第2話

 肩を揺さぶると、うめき声ととともにそのおじさんが目を覚ます。


 眼前に、汗をかいたスポドリを差し出すと、はれぼったいまぶたがぱちぱちと動いた。


「これは……」


「酔い覚ましに」


「あ、ああ」


 困惑した様子だったけれども、おじさんはスポドリを受け取り、キャップを捻る。ごくごくと飲み始める。いい飲みっぷりだった。


「先ほどはすまない」


「皆さん困っていたみたいでしたから。それに、こんな晴れの日に流血沙汰なんて見たくない」


「……確かにな」


「べろんべろんでしたけど、何かあったんです?」


 いつもなら、こんな踏み込んだ質問はしない。相手がカワイ子ちゃんじゃないのだから、なおさらだ。後先短いという事実が僕を駆り立てたのかもしれない。


 僕の問いかけに、おじさんは手の中のペットボトルを弄ぶ。そのぺこぺこという音は、周囲のヤジによってほとんど聞こえない。


「この前、降っただろう」


 僕は頷く。1か月くらい前の、まだ日差しの厳しい残暑の頃だった。といっても、その時は残暑の見る影もなく、むしろ寒いくらいだったけれども、それはさておき。


 台風がやってきた。台風シーズンに遅れてくるやつはたいてい強力だけど、そいつもご多分にもれず、非常に強い勢力を保ったまま、神奈川のあたりから上陸し、関東を蹂躙した。


 それによる被害は甚大だった。都心の方は氾濫などなく、交通機関の見合わせ等の被害で済んだけれども、山間の方はひどかったと聞く。


「あの時の雨で、地滑りを起こしてよ。うちの厩舎が流されちまったんだ」


「厩舎ってことは、馬主の?」


「うんにゃ、調教師さ。馬主から馬を預かって、レースで勝てるように育てるのがオレの仕事だ」


 仕事だったんだ、とおじさんが呟く。その手に握られていたペットボトルが、ぴきりと悲し気な鳴き声を上げる。


 僕は、おじさんの身に――厩舎に何が起きたのかを理解した。厩舎が流されたっていうことは、そこで飼育されていた競走馬たちもまた……。


「それは……残念でしたね」


「ああそうともさ。残念だった。オレも一緒に連れて言ってくれたら、こんな後悔もすることはなかった」


「…………」


「だがな」おじさんの死んだ目に、異様な光がみなぎる。「あいつがいる」


 僕は視線を手繰り寄せて、その先にいる存在を見る。そいつは、ハルノアカツキと颯斗騎手である。


「どっちです」


「どっちもだ」


「お知り合いなんですか?」


「ああ。あの馬は、妻が……小春が名付けてくれた最後の馬だ。鞍上は――」


「そっちは知ってます」


「そうなのか? それこそ珍しいだろう。あの事件以来あいつは」


「……腐れ縁なんですよ」


 颯斗とは、ガキの頃からの仲だ。といっても、どうして僕が好かれたのかわからない。あいつは、結構な人嫌いだ。人が嫌いというよりは、だらだらしているやつが嫌い、だったっけ。


 一時もじっとしていられないようなやつで、もっとこう、レーサーになるんじゃないかって思っていたものだけども、まさか騎手になるとは思っていなかった。ある時そんなことを口にしたら「あいつらと一体となって、風を切るのが気持ちいいんだ」なんて返ってきたものである。


 そんなあいつは、デビューして間もなく頭角を現し、タイトルをほしいままにしていった。


 そして、あの事件が起きた。


 そういえば、あれが起きたのもここだった。


 僕と、おじさんの目が移動する。準備運動のようにホームストレッチを駆ける競走馬たちから、第三コーナーの内ラチのさらに内側に佇む大ケヤキへと。


 その木は、府中のシンボル的な面がある。だけども、どちらかといえば、不吉なものを感じる人間の方が多い。


 特に颯斗はそうだろう。ここで、相棒を喪ってしまったのだから。


 競走馬の故障。


 それが、颯斗の心をどのように傷つけたのかは、僕にはわからない。その後の成績が芳しくないのは、あの出来事が尾を引いているからに違いなかった。


「そうか。あいつの知り合いに助けられるなんて、なんつうか、世界は狭いな」


「ですね。あ、もうすぐ始まるみたいですよ」


 僕が指さす先で、18頭の馬が、スターティングゲートに入ろうとしていた。


 ハルノアカツキに乗っている颯斗の表情は見えない。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る