暮れの煙

藤泉都理

暮れの煙




 私はあらゆる傘を持たない。

 太陽光も雨も直接浴びた方が気持ちいいからだ。

 ゆえに。

 濡れますので是非お持ちくださいと従業員に強く勧められても、持たない。

 従業員もわかってくれたのだろう。

 最終的に和傘をひっこめて、笑顔で言ってくれた。


「では、ようこそ雨が滴るお化け屋敷へ。存分に怖がってください」

「ありがとうございます!」




 消し忘れた煙草が落ちているんです。

 依頼された内容だった。

 雨が滴っているので煙草が落ちていたとしても火は消えているはずなのです。

 けれどその煙草は火がついたまま。

 疑問に思いながらも取ろうとすると、跡形もなく消えるのです。






 カシャカシャと。

 音を立てながら滑り止め付の金属格子の上を歩いていく。

 ぴちょんぴちょんと。

 効果音があちらこちらから反響する、時に滝のような雨の中を、時に霧状の雨の中を。


「なるほど確かに不気味だな」


 何の変哲もない一本の煙草だった。

 火さえついていなければ。

 見過ごしてしまうだろう。


「さて、掴もうとしたら跡形もなく消える。だったな」


 私はしゃがんで煙草を掴もうとして。

 掴もうとしたら、掴めた。

 いともたやすく。

 大物探偵である私を前にして、潔く観念したか。

 気をよくしつつ、手を動かして詳しく煙草を見ようとした時だった。

 苦いチョコレートの匂いが鼻腔を掠めたかと思えば、胸が苦しくなって、全身が激しく揺れて、膝を金属格子に落として、身体を強く抱きしめ、悲鳴を上げて。


 気がつけば。

 私の身体は縮んでいた。

 しかも衣服まで縮んでいた。

 煙草の仕業かと冷静に判断しつつ、掴んでいた煙草を見ようとした時だった。

 声が、聞こえたのだ。

 笑い声。

 幼子の。

 鬼ごっこをしようと言っている。


「いや、鬼ごっこは大人もしていいし、姿を消してするものではないのだが」


 私は駆け出した。

 声がする方へと。

 見えない道へと、暗闇へと、入って行った。




 ぴちょんぴちょん、と。

 反響する不気味な雨粒の音に、幼子の声が入り混じる。




 お母さんがいっつも口に挟んでいたから。

 とっても美味しいんだと思って、もぐもぐもぐって食べたの。

 味は、よく覚えてないけど。口が熱かったのだけ、よく覚えてる。

 そしたらね。お母さん。とっても怖い顔をして、あたしの背中を叩き始めたの。

 お母さんしか食べちゃいけない物を食べたから、怒ってるんだって。

 あたし、泣いたの。

 ごめんなさいって、言いたかったの。

 大切なもの食べてごめんなさいって。

 でも、言えなかったの。

 言えないまま、気付いたら、あたし、ここにいたの。

 煙草。

 掴もうとしたの。

 何度も何度も何度も。

 掴んで、お母さんに謝って、返したかったのに。

 掴めないの。


 鬼ごっこ。

 あたし、いっつもすぐに捕まっちゃったんだ。

 捕まっちゃったら、みんなが捕まるまで、ずっと見ているだけ。

 つまんなかった。

 だからね、あたし。

 あたしね、知ってるんだ。

 あたし、死んでるんだって。

 だからね。もしもね。もしも、この煙草を掴める人がいたらね。

 あたしと同じ五才になってもらって、鬼ごっこをするんだって思ってた。

 最後にね。逃げ切るんだって。

 お母さんのところまで、逃げ切るんだって。


 ねえ、お姉さん。

 お願い。

 その煙草、私の代わりにお母さんに返して。

 ごめんなさいって言ってたって、伝えて。




 走って、走って、走って。

 気がつけば、二階建てのアパートの前に立っていた。

 気がつけば、金属の階段を上って、奥の一室の扉の前に立っていた。

 気がつけば、両の手に十本の火がついたりついてなかったりする小さな煙草の吸い殻が乗っていた。


「ばかやろう!こんなに!」

「うん。本当だね。ばかやろうだ。私は」


 幼子は、小さな女の子は初めて勝ったと笑った。

 鬼から逃げ切れたと笑った。


「ばかやろう。手加減したんだよ。君に勝ちを譲ったんだよ。私は大人だから。だけど、今度は負けない。だから」

「ふへへ。嘘つき」


 お姉さん。走るの、とっても遅かったくせに。











「………本当に遅いね。お姉さん」

「………だから手加減してるって言っただろう」


 あれから、一年後。

 私は鬼ごっこをしたあの小さな女の子と、智花ともかと鬼ごっこをしていた。

 二人だけの。


 智花は十五才になっていた。

 小さな煙草の吸殻をいっぺんに十本も飲み込んだ智花は、ずっと植物状態に陥っていたらしいが、あの日。

 私との鬼ごっこに勝って、姿を消した日に意識を取り戻したらしい。

 ずっと寝たきりだったので、リハビリに一年がかかった、わけではなく。

 三か月で十五才の体力を取り戻したらしいが、私との鬼ごっこの再戦に向けて、特訓に特訓を重ねた結果、こうして一年後に会いに来たと言うわけだ。




「お姉さん」

「んー」

「私さ。大学出たらさ、お姉さんの。探偵の助手に「却下」「はやっ」

「当たり前だ。想い出作りはこれで終い。じゃあな」

「お姉さん!」


 叫ばなくても聞こえている。

 これは想い出の始まりなんだっていう、君の声は。




 だけど絶対。

 待っているなんて、言わないよ。












(2023.6.15)



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暮れの煙 藤泉都理 @fujitori

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