第三章 彼女を癒やすために
竹村さんが、クリスタルボウルの施術をした翌日。
「今日は、良いお天気ですし、公園を散歩してみませんか?」
そうジョチさんが提案したため、一恵さんは公園を散歩することにした。その日は梅雨の中休みと思われる良い天気で、外はよく晴れているので、外を散歩するのには、ふさわしい日だった。
「じゃあ。行きましょうか。写真を撮るにも、ふさわしい日ですよ。ここの利用者さんたちもそうだったんですけど、行動療法として、写真を取ることを課題として課された方がいました。他にも、カメラサークルなどで、写真を撮っている方もいます。公園にあるバラ園はとても美しいので、アマチュアのカメラマンが大勢いますよ。」
ジョチさんは、一恵さんに付き添いながら、そういう事を言った。
「そうなんですか。理事長さんは写真を撮るのがお好きですか?」
と、一恵さんは公園に向かってあるきながら言った。
「まあ、そういうことですかね。」
ジョチさんはちょっと苦笑いして言った。
「そうなんですか。じゃあ、今日は、バラの写真と一緒に、理事長さんの写真も撮りたいですね。私、こう見えても、写真を撮るのは好きなんですよ。」
一恵さんはとてもうれしそうに言った。
「ああそうなんですか。もしかして、それがなにか関連することを思い出すきっかけには、、、。」
ジョチさんはそう言うが、一恵さんがとてもうれしそうな顔をしているので、それ以上は言わないことにした。二人は、製鉄所から出て、道路を少し歩き、バラ公園に入った。
「私、この公園に来たのは初めてなんです。今まで、通った事はあったんですけど、中に入ったことはなくて。」
と、一恵さんは言った。
「そうなんですね。通ったというのは、いつのことなんですか?」
とジョチさんは何気なくきくが、
「いえ、それは思い出せないんです。」
と、彼女は答えた。ジョチさんは、それ以上言わせると、また彼女がパニックを起こすといけないので、聞かないでおいた。そのまま、バラ公園の正門をくぐって、自由広場を散歩した。公園の池には、飼育している白鳥が泳いでいて、観光客が餌をやったりしている様子も見えた。その近くにはキャッチボールをしている親子のすがたも見えた。竹沢一恵さんは、それをスマートフォンで撮影した。
「あれ、バラの花を撮るのではなくて、キャッチボールをする親子さんを撮るんですか?」
とジョチさんが聞くと、
「ええ。そういうところを、記録として残して置きたいんです。なんか、もう楽しく親子でキャッチボールをするということができる時代も、もう少しで終わっちゃうんじゃないかなと思うんですよ。みんな小学校低学年の頃から、塾へ行かされたり、習い事に行かされたりで、ああして親御さんと一緒にという例は、もう無くなるのではないでしょうか。だから、記録に残して置きたいんです。」
と、一恵さんは言った。
「記録に残すですか。確かに、それは僕も思いますね。最近は、親御さんと仲良く何処かへ出かけるというケースも少ないようですし、それももしかしたら貴重なものになるのかもしれません。そういうところは、教育者の妻だからこそ感じていたのでは無いでしょうか?」
と。ジョチさんは言った。
「理事長さんは、できるだけ早く私が、主人の事を思い出してほしいと思っているようですね。私も、思い出そうとしているのですが、どうしても思い出せません。思い出さなければいけないんでしょうけど。ごめんなさい。お役にたてなくて。」
一恵さんは、申し訳無さそうに言った。
「いえ、大丈夫です。焦ってはおりません。」
ジョチさんはしたり顔で言った。
「あ、あそこに着物の方が居ると思ったら。」
不意に近くから声がしたのでジョチさんが振り向くと、植松聡美さんがいた。彼女は青色に、白い花の小紋の着物を着ていた。彼女の周りに、似たような小紋の着物を着た女性が二人いた。
「理事長さんじゃないですか。こんにちは。おあつうございますね。こちらの方は、製鉄所の利用者さんですか?」
聡美さんに聞かれて、
「ええ。最近になって新規で利用されている方ですが、健忘が激しいようで、思い出していただけないみたい。少しずつ思い出していただけたら、いいなと思いまして、利用してもらっているんですけどね。名前は、竹沢一恵さん。」
と、ジョチさんがいうと、
「竹沢です。よろしくお願いします。」
と、一恵さんも言った。
「はい。植松聡美です。こちらの二人は、着物サークルの会員さんです。着付け教室ではなくて、着物を着て近くを散策してもらうサークルで、月に一度、こういうイベントを開いています。」
植松聡美さんがそう言うと、二人の女性はよろしくお願いしますといった。
「着物の格とかそういう事を聡美さんに教えてもらいながら、こうして着物で公園散策を楽しんでいます。ときには、美術館やコンサートにも着物で行けるようになりたいねって、聡美さんと話していたんですよ。」
ちょっと好奇心がありそうな、ピンクの着物の女性がそんな事を言った。
「そうなんですか。着付けも聡美さんに習っているのですか?」
と、ジョチさんが言うと、
「いいえ、あたしは、着付けの資格を持ってるわけじゃないので教えることはできません。着付けは皆さんにおまかせしています。それよりあたしたちは、着物がもたらすセラピーを大事にしています。」
と聡美さんは明るく答えた。
「セラピー?」
一恵さんが聞くと、
「ええ。着物セラピーというと、大げさなんですけどね。着物を着ているときは、嫌な自分はいないから、癒やしの効果があるって言うことを話してくれた人がいて。それならそれを実践してもいいのではないかと思いましてね。それで私が、ホームページを作って、メンバーを募集したら来てくれて。中には、着物を着られなくても着物を着たいという人も居るんですよ。そういう方のために、私、ウェブサイトや動画サイトなどで、着付けをしなくても着られる着物を検索したりしたんですよ。そのうち、作り帯の教室もやりたいなと思ってるんです。」
と、植松聡美さんはにこやかに言った。
「そうなんですか。確かにおはしょりを縫ってしまえば、着物は簡単に着られますからね。それにしても、着物セラピーというのは非常に面白い取り組みですね。もし、よろしければ、製鉄所にチラシを置いても結構ですよ。しかし、植松さん、あなたもよくそのような事を思いついたものですね。何かきっかけはあったんですか?」
ジョチさんがそうきくと、
「きっかけはですね。こちらの会員さんが、どうしても過去の悩みから立ち直れないと相談をしてきたんですよ。まあ、たしかに人っていうのは、他人にいいたくない過去だってありますよね。だけど、着物を着たら、それに縛られる必要もないんだって感じることができたというものですから。それであたしは、そういう時間を定期的にもたせてやりたいと思ったんです。どうしても、人間ですから、切り離せない過去とか、忘れられないことってあるじゃないですか。それを切り離せないで生きているんですよね、あたしたちは。でも周りの人は忘れろとか平気で言う。それをどんなに傷ついている人がいるか。だから着物を着ることが、その人の助けになるって気がついたら、あたしは、それをやりたいなと思ったんです。」
と、植松聡美さんは言った。
「なるほど。僕たちは、着物が日常着なので、そのような事を感じないんですが、そのような行事ができてしまうということは、着物が日常着からえらく姿を消しているということになりますな。」
ジョチさんがそう言うと、
「いいじゃないですか。あるものは有効活用させたいじゃないですか。着物を着たいと言っても、着る機会が無いからと言って処分してしまう人のほうが多いですし、でも、着物は素晴らしいものであることは疑いないでしょ。着物には罪はありませんよ。それを捨ててしまった日本人が悪いんじゃないですか。それなら、こういう使い方で、有効活用させてもいいのではないですか?」
と、植松聡美さんは言った。
「そうですか。着物が精神疾患の癒やしになるのですか、、、。ちょっと本来の趣旨から外れているのかもしれないけれど、彼女たちが、生きる意欲を取り戻してくれるのであれば、僕もそれを目指して活動していますからね。それと同じだと考えればいいのでしょうかね。」
ジョチさんは苦笑いして言った。
「ええ。あたしはそう思っています。タンスの肥やしになるとか、リメイクの材料にしか価値がないとか、そういうものであったら、こうやって悩んでいる人の心の癒やしに使ってもいいと思う。そうやって、使えるようにしてあげないと、着物は本当に必要のないものになってしまいますから!」
聡美さんは得意げに言った。
「そうですね。聡美さん、ご主人はお元気ですか。」
ジョチさんがそうきくと、
「ええ、最近は子供のオーケストラから交響曲の作曲を頼まれましてね。汗水垂らして書いています。まあ、女房は亭主のそばについてやるのが、日本の理想かもしれませんが、あの人邪魔されるのは嫌いなようですので、私は外でこういう活動していたほうがいいなと思うんです。付かず離れずが理想の夫婦ですねえ。」
と、聡美さんは言った。
「付かず離れず、、、。」
小さな声で、竹沢一恵さんが言った。
「なにかありましたか?」
と、ジョチさんがそっと聞くと、
「私も、以前、そう言われたことがあったので。」
一恵さんは小さな声で答える。
「それは誰にですか?」
ジョチさんが言うと、
「あたしたちは、みんなあなたと同じような症状を持っているんですから、気にしないで話してくれていいです。それに誰かに口外することもしませんから。遠慮なく、思い出してくださいね。」
と、思わず、聡美さんが言った。
「主人が、なんだか偉く悩んでいたような素振りを示していたことがあって、それで私は、何回か、保健所へ相談に行ったんですが、その時、相談官の方に言われたことがあります。でも、主人は、結局何も話してくれませんでしたけど。」
一恵さんは小さな声で呟いた。
「なるほど。つまり、ご主人は、なにかのことで悩んでいらしたんですね。」
「ええ。それは覚えていますが、それ以外の事は、思い出せません。」
ジョチさんがそう言うと、一恵さんは言った。
「わかりました。ゆっくり思い出してくれればそれで結構です。」
泣きそうになってしまった一恵さんにジョチさんはそういったのであるが、
「ねえ、あたしたちは、あなたの病名も何も聞かないから。」
と、緑の着物を着た女性が言った。
「私達の仲間になりませんか。もちろん、強制はしないけれど、もしよろしければでいいですよ。でも、ご主人を亡くしてつらい思いをしているんだったら、着物で一緒に楽しみませんか。」
「そうですね、それがいい。着物は色々種類があって選ぶのも楽しいし、着物を着れば、ちょっと違う自分が得られて、楽しくなりますよ。」
ピンクの着物の女性がそういった。
「でも私、着物の着付けなど何もできないです。」
一恵さんがそう言うと、
「いえ、それは大丈夫です。二部式にして着付けをできるようにする方法もありますし、おはしょりを縫ってしまえば、ガウンのように羽織って着ることができます。」
ジョチさんがそう返した。
「帯結びはどうしたらいいのでしょう?」
「作り帯はいっぱい売ってますよ。それにね、日常の事を忘れてヌイヌイするのも楽しいですよ。」
ピンクの着物の女性が言った。
「そうそう。それに、一緒にいる仲間が居ることで、早く過去のことから立ち直れるということもあります。そういうところは、やっぱり人間なんですよ。人工知能では解決できませんわ。」
聡美さんに言われて、一恵さんは小さな声で、
「よろしくお願いします。」
と頭を下げた。
「じゃあ、また着物のイベントを開催しますから、ラインとか連絡先を教えてください。そして、ポリエステルの着物で大丈夫ですから、着物と帯を用意してくださいね。もちろん、おはしょりを縫ったり、二部式に作り替えても大丈夫ですからね。リサイクル着物でもいいし、通販で購入しても大丈夫ですから。」
聡美さんがそう言うと、一恵さんは、急いで手帳を取り出し自分の名前と電話番号を書いた。
「はい。竹沢一恵さん、よろしくお願いしますね。彼女たちの名前を紹介しておくわ。ピンクの人が、村田さん。緑の人が、手越さん。」
聡美さんに紹介されて、村田さんと手越さんはそれぞれ頭を下げた。
「もし、着物のことでわからないことがあったら、遠慮なく、ラインしてね。」
「変なものを買わせるとか、そういう事はしないからね。」
と、村田さんと、手越さんが言うと、一恵さんは、嬉しそうに
「ありがとうございます。」
と言った。
「良かったじゃないですか。新しい仲間ができて。」
製鉄所に戻ってきて、一恵さんから公園であったことを聞かされた水穂さんも、嬉しそうに言った。
「簡単に着られる着物への仕立ては僕に任せてよ。」
杉ちゃんに言われて、一恵さんは、
「ごめんなさい。私が、そんなに喜んでいいのかな。」
と、嬉しいのか恥ずかしいのかよくわからない顔で言った。
「嬉しいに決まってるじゃないか。新しい仲間ができるってことは、情緒の安定にもつながるからな。早速、通販サイトで着物を買ってさ、試してみればいいじゃないか。」
杉ちゃんに言われて、一恵さんはそうですねといった。
「はあ、なにか、行けないことでもあるのかい?新しい仲間を作ってはいけない理由があるのか?そういう事はちゃんと口に出していったほうがいいってものだ。そのほうが、よっぽどスッキリするな。」
と、杉ちゃんがいつも通り利用者に接する態度で言った。杉ちゃんという人は、相手を選ばないという性質があった。つまりどういう立場の人であっても態度を変えないということだ。それは多分、一恵さんのような記憶が曖昧な人にも同じであった。
「なんで喜んでは行けないの?喜ぶことは、自然な感情だと思うけど。」
杉ちゃんに言われて一恵さんは、
「思い出せない、、、。」
と言った。
「はあ、それはずるいなあ。なんで、そういう都合のいいところは思い出せないで、悪いことばっかり思い出すの?」
「そんな事言ってはいけませんよ。彼女は思い出せないために苦しんで居るんですから。」
と、水穂さんが杉ちゃんにいう。しかし、杉ちゃんの答えはこうである。
「そうだねえ。でも都合よく思い出せないのと思い出せるのがあるってのも、なんか不自然だと思うんだけど。病んでいる人は、思い出し過ぎて大暴れしてってのが多いんだ。それを都合よく忘れて、思い出せないで苦しくなるっていうのは、僕はなんか変だなと思うんだけど。」
「確かにそういう症状もあるのかもしれませんが、彼女は自分を守るために思い出せないのだと思います。」
水穂さんは、一恵さんを見てそういった。
「多分きっと、ご主人のことや、家庭生活のことを思い出せないのは、思い出せないで苦しくなることにより、家庭から離れて、安らぎを得たいからではないでしょうか。それで、着物のサークルにも入れたんでしょうが、それは思い出すことより、更に、症状を強調させてしまうような気がしてならないんですよね。そうすれば余計に忘れたままでいられるからです。ちょっと厳しい言い方かもしれないけど、こうして生活していて、記憶を思い出すことは難しいのではないかと思います。」
「そうか。自分を守るために都合よく忘れてるのね。それは大問題でもあるよなあ。そうなるとご主人と暮らしていた生活は、生活していく上で問題があったということになるよねえ。それが、ものすごく苦痛だったということも確かだろう。そうでなければ、忘れてしまおうとしないと思うよ。もちろん事件のショックもあったんだと思うけど、事件の後で、そうやって記憶をなくしちまうってことは、もうご主人のことを思い出したくない。まあ臭いものに蓋だ。そういうことだよな。だから、そのご主人との生活がどれくらい苦痛だったかを思い出してもらう必要があるな。」
杉ちゃんは、水穂さんの話に続いていった。
「でも、彼女が、着物のサークルに入ることは僕は賛成です。きっと彼女はこれからもご主人とのことは事実として付き合っていかなければならないでしょうからね。竹村さんのような、癒やしの時間を提供してくれるのとはまた違うと思いますよ。事実を持ったまま生きていかなければならないのが人間です。だからそれから切り離してくれる道具を持つことは必要だと思います。」
水穂さんはそう言ってくれたので、一恵さんはちょっと安心した顔をした。
「それほど、主人と居た私の生活って、つらいものだったのか、今の私は、思い出すことができません。ですが、思い出さなければならないんですよね。」
「ええ、そういう事になりますね。それが、あなたにとって、車椅子を手に入れるのと同じようなことですからね。でも、それは急ぐ必要は無いですよ。悲しいことだけ記憶していることも多いから、竹村先生など、癒やしてくれる存在の力も必要でしょう。だから、まず苦痛を取り除く活動をすることからはじめてください。」
水穂さんは優しく彼女に言った。一恵さんは、申し訳無さそうな顔をして、こういうのだった。
「ごめんなさい。どうしても思い出せないんです。思い出したらどうなるのか。」
「どうもなりはしないよ。」
杉ちゃんがぶっきらぼうにそういった。
「ただ、お前さんの過去が明らかになって、それでどうして失敗したかと、それを二度と繰り返さないようにするにはどうするかという教訓だけが残る。それだけだよ。あとは何も変わらん。ただ、思い出さないと、教訓は現れないから、思い出してもらいたいだけ。それ以外はなにもない。」
「でも、それが露見しただけではだめですよね。そこからどうするかを考えていかないと。だからそのために着物を学んで、新しいものに取り組むのは必要だと思いますよ。」
水穂さんがそういった。一恵さんは不安そうな顔で小さく頷いた。
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