、定年するまで勤めていて、学校には通っていなかったそうです。それで、子供さんが独立したので、竹沢学園で学び直したいと意気込んでいたようですが、あのような事件になってしまい、とてもショックだったということで、こさせてもらったようです。」

と、竹村さんは答えた。

「それで、タケオさんの目的は?やっぱり、学ぶ場所をなくして、お金でもよこせってか?」

と、杉ちゃんが言うと、

「いいえ、違います。そういうことじゃありません。それではなくて、私は、学び治せる場所がほしいと言いに来ました。だって、やっと読み書きができるようになると思ったら、こんな事件ですからね。勝手なことしないでもらいたいと言うのが、私の意見ですが、どうなんでしょう?」

タケオさんはしっかりと言った。

「そうですか。やっと読み書きができるようになるですか。確かに、その気持は、わからないわけでも無いけどさあ。なんか、明治くらいの人だったら、そういう気持ちを持つ人は多かったかもしれないが、、、。」

杉ちゃんが困った顔でそう言うと、

「いや、そんな事ありません。義務教育をちゃんと受けられなかった人は、五万と居ますよ。中には義務教育を受けていても、本当に伝わっていない人だっています。そのほうが多かったんじゃないですか。それで、お年寄りになって、また学び直したいと、通信教育に行く生徒さんは多いようですよ。」

と、ジョチさんが言った。

「とにかくね。校長先生も勝手に死んで、奥さんがおかしくなっていると聞きましたが、そんな事している場合じゃ無いと思うんですけどね。私達のように何もできない学生に新しい学校を教えてくれるとか、そういう事をしてもらえないでしょうかね。偉い人は、こういうところが勝手すぎるから困るんだ。ワケアリの人でも入れる学校を作ってくれたというので、私達はやっと勉強ができると喜んでいましたが、それも水の泡になってしまいました。責任を取って貰えないでしょうか?」

と、タケオさんは言った。しばらくシーンとなってしまう。

「私達は、文字通り無ガッコですから、インターネットも何もできないんですよ。だから、勉強ができたら嬉しいと思っていたのに、その気持は、偉い人の勝手な自殺で、お流れですかねえ。」

タケオさんが言う通り、こういう学生さんは、偉い人を憎むというか、生活するために、苦労をしているからそういう事を言うのだと思われた。いつの時代も、偉い人を憎む気持ちはあるんだと思う。

「そうですね。でも、彼女、竹沢一恵さんは、今あなたの話を聞けるような状態では無いんですよ。あなたが乗り込んで来たい気持ちもわかりますし、冗談ではないということもわかりますが、ですが、一恵さんの安全を考えた場合、、、。」

ジョチさんがそう言うと、

「へ!結局偉い人は、そういうふうに、保護してもらえるから、最高ですな!」

と、タケオさんは言った。

「仕方ありません。他の学校であれば、僕も知っているところがありますので、そこを紹介しますから、今日は、これで我慢していただけないでしょうか?」

ジョチさんがそう言うと、

「いくら我慢しても、幸せには、巡り合わないというのが、俺たちの真実だな!」

と、タケオさんは吐き捨てるように言った。

「せっかく、事情があって、無ガッコになってしまったわしも、学校にやっと行けると思って喜んでいたら、その学校が破産なんてわしの人生は、どうなって居るのだろう!」

「タケオさん。」

と、水穂さんが細い声で言った。

「学校に行けなかった悔しさとか、そういう気持ちはわかります。僕も、学校に行きたくても、学費が足りなくて行けなかった時期がありましたからね。」

タケオさんは水穂さんをバカにしたように見た。

「はあ。嘘ばっかり。そんなにきれいな人が、学校に行けなかったなんて、そんな逸話があるわけが、、、。」

と言ってタケオさんは水穂さんを頭から足まで眺めた。確かに美しい人ではあるけれど、葵の葉を大きく入れた銘仙の着物を着ている。

「あ、もしかしてこの人は、、、。」

タケオさんがそう言うと、水穂さんは小さく頷いた。

「なるほど。わしが子供の頃、伝法の方にそういう奴らが住んでいた。わしの両親も、少なくともああいう人達よりわしらは幸せなのだと言った。無ガッコであったけど、わしは、お前さんのような人よりは、身分が上なんだと思って生きてきた。そんなやつに、学校に行こうという気持ちがあること自体がおかしいんだ。」

「そう見えてしまいますよね。そう見えるんだったら、そういうふうに思ってくれれば大丈夫です。僕たちのような身分の人が、そう思われても仕方が無いのです。それは、そういう歴史で生きて来てるから。それは、誰でも同じことです。」

水穂さんは、小さな声で言った。

「だから、仕方ないことでもあるんですよ。僕たちよりは身分が上であると自分に言い聞かせていたことによって生き延びてきたんだったら、そう思われても仕方ないです。でも、タケオさんの、学校に行けなくて悔しい思いをしてきた気持ちはわかるから、それだけお伝えしたかっただけのことです。」

「なるほどなあ。水穂さんとタケオさんが同じ悩みを背負ってきた同士だと打ち解けてくれるのが理想なんだが、そういうわけにはいかないんだろうね。まあ、それでは無理だろう。」

杉ちゃんは大きなため息をついた。

「まあ、そうですね。もしこれからも学び続けたいという気持ちがあるんだったら、僕が知っている通信制の高校を紹介します。確かパンフレットが届いていましたから、ちょっとお待ち下さい。」

ジョチさんがそう言うと、

「そういうことではなくて、わしらの怒りはどうなるのかな!わしらは、せっかく勉強をさせてくれるところがやっと見つかったと思ったら、校長が死んじまってもう破産なんて、また居場所がなくなっちまったじゃないか!わしは、無ガッコだとバカにされて、やっと開放されると思ったし、娘が、馬鹿にされることもなくなると思ったのに、また一からやり直しじゃないか!」

と、紫藤タケオさんは言った。

「そうですねえ。そういう怒りとか、そういう気持ちを聞いてくれる存在がいてくれる存在が居るかいないかも、幸せの尺度に落差が出てしまうんだよな。」

杉ちゃんがでかい声で言った。

「人間にできることは事実に対してどうしようかを考えるだけだって言うけど、それに付随して生じる感情の処理が難しいんだよな。それは、もうしょうがないから、外国では、カウンセラーを雇うとか、そういうことが当たり前になっているようだけど、日本ではカウンセリングは、贅沢なことになっちまってるからね。それに、カウンセリングをしてくれる奴らは、高学歴で、すごいやつばっかりだからね。そんなやつにお前さんの悔しい気持ちを聞いてもらってもわかって貰えないと思っても、仕方ないことだよね。」

「もし、そういう事したいんだったら、僕が名乗り出てもいいですよ。」

水穂さんが細い声で言った。

「何だって!」

と、杉ちゃんが言うと、

「はい。だって、カウンセリングをしてくれる人のことを、信用できないんだったら、自分より身分の低い人に聞いてもらうのが一番ではないでしょうか。そういうことなら、僕が立候補します。」

水穂さんはきっぱりと言った。

「しかしですね。水穂さんは体の問題がありますよね?」

ジョチさんが心配そうにそう言うと、

「ええ。それはわかっています。ですが、最近は発作も起こしていませんので大丈夫です。紫藤タケオさん、もし、学校がなくなって悔しい気持ちがあるんだったら、いくらでも話してくださって構いません。僕は、あなたより身分が低いと言うことになるわけだから、決して、偉い人にあるような、あなたを軽んじたりすることはしませんよ。誰かに口外することもしないし、安心してください。」

と、水穂さんはそういった。

「上等だ。やってもらおうじゃないか。」

紫藤タケオさんは水穂さんに言った。

「それでは、そうしよう。あの、校長の奥さんに、話ができないのなら、他の誰かに聞いてもらうのが一番だ。存分に話させてもらうからな。」

「よっしゃ。交渉成立みたいだねえ。」

杉ちゃんはカラカラと笑った。

「それでは、彼女、竹沢一恵さんに来てもらいましょうか。今日は、比較的刺激の少ないクリスタルボウルを持ってまいりました。なので、少しのんびりした気分で聴けると思います。」

と、竹村さんが言った。僕が呼んでくると杉ちゃんが言った。数分後、蝋人形のように無表情な竹沢一恵さんが、杉ちゃんと一緒に縁側にやってきた。

「偉いやつは、誰かをなくす程度のことでも立ち直れない。」

紫藤タケオさんは、そういう事を言うが、それはジョチさんが止めた。そういう事を言うと、差別につながるからである。

「じゃあ、行きますよ。クリスタルボウルの音を聞いてください。今日はとても優しい音です。心を柔らかくしてください。」

と、竹村さんはマレットを取った。そして、アルケミークリスタルボウルを叩き始めた。あのクラシックフロステッドとはまた違う、ゴーンという音ではなく、もわーんというような柔らかい音でもあった。とても素敵な音だった。なんとなく、のんびりした気持ちになれるというのは本当であった。

それからしばらく、水穂さんは、決まった時間にバラ公園の中にあるカフェで、紫藤タケオさんと話をした。もちろん、銘仙の着物を着た水穂さんが、紫藤タケオさんと話をしているということを、他の客は変な顔をしてみていた。

タケオさんは、水穂さんに学校の事を色々話してくれた。まず初めに、戦時中は空襲が怖くて、学校どころではなかったこと、自分が家族を支えるために、学校に行くどころではなく、豆腐屋の主人からさんざん馬鹿にされて、それでも働かなければならなかったこと。やがて豆腐屋の社長さんの娘さんをお嫁にもらって、娘も生まれたが、父親が学校に行っていなかったことで、娘はいじめを受けたこと、などなど、ありとあらゆる事を話してくれたのだった。それでも、娘さんに、感謝の気持を持ってもらったことはなく、一生懸命働いてきたのに、娘はバカにされたことばかり訴えること。そして、妻が死亡して、娘と大喧嘩してから、やっと学校に行こうという気持ちになったこと。そういう事を細かく話すのだ。水穂さんは、そうですかと相槌をうちながら、それを聞いた。決して嫌な顔はしなかった。それに気を良くして、タケオさんは、学校なんて何のためにあるのかなど、哲学的な話も始めた。そんな物は、金があって、身分が高い奴らがただ誰かに自慢したいからあるんだと思っていたという気持ちを、水穂さんに話した。始めは、無ガッコのままで生きていけると思っていたけど、娘や孫が言うのには、学校はとても楽しいところだと聞かされ、勉強できることは幸せなことだと気がついたのだという。それで、竹沢学園に入ろうと思ったのだった。

「それで、竹沢学園の校長先生とは、面談とかされたんですか?」

と、水穂さんは、タケオさんに聞いた。

「ああ、オープニングセレモニーが始まる前に、校長さんに合わせてもらったよ。とてもわしが想像していたような校長さんとは違ってたな。昔の学校の先生なんて、俺たちが教えてやっているからありがたく思え的なところがあったけど、とてもそういうところはなかった。きっと人をものすごく大切にする人だったんだろうね。だから、不倫こいてたというが、わしはどうしても、それを考えられなかった。」

と、タケオさんは言った。

「ということは、不倫のことが何処かに報道されていたんですか?」

水穂さんは思わずそう聞いてみた。

「スマートフォンの富士ニュースに入ってたよ。無ガッコだけど、ひらがなくらいは読めるから。」

と、タケオさんは言った。ということは、竹沢玲さんが、山下椿さんと交際していたことは、もうニュースになってしまったのだろうか?流石に製鉄所ではテレビを置いていないので、そこまではつかめなかった。

「そうなんですね。それでは、もう、報道されてしまっているんですね。」

水穂さんがそう言うと、

「でも、正直、信じられないよな。わしのような人間を受け入れてくれた校長だよ。それが、簡単に不倫というか、浮気というか、そういう事をしでかすかな?そういう事を簡単にしてしまう男って、割と高学歴だったり、収入が安定していたりとかするんだけど、、、。まあ校長なんかやっているくらいだから、収入は申し分ないんだろうが、はっきり言ってしまえば、それは、違うのでは無いかなと思った。」

タケオさんは不思議そうに言った。

「なぜ、そのような事を思われるのですか?」

と、水穂さんがそうきくと、

「ああだって、わしが校長さんと面接したとき、印象的だから覚えているんだけど、あなたとお会いできる日を楽しみにしていますって言ってくれたんだよ。それは決して裏で悪さをしているような言い方ではなかったよ。わしは、偉い人にたくさん騙されてるから、そういう悪気があるかないかとかは直感でわかるんだけど、そういう感じではなかったね。だから、滅多矢鱈に浮気したりなんかするような人物だったのかな?簡単に奥さんを裏切るような人物なら、奥さんがああしておかしくなってしまうことも無いと思うんだがなあ。」

と、タケオさんは言った。どうもそこはなぜそういうふうに言えるのかはっきりしなかったが、タケオさんは、それは確信を持っているようだった。

「そうなんですね。それだけ人望がある人だったんですね。」

水穂さんはそういった。

「だからわしは、そこだけはどうしてもおかしいと思うんだ。でも、あの車椅子の男がそういった通り、事実に対して向き合うしかできないのなら、やっぱりやってしまったと思うしか無いのかな?」

タケオさんは残念そうに言っている。

「仕方ないのかもしれないですけど、でも、事実として残ることでもありますよね。」

水穂さんは、そうタケオさんに言っておいた。

「あの奥さんは、ご主人をなくしたことで、ご主人のことを思い出すことができなくなってしまいました。ご主人、つまり校長さんですが、その方がどんな人物だったのかも思い出せないようです。」

「そうなのかあ。認知症になる年ではなさそうだけど?」

タケオさんはそう言いかけるが、

「つまり、わしに、会える日を楽しみにしているといったことも忘れてしまっているのか。わしは、あの言葉にどれだけ救ってもらったのか。それも、あの女性は忘れてしまっているということか。」

と、考え直してくれたようだ。

「ええ。そういう事になりますね。」

水穂さんが答えると、

「そうか。それは可哀想だな。わしが、あの校長さんに言われた一言も思い出せないなんて。そんなに苦しんでいる様子には見えなかったけど。わし、学問も何も無いけど、とにかく、気を取り直して、何処かで生きてくれって伝えてくれ。わしは、あの校長さんにああして言ってもらうことで、本当に助かったって。」

と、タケオさんは言った。

「わかりました。竹沢一恵さんに、あなたの気持ちを十分に伝えて差し上げますよ。」

水穂さんはにこやかに笑って、タケオさんに言った。

「おお、やっと気持ちが通じたようだな。」

と、タケオさんはとてもうれしそうだった。


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