第3話
聞いたことのあるファンファーレが静寂を割り、直後、ゲートが開く。
18頭の馬たちが、芝生へと飛び出す。途端、スタンドが揺れた。歓声だか声援だかがまぜこぜとなって、僕らの背を、そして、芝を巻き上げ駆ける競走馬たちの背中を押す。
先頭は5枠、続いて7枠、さらに2枠……そして最後尾に我らが18枠のハルノアカツキが続く。第一コーナーを抜け、桜並木をバックに、馬たちは栄光のゴールへとひた走る。
桃色の吹雪を半分ほど過ぎたところで、それは起きた。
空に光が瞬く。最初は、雷かなんかだと思われた。その18個の光は、不規則に動きながら、次第に大きくなっていく。
東京競馬場の楕円の上にやってきたそれは、帽子のような形をしたUFOであった。
僕は幻覚だと思った。お隣のおじさん――巌さんというらしい――も僕と同じことを思ったのだろう。目をごしごしこすっている。そうすれば、スクリーン上でふらふら回転しながら浮かぶそれが消えるかのように。でも、消えない。夢かと思って腕を思い切りつねってみたけど、痛いだけ。夢でも幻覚でもないとしたら、あれは一体なんだ。
観客は今や、18頭の行方よりも浮遊するUFOに意識を持っていかれていた。
不意に、UFOの一機が動き始める。第二コーナーに差し掛かっていた先頭の馬の頭上にやってくると、光を照射し、馬を機内へと吸い込んでいった。
キャトルミューティレーション。
一瞬、何が起きたのか、理解できなかった。だが、次の瞬間には、悲鳴が上がり、観客は出口へと走り始めている。当然だろう、自分たちもあの競走馬と同じように、拉致されてしまうかもしれない。そうなってしまったら最後、どうなるのかわかったものではない。
熱狂から一転、周囲は騒然とし始める。人々は、押し合いへし合いし、我先にと、この場から逃げようとしている。
それを、冷静に見ている僕がいる。
怖くはなかった。死ぬかもしれない、いやむしろ、死ぬよりもひどい目に遭うかもしれないとは思っていても、路上に転がっている石に向ける感情と同じものしか浮かんでこなかった。
向こうのバックストレッチでは、馬たちが逃げている。UFOは彼ら彼女らを追いかけ、鞍上の騎手ごと吸引していっている。
隣には、巌さんが変わらずいる。
「巌さんは逃げないんですか」
「オレはいいよ。どっちみち死んだみたいなもんだ。それに――」
指さす先には、馬がいる。馬体にかけられたゼッケンには18とハルノアカツキ。騎手は手綱を引き、馬を駆けさせている。逃げているわけではない。内ラチに沿って、走らせている。
まるで、レースが続いているかのように。
いや、ハルノアカツキと颯斗にとっては、レースは続いている。異常なことが起きてようと、どうだっていい。気が付いてすらいないのかもしれなかった。
誰かが――僕が教えてあげるべきなのだろうか。そうするべきなのだろう。
空で、ごうっと暴風が吹く。見上げれば、青空に溶け込むように戦闘機が飛んでいる。自衛隊の戦闘機。それは、UFOの背後につくと、懸下したミサイルを発射する。真白の雲を吐きながらUFOへと向かう水色のミサイルは、なめらかなUFOの曲面へと突き刺さる。
低い破裂音とともに、虹色の光が爆炎とともに飛び散った。まるで、花火みたいだ。
爆発とともに、UFOの破片があたりに飛び散っていく。ダートにクレーターをつくり、芝生はじゅっと音を立てて焦げた。
戦闘機は次々にミサイルを放ち、UFOを撃墜した。そのたびに、花火のような爆発が生じ、七色の光が墜ちた。さながら流星群のようだ。
雨あられと破片が落ちる第三コーナーを、ハルノアカツキはしなやかな脚をこれでもかと伸ばし、大地を蹴り上げていく。ダイナミックな動作に、恐怖とか不安とかは感じられない。彼女の鼻先は、進行方向をただ見据えている。その黒毛の馬体にまたがった颯斗また、馬と同じ方向を見据えている。
ゴールを見ているわけじゃない。その先を見ているわけでもない。まして、頭上で弾ける閃光を見ているわけでもなかった。
ゴールの手前を走っている見えない相手と戦っている。
それは、タイムとかゴーストとか言われているもの。僕たちには見えない――でも、走っている当の本人たちには確かに存在している。自分の前を走っているのだ。たぶん、そういうことなんだと思う。じゃないと、走っている理由がない。
逃げない理由があるから彼らは走るのを止めない。やめられない。
2000mのレコードは幽体という形で、現実世界に不確かな像を結ぶ。今まさに、UFOという超自然的物体が放つスクリーンを背後に、揺らめくような馬体が僕にも見えた。おそらくは、隣に座る巌さんにも見えていたのだろう。彼の呟く声が耳に入る。
「ピノワール」
秋天のレコードホルダーであり、2000m最速でもある彼の姿が、おぼろげながら浮かんでいた。
だけど、ピノワールは何年も前に亡くなっていたはずだ。
レコードを塗り替えた翌年、あのだらだらと降りしきる秋雨の中。
鞍上の男に見送られて。
その出来事は、男に深い傷跡をつくった。いくつもの心無い批判が、傷跡に塩を塗り、えぐった。
男は何も言わなかった。
周りの人間にも、調教師の巌さんにも、そして、友人の僕にも。
その男はここにいる。ハルノアカツキという馬と出会い、自身の心に刻み込まれたトラウマと対峙する覚悟を決めて。
相棒を喪った因縁の大ケヤキを越え、第四コーナーが終わる。
メインストレッチに、二頭の馬が走りこんでくる。ピノワールとハルノアカツキの間は三馬身。ここからは直線だけども、最後に傾斜がある。ここでどこまで落ちずにすむか、ペースを上げることができるかがカギとなる。
ピノワールはライバルに先行するスタイル。対するハルノアカツキのスタイルは差し。彼女の勝負はここから。
ハルノアカツキのストライドが大きくなる。ただでさえ低い姿勢がますます低くなって、まさに地を這うように加速していく。
ピノワールとの差がぐんぐん近づいていく。
最後の坂を上りきって、二頭の差はほとんどない。ゴール板までの距離もほとんどない。
最後とばかりに、騎手が鞭を振るう。それに呼応するようにハルノアカツキがさらに速度を上げる。ピノワールも負けじと追従する。
二頭は競り合うように、もつれるようにゴールへと雪崩れ込んでいく。
そして、ゴールした。
「どっちが勝ちました」
「いや、オレにもわからん」
ゴール板には鏡があったけども、僕たちがいるところからは距離がありすぎる。こういうとき、決勝写真があるのだけども、こんな大惨事になって機能しているわけがない。着順掲示板だって、タイムも順位も表示はしない。
だけども、僕には確信があった。
ハルノアカツキは、颯斗はピノワールに勝った。
ただ一人の勝ち馬は、惰力で先まで行った後に、振り返る。
そこに、ピノワールの姿はない。まるで、煙のように、掻き消えてしまった。先ほどまで見えていたあれは、幻覚だったのか、僕にはわからない。騎手と競走馬にもわからないのか、一瞬、硬直していた。
颯斗が一礼する。
手綱を軽く引っ張り、メインストレッチへと歩いていく。G1を獲ったときのように、歩いていく。
今の東京競馬場は、しんと静まり返っていた。観客はいない。先ほどまで騒いでいたUFOと青い戦闘機もいつの間にか消えていた。そこここには、黒煙を上げるUFOの残骸とクレーター。めくれ上がった芝生。
それを横目に見ながら、一頭は歩く。
パチパチパチ。
巌さんが拍手をする。その目は、勝ち馬へと注がれている。
僕もまた、拍手をしようとして気が付いた。無意識のうちに手を握り締めていたらしい。開くと、くしゃくしゃになった馬券が見えた。
破ろうとして、やめた。
しわを伸ばし破られないようにポケットに入れてから、口元に両手を当てる。
「やったな!」
ハルノアカツキがぴたりと止まる。その鼻先が、僕たちがいる方へ向く。颯斗もまた、こっちを見てくる。そこには驚きの表情がはっきり浮かんでいたけども、次の瞬間には、僕の知る不敵な笑みになっている。
こぶしが、天へと突き出された。
僕は拍手をする。巌さんも惜しみない拍手を繰り返す。
二人だけの拍手をバックに、一頭と一人が、どれだけ散ってしまったかもわからない花びらの上を歩いていく。
そこに、夜明けに瞬く暁を見た気がした。
秋天に輝く春暁 藤原くう @erevestakiba
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