第四章 錆びた釘

竹沢一恵さんは、早速インターネットの通信販売サイトで、ポリエステルの着物と、作り帯を買い求めた。杉ちゃんにおはしょりを縫ってもらって、動画サイトで着付けを練習して、一人で着られるようになった。

着付けができるようになったと植松聡美さんに報告すると、次の着物イベントは、村田さんは来られないが、静岡の県立図書館に行くという。静岡の県立図書館で、一般市民が参加するというビブリオバトルという行事があるらしく、着物サークルのメンバーの一人である手越さんが参加するというのだ。ビブリオバトルとは何だと一恵さんは聡美さんに聞いたところ、本の紹介をして、それをオーディエンスにどの本が面白いか投票してもらい、一等になったものは、図書館から景品がもらえるという会だと答えが出た。

いずれにしても面白そうな行事でもあり、その日、聡美さんと一恵さんは、着物を着て県立図書館の会議室へ行った。

二人が、オーディエンスの席に座って数分すると、司会者が、ビブリオバトル開催の挨拶をした。そして舞台に座っている、御人の参加者が、それぞれ自分の好きな本の紹介を始めた。みんな一般市民だから、選挙演説する人みたいに、朗々と話すことはできないが、一生懸命本の紹介をしていた。手越さんが演説するのは、一番最後である。

「それでは、最後の挑戦者は手越優子さんです。なんでも着物が大好きで、日常着を着物にしてしまったそうです。それでは、本の紹介をどうぞ!」

と、司会者が言うと黄色の色無地を着た手越さんは、マイクの前で頭を下げて、こう話し始めた。

「はじめまして、手越優子と申します。実は私は、現在統合失調症がありまして、仕事をしていない番年ニートです。」

会場はシーンとなった。

「私が病気になってしまったのは、不適切な学校生活が原因でした。理由はわかりませんが、学校の先生が国立大学への進学ばかりにこだわっており、私立大学へ行きたかった私に、それはいけないと、毎日のように怒鳴りつけて居たからです。私は、あらゆる面で学校の先生に洗脳されました。学校の先生は、働けない人間は自殺するしか親孝行できないと言って私を怒鳴りつけ、私は、それが幻聴として残ってしまうようになり、大学への進学もできず、川に飛び込んで死んでしまおうとしました。幸い、一命はとりとめましたが、私は死んでしまえという幻聴が酷くて入院を強いられ、働けない人間になってしまいました。」

中には彼女の話を嫌そうな顔で見ているものも居る。

手越さんは話を続けた。

「そんな中、私はこの本に出会いました。タイトルは、初めての着物という本です。この本を読んで私は、着物を着てみようと思ったのです。そして着物を着てみると、働けなくて惨めな思いをしている私はいなくなるということを知りました。具体的に仕事を得られるとかそういうことではありませんが、着物を着ることによって、自分は前向きに楽しく生きていこうという、意志が持てたのです。そのきっかけをくれたのは、紛れもなくこの本でした。だから私は、いろんな人に着物をおすすめしたいです。今はリサイクルで気軽に入手できます。その着物と出会うきっかけをくれたこの本に感謝して、私の話を終わりたいと思います。本日はありがとうございました。」

そう言って、手越さんは一冊の本をオーディエンスに見せた。きっと彼女にはものすごく自信を身に着けさせてくれた、とてもすごい本である意味聖書と同じようなものだろう。

「はい、それでは五名の方の本の紹介が終わりました。それでは投票用紙に読んでみたいと思った本のタイトルを書いて投票箱に入れてください。」

司会者がそう言って、参加者全員に投票用紙が配られた。もちろん聡美さんと一恵さんにも。それぞれ読みたいとおもった本のタイトルを書いて、投票箱に入れてきちんと投票し、開票時間が来るのを待った。

結局のところ、手越さんが紹介した着物の本は、二票しか集まらず、一等賞はファンタジー小説がとってしまった。何処の世界でも、テレビゲームを文書化しただけのような小説ばかりが一位をとってしまうようだ。テレビゲームやスマートフォンで繰り広げられるゲームを文章化して、無いが思い白いのかと思ってしまうのは、いけないことだろうか?

でも、聡美さんと一恵さんは手越さんのプレゼンテーションはとても上手だったと彼女を褒めてやった。

「ありがとうございます。私、学生時代こんな生活はもう嫌だといいたくなるくらい嫌な生活でしたけど、着物を着たらそれも必要ないものだとわかりました。それが誰かに伝わってくれればそれで十分です。」

手越さんがそう言うと、

「ええ、十分伝わったと思います。票が集まらなくても人気のある政治家も居るじゃありませんか。だから、人気がなくても印象には残ったと思いますわ。みんなに伝えられたことを、誇りに思ってください。」

聡美さんは、にこやかに彼女に言った。

「こんな生活、もう嫌ですか?」

と、突然一恵さんが言った。

「どうしたんです?」

と、聡美さんが聞くと、

「いえ、何でもありません。本当になんでもないですから。」

と一恵さんはそう言ったが、

「なにか思い出したのではないですか?」

手越さんも言った。

「思い出したのならまず、何でもいいから話してください。」

聡美さんに言われて一恵さんは、

「そういえば、死んだ主人がそういう事を言っていました。こんな生活はもう嫌だと言う人を救いたいと言っていたことがあったんです。」

と小さく言った。

「それだけですか?」

手越さんが聞くと、一恵さんはハイと答えた。

「いや、小さなことでも思い出してくれたんなら、影浦先生も喜ぶと思いますよ。」

と聡美さんが言った。

「思い出したことは報告するようにと影浦先生が言っていましたので、今のことは、メモに書いて報告しますね。」

聡美さんは先程の発言を手帳に書き留めた。

「そういう発言をするってことは、彼女のご主人は、すごい人格者だったんですかね?」

手越さんはなんとなくそんな気がしてそういった。そこまではわからないと聡美さんも言った。いずれにしても学校法人を立てて、その校長でもあったのだから、そのような発言をすることもあるだろう。三人は、カフェでお茶を飲んでそれぞれの家へ帰った。

その翌日は、影浦先生の診察の日であった。影浦先生は、昨日聡美さんの報告を受けて、今までの報告に基づいて作った彼女の発言リストを眺めながら、

「そうですね。ご主人に対して、ほんの一部のことを、思い出してくれるようですが、ご主人がどんな顔だったかとか、そのような生活をしているかとか、そういう事は思い出せませんか?」

と、影浦先生は一恵さんに言った。

「ごめんなさい。学校法人を作っていたとか、校長先生だったとか、そういう事は思い出せるんですけど、他の事は全く思い出せないんです。」

「わかりました。ご主人がどんな人物だったかとか、そのようなことは、思い出せないのですね。大丈夫ですよ。そういう症状の人は、何人か見ていますから、心配しないでください。」

影浦先生はにこやかに言った。

「でも先生、旦那さんのことを思い出せないのはある意味、自分を守るための手段でもあると思うんだがね。添えは違うんかな?」

と、近くに居た杉ちゃんが口を挟んだ。

「まあ、そういうことかもしれませんが、彼女は思い出そうとしてパニックになってしまうのが問題で、やはり記憶は取り戻してもらわないと困ります。それに基づいて、真実と向き合うことも大事ですしね。」

と、影浦先生は言った。

「多分きっと、なにか大きな事実があるのかもしれません。でもそれも事実ですから、受け入れなければならないことでもありますよね。」

「でもさあ、それを知ったときの衝撃でおかしくなってしまわないか、心配なんだけどねえ。大丈夫かなあ。」

杉ちゃんがそう言うと、

「はい、まあそうなったときは、薬を飲んでいただくか、竹村さんのクリスタルボウルなどの力を借りるしか無いでしょう。その時は、そうするしか対処できませんよ。でも、彼女の心に刺さったままの錆びた釘は、抜いたほうがいいと思います。」

と、影浦先生は答えた。

「まあそうだけど、、、。」

杉ちゃんは心配そうに言った。

「とりあえず安定剤を出しておきますね。あとこちらが頓服の薬です。パニックになったときや、気分が悪いときに飲んでください。」

景浦先生は、一恵さんに処方箋と書いた紙を渡した。これで記憶が戻ってくれるのかといえばそういうことはないが、それでも彼女の情緒を安定させるためには必要であった。

「わかりました。ありがとうございます。また一週間したら、診察をお願いします。」

一恵さんに見送られながら、影浦先生は帰っていった。多分きっと、重大な事情にぶち当たらなければ行けないときが来るのだろうと思った。だけど、偉い人はそういうときには逃げてしまうはずである。

その数日後のことであった。

「ごめんください。失礼ですが、こちらに竹沢一恵さんと言う方はいらっしゃいませんか?」

と、一人の女性が製鉄所の玄関先にやってきた。

「お前さん誰だよ。」

杉ちゃんが彼女を出迎える。

「はじめまして。私は、山下といいます。姉の山下椿の妹で、山下ミチと申します。」

とその女性は言った。

「で、竹沢一恵さんに何のようだ?」

と、杉ちゃんが言うと、

「はい。実は先日県立図書館で、着物を着た竹沢一恵さんの姿をお見かけしました。それで、竹沢玲さんの奥さんだと言うことが、すぐに分かりました。バス乗り場から、こちらにいらっしゃることも突き止めました。ちょっとあわせてもらえませんか?」

と女性は答えた。

「山下ミチ?聞いたことのない名前だな。竹沢一恵さんが、お前さんの事を覚えているかどうか。悪いけどね、彼女は、竹沢玲さんがなくなったショックで、ちょっと記憶が曖昧になっていて、お前さんが登場すると、またパニックになる可能性もあるからねえ、、、。」

杉ちゃんが心配そうにそう言うと、

「そうなんですか。それでは、姉のことは、もうお流れということになってしまうんでしょうか。せめて、奥さんに謝りに来てほしいと思っていたのに。」

と、金子ミチさんは言った。

「謝るって、どういうことだ。事情をもうちょっと詳しく話してもらえないだろうかな?」

杉ちゃんがそう言うと、

「きっと竹沢玲さんと一緒に暮らしていれば、痕跡くらい見つかるのではないのでしょうか?」

ミチさんはそう言い返した。

「だけど、本人が覚えているかどうか。パニックになったら、止められるやつも居ないよ。悪いけど、合うのはまた今度にしてくれ。そうすれば影浦先生や、他の人も呼んでおくから。」

杉ちゃんがそう言うと、

「私、実家は国分寺なので、偶にしかこちらには来られないのですけど。」

と、ミチさんは言った。杉ちゃんがどうしようかなと言っていると、ジョチさんが応接室から出てきて、ミチさんを通してやれと言った。ミチさんは、竹沢一恵さんに直に会いたいと言ったが、ジョチさんはそれは無理だといった。

「それより、何があったのかちゃんと説明してください。それをしなければ、一恵さんには、あわせられません。」

権力者という風貌があるジョチさんがそう言うと、山下ミチさんは、仕方ありませんねと言って、応接室の椅子に座った。

「で、その竹沢玲さんとお前さんのお姉さんが何の関係なんだよ。」

杉ちゃんがすぐに聞くと、

「はい。多分奥さんの竹沢一恵さんであれば、知っていると思いますが、姉の山下椿は、竹沢玲さんと交際をしておりました。それで、竹沢玲さんがなくなって、姉もそのショックで自殺してしまいました。姉が死んだことで、わたしたちの会社は、大混乱です。」

と、山下ミチさんは答えた。

「なるほど。つまりお前さんたちは会社をしていたわけね。それで、竹沢玲さんが、お前さんのお姉さんと、不倫をしていたのか。それで今回、その相手が亡くなってお姉さんは自殺してしまったと。それで、何、慰謝料でもよこせといいに来たのか?」

杉ちゃんがそう言うと、

「慰謝料はいりませんから、姉に謝ってほしいんです。姉はきっと、竹沢玲さんのことを中途半端な気持ちで思っていた事は無いと思います。だって姉は、心に病気があって、ショックから立ち直るときは必ず人手が必要でした。竹沢さんは、それを一生懸命介抱してくれました。それでお付き合いを始めたそうですが、こんな終わり方で、また姉の命も奪ってしまうなんて、許せません。だから、奥さんに、姉に謝ってもらいたいんです。」

山下ミチさんは語勢を強くしていった。

「心に病気があったとは、お姉さんはなにか障害があったのですね。」

「ええ!ですから姉は騙されているのに気が付かなかったのかもしれません。だったら余計に竹沢玲さんの奥さんに謝ってもらいたいんです。姉はいつも言っていました。竹沢さんという人は、私が障害者手帳を持っている事に嫌な顔しないで、手伝ってくれるのだと。それは、心から感謝しているそうです。」

ジョチさんがそう言うと、山下ミチさんは続けた。

「はあ、つまり、お姉さんは不倫関係だったのを見抜けなかったのか。」

杉ちゃんが口をはさむ。

「そういうことではなくて、私は嬉しかったんですよ。だって、家の中しか居場所がなかった姉が、男の人と知り合って、外へ出ていけるようになったなんて、夢のような話だったんですよ。」

ミチさんは更に続けた。

「姉は、たしかに、心に病気を持っていました。よく、事実にない事、誰かに見られていて怖い、監視されていて怖いなど口にしましたが、それでも人を信じる力があり、わたしたち以上に、繊細で優しくてきちんとしていました。だから、そんな姉が自殺したなんて、本当に無念でならないのです。そして、姉を自殺に追い込んだ、竹沢玲という男も許せないし、その奥さんである、竹沢一恵さんも許せない。どうか、一度でいいです。姉に謝って、ちゃんと申し訳なかったと言ってほしい。」

「そうなんだねえ。そう考えると、不倫だったと見抜けなかった彼女が悪いとは言えないな。見抜けないほど美しい心を持っていることになるからな。だけどねえ、さっきもいった通り、竹沢一恵さんはね、記憶が曖昧になってるんだよ。もしかしたら、お前さんの事を忘れてるかもしれないよ。それを思い出させようとするのはどんなに難しいか、お前さんだってわかるんじゃないか?お姉さんがそういうことだったなら。だからさあ、どうしたらいいかなあ。慰謝料を払うとかそういう事はとてもじゃないができないぞ。もしかして、竹沢一恵さんが受け入れなければならない事実はこれなのかもしれないね。ええー、どうしたらいいんだろう。」

杉ちゃんがそう言うと、ジョチさんはそれ以上言わないでといった。は?何だと杉ちゃんが言うと、

「そうですが、杉ちゃんの声は大きいので、すぐに丸聞こえです。それを、彼女、一恵さんが聞いてしまったらどうするんです?」

とジョチさんは注意した。しかし、その言葉と同時に、応接室のドアががちゃんと開いた。

「本当にそうだったんでしょうか?」

そう言って、ドアの前に経っているのは、一恵さんその人だった。

「本当に主人は、山下さんと言う人と付き合って居たのでしょうか?」

明らかに体は震えており、パニック状態になっているのだと分かった。ジョチさんは、こうなってしまったら、大暴れしてしまうことは確実だと思い、すぐにスマートフォンをとって、影浦医院に電話した。

「何だあ。どうせなあ、こういう事はすぐに分かっちまったほうがいいんだよ。いずれわかっちまうことじゃないか。それなら、すぐに知ってしまったほうがいい。不倫こいたのは、どんなやつでも許されることじゃないし、それなら謝罪をしなければならないことも、まず疑いない。それに、どうせいつかは知らなくちゃならない事実でもあるんだし。まあ、これで良かったんじゃないか。錆びた釘は無事に抜けた。ははははは。」

杉ちゃんがでかい声で馬鹿笑いをした。ジョチさんは電話を切って、杉ちゃんには何も声をかけずに、一恵さんに向かって、

「とりあえず静かな部屋に行きましょう。」

と言って、彼女の手を取って、部屋を出てしまった。あとは、杉ちゃんと、山下ミチさんだけが残った。

「奥様も、姉と似たようなところがあったんですね。」

ミチさんが、一恵さんが出ていくのを眺めながら、そういった。

「始めは不思議に思いました。なんで一般市民である姉が、学校法人をやっている方と知り合いになれたのか。でも、奥様も姉と同じような状態だったのなら、話は別です。」

「そもそも、お前さんのお姉さんと、彼女のご主人はなにを媒体にして知り合ったんだ?」

と、杉ちゃんは彼女に聞いた。

「詳しくはわたしも知りません。姉の話によれば、SNSだったとか。多分、Facebookみたいなそういうものだったのではないでしょうか。」

ミチさんはそう答えた。

「なるほどねえ。今は簡単にそういう道具で知り合いになれちゃうのかあ。僕らの頃は郵便しか意志を伝える手段はなかったのによ。もうボタン一つでなんでもやり取りできちまうからなあ。でも、お姉さんは、不倫をしているということには気がつけなかったんだ。まあ、気がつけなかったという方がただしい言い方かもしれない。そうなると、また話は別だぞ。竹沢玲が、遊んでいるというか、女たらしと言うことになるから。」

杉ちゃんがでかい声でそういうと、ミチさんはこういった。それは何処か自分に言い聞かせているような言い方だった。もしかしたら、この言葉こそ、本当の真実、錆びた釘なのかもしれないと杉ちゃんは思ってしまったのだった。

「いえ、きっと姉は竹沢さんに感謝していると思います。だって、みんな姉のことも奥さんのことも、迷惑な存在としか見ないのに、姉と実際にあってくれたのですから。」


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