飛雪

入峰宗慶

飛雪

 何かを受け入れることは、何かを犠牲にして生きていると感じさせられる。

現代では、何かを「好きだ」と言うことさえ困難につながることがある。この音楽、この本、このアニメ、この映画、このブランド――何でもいい。何かを「好きだ」と言うだけで、多くの人が否定的な反応を示す。私たちは、好きを表明するために何かを犠牲にしているのではないかと感じることがある。


これは些細な例かもしれないが、世間と関わる限り、主張することは非難されることに等しい。

私だけではなく、このような経験を積み重ねて生きている人々はたくさんいるのではないか。私は否定の中で生き抜き、批判の中で自分を抑え、恐怖に立ち向かい、一人で生きてきた。しかし、それは虚勢にすぎない。私は恐怖に立ちすくみ、社会に溶け込めず、息を潜め、誰にも見つからないように生きている。


だからこそ、私以外の誰かも同じ気持ちであると自分に言い聞かせてしまうのだ。孤独にもなりきれない。かといって、他者と交わることもできない。


過去を消したいと思ったことが何度もある。

少年時代の恥ずかしい思い出は、年を取れば笑い話になると言われるが、私にはそうは思えない。些細な失敗が何年経っても頭から離れない。光景、声、人々の顔や声、色、音、その瞬間が脳裏に焼き付いて、何かのきっかけで再生される。それは日常の会話でも引き起こされる。母が昔の話をすると、今の私を笑っているようで、耐えられない。そのたびに、なぜあんなことをしたのかと自分を責めてしまう。


私の苦悩や嘆きを「誰にでもある」と言われると、ますます孤独に感じる。

私にとって、苦悩は私だけのものであり、他の誰にも理解されない。内臓をえぐられるような痛みが、絶え間なく自分だけに刺さる。誰もその痛みを背負ってはくれないのだ。


もし、私が言葉を持っている人間なら、何かを反論できたかもしれない。

だが、私は反論するほどの知恵も持ち合わせていない。言語化、論理、自分の心情――それらすべてが歪んでいるのに、言葉にできない。感情を表に出すこともできない。感情を伝えようとしたことは何度もあったが、その結果はいつも悲惨だった。相手は私を批判し、侮辱し、自分こそ被害者だと言って私を責めたてた。


人間関係が、人間であることの本質だと言われても、それは私には叶わない。

私は諦め、距離を置き、世間と関わらないように生きるしかなかった。誰の記憶にも残らず、存在感を消して生きてきた。


死にたいと何度も願ったが、それさえできない。

生きることも、死ぬことも、他者も、社会も、すべてが恐ろしい。この世は私にとって、得体の知れない魑魅魍魎が跋扈する世界にしか見えないのだ。


私は過去を消したい。

誰の心にも、記憶にも残らない、無機物のように存在したい。人間らしさを捨てたいと願っている。


他者がわからない。

道化を演じられればよかったのかもしれないが、私はそれすらもできない。怯え、身を削り、気味の悪い顔をして生きている。


そんなことを考えながら、私は知人である知久兼続と酒を飲んでいた。

彼は私と同じデザイナーで、時々仕事を押し付けてくる。見た目は優男で美男子だが、コンプレックスからか髭を生やし、粗暴な態度をとっている。彼の言葉は私には響かない。視線はカウンターの上に並ぶ日本酒の銘柄に向けられていた。彼の言葉は虚勢でしかない。


「お前はそんなだからダメなんだ」と彼は言ったが、私の興味は日本酒の銘柄に向いていた。「俺はな、お前が分かっているか心配だよ」という言葉だけがかろうじて耳に入った。苛立ちを覚えた。何を「分かっている」つもりなのか?言葉があるなら、伝えればいいだけだ。


私は無力感に押しつぶされ、店を去った。

財布から1万円札を取り出し、カウンターに置いて。



 彼の声が遠くで響いていたが、私の意識はすでに自分の内面に囚われていた。繁華街の喧騒が遠のく中、私はゆっくりと歩を進め、虚ろなまま自分自身を責め続けていた。まるで背負うべき重荷を背中に感じ、重苦しい感情が押し寄せてくる。何十キロもあるような感情の塊に、私は腰を曲げたまま、疲れ果てた老人のように家へと向かうしかなかった。


帰路をたどりながら、私は再び自分の内側に閉じこもっていく。何かを感じ、何かを言葉にしようとしても、ただぼんやりとした感覚だけが残り、言葉にすることはできない。自分が何者であるのかもわからず、何を感じているのかさえもわからない。ただ肉体が自動的に動き、切り離された想像力だけが残されている。想像力で「自分らしさ」を作り上げようと試みるが、それはまるで偽りの自分を演じているように感じる。真の自分はどこにいるのか、そんな問いさえも浮かばない。私がすがりついているのは、自分という幻影だけだ。


ふと、過去の情景が頭に蘇る。「あなたはいつも自分と向き合えないのね。」かつて女に言われた言葉が記憶の底から浮かび上がる。自分と向き合うとは、どういうことなのだろう?そもそも自分というものが本当に存在するのだろうか?他人に対しては何かを語ることができても、自分自身については何も語れないのではないか。私が自覚できるものは、自己の欠落だけだ。自分について語れるのは、歪んだ自己像にすぎない。


「お前のために言っているんだ。」そういった言葉に潜む傲慢さに気づかない人々が、世の中には多すぎる。自分の言葉が正義であるかのように振る舞い、自分こそが正しいという態度で他者を責める。彼らは自分と向き合うことの難しさを理解しているのだろうか。自己と向き合った先にあるのは、空虚であり、歪みであり、弱さであるはずだ。人はそもそも弱者であり、赤ん坊としてこの世に生まれ、やがて老人として死んでいくまで、その弱さから逃れることはできない。それなのに、「お前のため」などと傲慢な言葉を口にする人々の浅薄さに、私はどうしても我慢がならない。


人間の本質は、他者の苦しみや不幸を見て、自分が少しでも優越感を抱けるという感覚にあるのではないか。多くの人々は、他人の不幸を見て、自分が幸せだと思い込むことで、自分の存在を確認しようとする。それがどれだけ醜いことであるか、人々は理解しているのだろうか。私はそんな歪んだ有様に耐えられない。だからこそ、他者からの施しを拒否する人々の気高さにこそ、生物としての美しさを感じる。他者の手を跳ね除け、自らの力で生き抜く強さと孤高さが、真の尊厳であると感じるのだ。


とはいえ、私自身はそれを全うすることができずにいる。その不満を口に出すこともできず、ただ心の中に沈み続ける。気がつけば、私はまたもや虚無感と無力感に囚われ、何もできない自分自身に苛立ちを覚える。しかしその感情ですら、結局は虚飾に過ぎないのだろう。私の感情は、本物の感情というよりも、機械的で無機質な反応であり、それにすら私は信憑性を感じることができない。漂白された自己とは程遠い、自分の感情が混ざり合った斑模様にすぎないのだ。


帰路を歩んでいたはずだったが、気がつくと見知らぬ公園の広場で横たわっていた。ポケットから残り少ないタバコを取り出し、一本に火をつけた。煙を吸い込み、吐き出したその煙は、街灯の光に照らされて白く浮かび上がり、まるで舞い散る雪のように夜空に消えていく。その光景をぼんやりと眺めながら、私はただ、過ぎ去る時間に身を委ねるしかなかった。

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飛雪 入峰宗慶 @knayui

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