第5話

 本当に、アサが通りかかってくれて良かった。店の中では、いかに衛守が優しげな顔とはいえ、男二人で選ぶには違和感のありすぎる品物ばかりが並んでいた。

 まず、鳴海が思いついたのは「茶碗」だった。だが、たちまちアサに却下された。「割れ物」なんぞ縁起でもないというわけである。挙句の果てに、夫婦の縁を切りたいのかとまで言われた。次に、衛守が考え出したのは、女性向けの「手拭い」。実用的でいいだろうというのがその理由だったが、「そんなものは、持っていて当たり前」というわけである。

「殿方から贈られるならば、特別な物で、尚且つずっと身につけられるものがいいのですよ」と、アサは述べた。その言葉を噛み締めた男二人は、俯いた。難しい。実に難しい。

 その様子を、笑いを噛み殺しながら奥から見守っているのは、店主の黃山だった。実は、大谷家はこ黄山に幾ばくかの借金がある。信成の富津在番の費用のために、大谷家でも金子を借りざるを得なくなり、黄山に金子を借りたのだった。鳴海が黄山を避けたかったのは、そのような理由もあった。だが、今日はアサの手前もある。できるだけ堂々としていようと思った。

「鳴海様。それでしたら、櫛などいかがです?上崎様の御息女が申される条件を満たすかと思いますが」

 アサが、あ、という顔をしてみせた。確かに、女性の髪には櫛が欠かせない。ここで言う櫛とは、結い髪の装飾品としての櫛である。櫛の素材によっては高価な物もあり、確かに女性への贈り物には相応しかった。

「大谷家の御内儀でしたら、鼈甲の櫛などが相応しいかと」

 ふむ、と衛守が肯いた。確かに、りんの髪型は人妻の証である丸髷にしているものの、その髷に挿されている櫛や笄などは、娘時代の物を使っていた。そろそろ、人妻らしい装いにしても、似合う年頃に差し掛かりつつある。

「母上も、お祖母様も鼈甲の櫛を身に着けていらっしゃいますしね。それぞれお祖父様や父上から贈られたものだと伺ったことがあります」

 それは知らなかった。子供のときに母を亡くした鳴海と異なり、そのような夫婦の秘話を知っている衛守を、鳴海は羨ましく感じた。

「それらの故事を踏まえて、義姉上に鼈甲の櫛を贈られるというのは、妙案かもしれません」

「鼈甲か……」

 鳴海は、店先に見本として並べられている鼈甲の櫛を一つ手に取ってみた。鼈甲の櫛は、飴色でありながら透明感もあり、独特の風合いだった。ある種の海亀の甲羅を加工して作るものだが、庶民には手が出ない高級品であり、また、吉兆にもつながる縁起物でもあった。確かに大谷家の内儀として身につけるには、相応しい品物である。

「ですが、鼈甲ってもう少し妙齢の方が身に着けることが多いでしょう?りん様は私よりも年下ですし、却って老けて見えないかしら?」

 アサは、まだ納得がいかないらしい。それでしたら、と黃山が別の品物を引出しから取り出した。鮮やかな紅色のこうがいや、珊瑚珠のついた髪飾りである。

「朱漆塗の笄や珊瑚珠の髪飾りを合わせてみては、いかがでございましょう。特に珊瑚は色合いが華やかで独特ですからね。若いお嬢様方によく似合います」

 さすがは商売人だ。アサも黄山の言葉に肯いてみせた。珊瑚もまた、高級品である。

「鼈甲でしたら、長く使えますし。組み合わせの飾りを年齢に合わせて変えていけば、お二方が共白髪になっても、旦那様からの思い出として奥方が身に着けられますよ」

 その遥かなる未来など、鳴海は想像したこともなかった。だが、夫婦になるとはそういうことなのだろう。

束の間、鳴海はりんとの未来に思いを馳せた。今からでも絆を深められるのならば、それも悪くないかもしれない。なぜ、今まで女性を毛嫌いして、夫婦の価値を理解しようとしてこなかったのだろう。

「……兄上、兄上」

 ぼーっとしてる鳴海の耳元で、衛守が大きめの声で呼びかけている。はっと、物思いから鳴海は目覚めた。

「兄上らしくないなあ。それで、買うんですか、買わないんですか?」

 ここまで来て、引き下がるわけには行かない。鳴海は決して懐が豊かな訳ではないが、今回ばかりは無理をしてでも、この鼈甲の櫛と珊瑚の髪飾りを買おうと思った。自分のためではなく、りんのために。

「買う」

 きっぱりと断言した鳴海を見て、黄山はにんまりと笑みを浮かべた。

「確かに、承りましたよ」

 そして、黄山が帳面にさらさらと数字を書きつける。その数字を目にした途端、三人の目はすがめられ、呆然と顔を見合わせた。

 締めて、十両。結構いい金額である。大身の大谷家なれば辛うじて出せない程ではないが、部屋住みの身分の鳴海が一人で支払うには、きつい金額だ。

 しかも、まさか他の大谷家の人々に事情を言うわけにはいかない。

「いささか高すぎないか?」

 呆然としたままの鳴海に代わり、衛守が黄山に詰め寄った。

「いいえ、この二本松、かつこの店だからこそこの金額なのです。これが江戸や京であったならば、値段は二倍にも三倍にもなるでしょうな」

 あちこちの土地を飛び回る黄山の言葉には、千金の重みがあった。このところ、急速に物の値段が上がってもいる。黄山の言葉は、嘘ではあるまい。

 鳴海は、しばし熟考した。例えば、ありふれた黄楊つげの櫛などにすれば、懐から出ていく金はぐっと少なくて済むだろう。だが、ここで吝嗇に走ってはだめなのだ。今までの償いと今回の礼も兼ねて、りんをちゃんと大谷鳴海の妻として扱ってやりたい。

「黄山。そなた、不肖の息子がいたな」

 不肖の息子という言いざまに、黄山はむっと顔を顰めた。黄山自身は学者はだしの知識を備える教養人だが、一人出来の悪い息子がいるというのを、鳴海は黄山の口から聞いたことがあった。

「おりますが……」

 黄山が、慎重に答えた。鳴海が何を言い出すのかと、衛守もアサも固唾を呑んで見守っている。

「その不肖の息子を、一ヶ月間世話をして鍛えてやる代わりに、この櫛と髪飾りを半額に負けて貰えぬか」

 傍らで、衛守が唖然としている。仮にも武士が、そのような交渉をするのは見たことがなかった。

「兄上、そんなのってありなんですか?」

 鳴海が鍛えるとなれば、そのやり方は半端ではない。幼いころより鳴海の側で育ってきた衛守は、それを身を持って知っていた。また大谷家の男子であれば、家老格の家柄の者等に匹敵する高い教養と知識を備えていて当然だ。現代風に言えば、旧帝国大学の学生が、どう頑張っても地方公立高校に入学できない勉強嫌いの子を、一ヶ月の短期間で鍛え上げるようなものである。中島家の家庭教師をやってやる代わりに、鳴海の求める品物の代金を負けろというのだ。

 だが当の黄山は、口元に笑みを浮かべている。どうやら、鳴海の提案を面白がっているようだ。

「どこまで愚息に身に着けさせられます?」

「読み書きそろばんに不自由しない程度には」

 武士にとっては、朝飯前のことである。だがこの黃山の不肖の息子は、よほど勉学が嫌いなのか、父がいくら厳しく指導しても、まっとうな読み書きそろばんが身につかなかったのだった。商売を広げたい黄山としては、頭の痛い愚息に違いない。

「いいでしょう」

 ぱん、と黄山が掌を打ち合わせた。

「御城勤めの前と、下城後、我が家にお立ち寄り下さいませ。私も、愚息が逃げないように監視します」

 この黄山も、なかなかの鬼畜であると、側で聞いていた衛守は内心呆れた。だが、たとえ一ヶ月でも鳴海に鍛えられれば、多少なりとも愚息の怠惰ぶりは改善されるに違いない。そして、もちろん鳴海のことだから、りんのためにやり遂げるだろう。

 それにしても、鳴海の行動は衛守にとっても意外だった。夫婦仲がしっくり行っていないのは、鳴海の単なる照れ隠しだったのかもしれない。なかなか素直になれないところもある鳴海だが、一度こうと決めたら、必ずやり遂げる。

 嬉々として黄山と打ち合わせをする鳴海を横目に、衛守はアサと忍び笑いを交わした。

「失礼ながら私、鳴海様はもっと怖い御方だと思っていました」

 アサも、そっと衛守に笑いかけた。

「兄上は、大切にしている者に対してはお優しいよ。あまり御心を口にされないから、誤解されがちだけれど」

 大体、口では嫌だ嫌だと言っていながら、りんを離縁していないのが何よりの証拠だ。本当にりんが嫌だったら、たとえ相手が家老の家柄だろうと、鳴海はとっくに離縁を選んでいただろう。

「奥方様を大切になさっているのですね」

「本人は、自覚が足りないけれどね」

 衛守がそう言ってアサの手を握ってやると、アサは顔を赤らめた。冷静に鳴海の様子を観察している衛守もまた、日頃からアサを大切にしてくれている。鳴海がりんを大切にしているように、この先アサが衛守に嫁いでも、きっと衛守は妻子を守ってくれるに違いない。

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