第二章 どうしても思い出せない

「お話いたしましょう。」

一恵さんは小さくなって、ジョチさんや華岡に向かって話し始めた。

「あの竹沢学園高校は、主人である竹沢玲が、不登校や中退などで悩む生徒を救うために建てたものです。今回、富士市という場所を選びましたのは、富士山という日本一の山の近くで楽しく学んでもらいたいという願いがあったからです。」

「そうなんですか。本当にそれだけですかね?」

部下の刑事が不意にそういう事を言った。

「学校の近所の方に伺いましたが、随分おかしな雇用条件で教師を雇っているようじゃありませんか。例えば教員免許の無い人間を教師として雇っているとか。」

「そんな事はしません。確かに学習支援員を多数入れていますが、それはあくまでも生徒たちが勉強をしやすいようにしているだけです。」

一恵さんはすぐに言った。

「失礼ですが、支援人を雇うことがどうして行けないのでしょうか?欧米の学校ではよくあることですけどね?」

ジョチさんがそう彼女を援護するように言うと、

「でもそれを、地元住民に説明しませんでしたよね?」

と、華岡が言った。

「ええだって、そういう人たちは、必要だから雇いました。それが何だと言うのですか!」

一恵さんはそう言うが、

「でも、教員は教員免許がないと、学校で教えることはできません。学校の教員でも無いものが、なぜ、勉強を教えて居るのでしょうか。おかしいですね。」

と、華岡は言った。

「よく思い出してください。竹沢さん。あなたは確かに不登校の生徒さんを救うために教育施設を作ったのだと思いますが、その中で、大変迷惑をかけている人物が居るのは覚えていらっしゃいませんか?」

「思い出せません。どうしよう!」

一恵さんは頭をかかえて考えこんでしまった。

「どうしようじゃありませんよ。そうやって自分の都合に合わないことは忘れていて、合うことは覚えているというのでは、それは本当に症状と言えるのでしょうか?はっきり言えば、違うように見えますが、どうでしょう?」

華岡に言われてジョチさんは、

「そのような言い方はしないでください。きちんと障害として、認定されていますから!」

と、すぐいった。

「そうかも知れませんが、俺たちも捜査が行き詰まてっいて、、、。」

「華岡さんそうかも知れないんですけど、障害のある人を、そうやって変なふうに扱ってはいけません。彼女は、記憶が曖昧なことで苦しんでいるんです。それは、足が悪くて車椅子に乗っているのと同じことだと思ってください。」

華岡がそう言うとジョチさんはすぐ反論した。

「しかし車椅子に乗っているのと同じとおっしゃいますが、でも、見た目では、車椅子に乗っているわけでは無いのですから。」

と、部下の刑事がそう言うと、

「はい、見た目ではそう見えますが、いろんな障害の人が居るんですから、その中には、彼女のような記憶が曖昧になることもあります。それでは誰でもかかりうる可能性だってあるんです。うつ病は心の風邪ともいうほどありふれたものですから。例えば、何処かの作業場から落ちて、車椅子になる人もいます。それと同じですよ。」

ジョチさんは急いでそういったのであった。

「そうだけど、、、。」

華岡はでかい声で言った。

「ごめんなさい。本当にどうしても思い出せないんです。彼のことや、学校のこと、一生懸命思い出そうとしているのですが、どうしても思い出すことができません。本当に全く出てこないんですよ。どうしたら、思い出せるか、私もわからない。どうしよう、どうしよう、どうしよう。」

「落ち着いてください。大丈夫ですから。華岡さんたちは、悪い人ではありません。それは僕たちが、保証しますから。ただ、事件をどうしても解決させたくて、それで焦っているだけなんですから。」

とジョチさんは、そう言って彼女を慰めたが、

「私、、、本当におかしくなってしまいましたよね。どうしよう、そのうち、私、私の事も思い出せなくなってしまうのでしょうか。」

一恵さんは、そんな事をいいはじめた。ジョチさんは、急いでスマートフォンを出して、影浦先生に電話した。パニックになっている女性が居るので来てもらえないかという内容であった。10分ほど経って、影浦先生がやってきた。すぐに食堂に来てくれて、一恵さんに薬を飲ませて、落ち着いてもらうことに成功した。

「大丈夫ですよ。記憶が抜け落ちてしまうことは、仕方ないことだと思ってください。それは悪いことではありません。警察の方々も、捜査を焦る気持ちはわかりますけど、もう、この方から情報を得てどうのということは、申し訳ありませんが、諦めていただけないでしょうか?」

影浦先生は、医者らしく厳しく言った。

「ええ?だって、その、彼女しかいないんだぞ。竹沢玲が志望する寸前、つまり移動中の車の中の様子とか、そういう事を知っている人間は。だから俺たちは、大事な参考人だと、、、。」

華岡は、嫌そうに言うが、

「そうかも知れませんが、彼女には安全な場所が必要です。そこでできるだけ外部からの刺激を少なくして、安全に暮らす必要があるのです。これ以上彼女に恐怖を体験させたら、余計にパニックを起こしてしまう可能性があります。これ以上、彼女に聞き込みを続けるのであれば、僕を通して許可をもらってからにしてください。」

と、影浦先生が言った。

「はあ。それでは、俺たち、もう少し、彼女にさあ、竹沢学園のこととか、作ったきっかけとか、聞きたかったんだけどなあ。それもだめと言うことだということですか?」

華岡が嫌そうに言うと、

「はい。華岡さん。今回は仕方ありません。彼女から情報を得るのは諦めて、他の学校の関係者を当たってくださいね。他にも有力な証言をしてくれる人を探したらどうですか。そういう人は、見かけないんですか?」

影浦先生は、華岡に言った。

「はい、、、。じゃあ、今日は帰るか。確かにこの精神科の先生の言う通りにしよう。彼女には、話を聞くのは無理だろう。」

華岡は、大いにがっかりした様子で言った。

「そうですよ。それに、彼女は今整った話をできる状態では無いので、彼女を詰問しても意味が無いと思います。」

と、ジョチさんが言った。

「そうだねえ。」

と、華岡は大きなため息をついた。そして、すごすごと製鉄所の玄関から出ていった。部下の刑事も一緒だった。影浦先生は、彼女を休ませてやってくださいと言って、とりあえず製鉄所をあとにした。

「ごめんなさい。私演技しているわけではありません。どうしても、どうしても思い出せないんですよ。どうしてこうなってしまったんでしょうか。私はどうしたら、もとに戻れるんでしょうか?」

やっと落ち着きを取り戻した一恵さんは、涙をこぼして泣き出してしまった。

「仕方ないじゃないですか。精神がおかしくなってしまったのは、全く悪いことじゃありません。肝臓が悪くなったとか、そういうことと一緒だと思ってください。」

ジョチさんが急いでそう言った。

「もとに戻ろうとか、そういう事は気にしないでいいです。それより、新たな記憶を作って行くような気持ちで生きてください。」

「はい、ありがとうございます。」

一恵さんは申し訳無さそうに言った。しばらく彼女には居室に行ってもらい、布団で休むようにとジョチさんは指示を出した。確かに安定剤には眠くなる成分もあったようで、彼女は布団に入るとすぐに眠ってしまった。

それから、少し経って。

「失礼いたします。」

と、えらくしわがれた声と、

「失礼ですが、こちらに、竹沢一恵さんがいらっしゃると聞いたものですから。ちょっとお伝えしたいことがあるのですがね。」

事務的な男性の声がした。ジョチさんが玄関先に行ってみると、

「あの、私、竹沢一恵の父である、竹沢和夫さんの弟で、竹沢裕太と言うのですが。」

しわがれた声をした、老人が、ジョチさんに言った。

「それから、竹沢学園の顧問弁護士をしている、乾と申します。」

と、隣りにいた事務的な男性が言った。

「生憎ですが、彼女は、薬が回ってしまっていて、しばらく目を覚まさないでしょう。何か用事がありますのなら、僕が代理でお話を伺います。僕は、この建物の、管理人を任されております、曾我と申しますが、基本的に彼女は僕のもとで保護されているのと同じことになります。」

ジョチさんがそう言うと、

「そうですか。わかりました。それでは、目が覚めてからで結構です。彼女に伝えてください。彼女の夫である、竹沢玲の葬儀はこちらで済ませましたと。とりあえず竹沢家の管理は、私と、乾さんとでしますから、彼女は関わらなくて結構ですと。」

と、竹沢裕太さんが言った。

「わかりました。できることはそちらで済ませていただければ。」

と、ジョチさんがそう言うと、

「はい。それで、竹沢学園は、解散することも伝えてください。竹沢学園の建物は、他の学校法人に明け渡したということです。よろしくお願いします。」

竹沢裕太さんは、そういった。まあ、精神障害者がそうなってしまっても仕方なかった。ジョチさんは、

「そうなってしまうのなら仕方ありません。代行してくれる人が居るのであれば、そうしていただきましょう。彼女には、僕がお伝えしますから、安心してくださいね。」

と、とりあえず言った。

「そうですか。それで、彼女、竹沢一恵のことなんですけど。そちらで処理していただけませんか。私どもでも、ああいう、記憶が全て抜け落ちてしまっているという人間は、ちょっと困りますというか、、、。」

と、乾という弁護士がそういった。

「確かに、家族から抹殺してくれと言う願いはよくありますし、話し合いで解決した事は全くありません。そういうことなら、そうさせて頂きます。彼女は、記憶が抜けおちてしまっているだけではなくて、情緒不安定でパニックになってしまうこともあり、そのような状態なので、専門的な治療が必要ですから、それを妨害されるような肉親はいないほうが彼女のためでもあります。とりあえず、こちらへ来てくださってありがとうございました。中には、二度と現れない肉親もいたと思いますから。ありがとうございました。」

ジョチさんは、乾さんと、竹沢裕太さんにそういった。確かに、精神障害者が、家の後継ぎから除外されてしまうことは、珍しいことではなかった。例えば座敷牢に幽閉してしまうことも珍しくなかったのだから。それに対抗しようとしてもうまくいかないことは、ジョチさんは知っていた。

「こちらもお願いなんですが、竹沢玲さんの葬儀を済ませた事は伝えますから、もう二度とここには来ないでください。中途半端に交流を持たれることは、かえって患者を傷つけることになります。それなら、もういないと言うことにしておいたほうが、ずっといいのです。」

「わかりました。」

と、二人の老人は言った。

「私どもでは対応しきれないところに、一恵は行ってしまったということですな。」

「ええ。そのとおりですよ。」

ジョチさんは、即答した。

「理解できない方は、現れないのがお互いのためです。」

「わかりました。それでは、そうさせていただきます。それでは、くれぐれも、竹沢一恵のことをよろしくお願いします。」

二人の老人は、そう言って、そそくさと帰っていった。ジョチさんは、こういう事は慣れていたので、何も感じず戻っていったのであるが、心のやさしい人であったら、絶対に涙を見せてしまうだろうなと思われるシーンであった。

ジョチさんが部屋に戻ってくると、彼女は、薬が切れて目が覚めたのだろうか、水穂さんと一緒に四畳半にいて、水穂さんのピアノを聞いていた。

「とても素敵な曲ですね。」

と、彼女、竹沢一恵さんが言った。

「それはなんという曲でしょうか。聞いたことがあるような気がするんですが。」

「ええ、ベートーベンのソナタです。21番ワルトシュタイン。それを聞かれたことがあるということは、コンサートにでもいかれたんでしょうか?」

水穂さんがそうきくと、

「いえ、コンサートには、行ったことも思い出せないんですが、なんとなく私の中で、聞いたことがあるような気がするんです。」

と、竹沢一恵さんは答える。

「そうですか。それでは、ご主人か誰かが弾いていたのですか?」

水穂さんがそうきくと、

「それもわかりません。どうしてこんなに、思い出せなくなってしまったんでしょうか。私、やっぱりおかしくなってしまったんですか?」

竹沢一恵さんは言った。

「無理して思い出そうとしなくても構いませんよ。思い出そうとしても思い出せないので苦しんでいるのでしょうから。それなら、無理して思い出す必要はありません。苦痛のないように、穏やかに過ごせるようになってきたら、思い出してください。それを焦らせることは僕たちはしませんよ。だから、まず初めに疲労した心を休ませて、ゆっくりしてから、思い出してくださいね。」

水穂さんがそう言うと、一恵さんは、はいありがとうございますと言って静かに涙を拭いた。

「大丈夫です。僕たちは、そのような方を責めるような事はしませんから。以前、大きな災害にあって、同じような症状を出した方がいました。その方も、自分が何処の誰だか忘れてしまっていたようですが、新しい仕事に雇わせることで回復しましたよ。だから、決して絶望しないようにしてくださいね。」

水穂さんは優しくそう言ってくれた。

「ありがとうございます。こんなどうしようもない女に、そう言ってくれるなんて嬉しいです。」

竹沢一恵さんは、そういったが、やはり、辛そうな顔をしているのであった。

「でも、記憶を取り戻せるだけではなく、安定した情緒を取り戻して貰わないといけませんね。先程水穂さんが言ったかたはですね、牧之原市で竜巻が起こった事をきっかけに記憶をなくしてしまわれた方ですが、何よりも、竜巻の記憶だけはよく覚えていらっしゃいましたので、そこから安全なところに来てもらい、まず初めに竜巻の記憶をなくしてもらうことから始めたんです。ときには、専門家の先生を呼んだりもしました。あなたもそうしたほうがいいのではないでしょうか。どうですか、こちらで、そういう事をやってみませんか?」

ジョチさんは、四畳半に入ってそういう事を言った。

「でも、また何か危険な事をするようでは。」

水穂さんがそう言うと、

「いえ大丈夫です。天童先生や、竹村先生にお願いして、彼女を安定させてもらいましょう。」

とジョチさんは言った。

「そうですね。確かに、竹村さんには、よく来てもらっていましたね。ピアノにはできないことが、クリスタルボウルにはできますからね。」

水穂さんも、ジョチさんの話に付け加えた。

「なんですか、そのなんとかボウルって。」

一恵さんがそうきくと、

「ええ。思いっきりリラックスしてもらうための道具ですよ。道具というより、楽器という方がいいのかもしれない。それには、人間のちからではとてもできない、クライエントさんを癒やしてくれる力があるのです。ああ、危険なものではありませんので、安心してくださいね。」

と、ジョチさんはにこやかに言った。そして、竹村優希さんに電話をかけるために応接室へ戻っていった。

翌日。

「こんにちは、竹村です。ご依頼を受けて参りました。」

と、クリスタルボウルをたくさんおいた台車を持って竹村優紀さんがやってきた。ジョチさんは、竹村さんに、来てくれたお礼を言った。

「患者さんはどなたですか?」

竹村さんが聞くと、ジョチさんは、食堂で待機させているといった。そこで竹村さんは失礼いたしますと言って、台車を動かして、製鉄所の中に入った。

「はじめまして、クリスタルボウル奏者の竹村優紀と申します。あなたが、今回の患者さんである、竹沢一恵さんですか?」

竹村さんは、椅子に座っている女性に聞いた。

「はい。竹沢一恵は私ですが。」

と一恵さんが答えると、

「ありがとうございます。それでは、竹沢さんとおっしゃいましたね。今日のセッションは初めてということで、初めての人向きの、クリスタルボウルを持ってきました。よろしくお願いします。」

竹村さんは、そう言って、クリスタルボウルを縁側の上においた。白い、風呂桶みたいな形の楽器で、女性が持つととても重いということであった。

でもそれが、重症な患者さんには一番いいのだと竹村さんは言った。

「クリスタルボウルというものを聞いたことはありますか?」

と、竹村さんが聞くと、

「いえ、ありません。本当に初めてです。」

と、一恵さんは答える。

「そうですか。わかりました。クリスタルボウルは、水晶でできた楽器で、叩いたり擦ったりして音を出すものです。それが、心をリラックスするのにとても良いと言うことで、今現在、リラクゼーションに用いられて居るんですよ。」

と竹村さんが説明すると、一恵さんは、この風呂桶みたいな楽器に興味があるようだった。

「ちなみにこんな音がなるんですけどね。」

竹村さんは、クリスタルボウルを一つ叩いてみた。

「お寺の鐘みたいな音ですね。」

一恵さんがそう言うと、

「ええ。皆さん揃ってそういいます。クリスタルボウルは、そういう音がすると。それでは、まず初めに、あなたの症状は、曾我さんからは記憶が曖昧だと聞きましたが、詳しく教えてもらえないでしょうか?」

と、竹村さんはメモ用紙を出して聞いた。

「はい。その通りなんです。私が誰であるかはちゃんと覚えているんですけど、主人のこととか、そういうことになると、全然思い出すことができないんです。それで、思い出そうとすると、パニックになってしまうんです。」

一恵さんがそう答えると、

「わかりました。記憶を取り戻すことは非常に難しいと思いますが、あなたにはまず初めに余分な力を抜いてもらうことから始めましょう。今日は、最も重度な方のための、クラシックフロステッドという種類のクリスタルボウルを持ってきました。それでは聞いていただきましょうか。座って聞いているだけで大丈夫ですから、聞いていてくれればと思います。」

竹村さんはそう言ってマレットを取った。ゴーン、ガーン、ギーン、優しい音色が、一恵さんの周りを包んだ。

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