井戸の中

 私が小学生だった昭和末期の当時は、まだまだ安全意識も薄く、なかなかスリリングな校外学習がありました。


 それは、確か小学二年生の頃だったと思います。

 夏の始まりの頃。

 生きものの観察という授業の一環で、とある湿地に向かったのです。

 そこは、小学校から徒歩で十五分ほど。

 小さな川沿いの、田んぼにもならないような空き地でした。

 学年全員百人ほどがゾロゾロと、草むらと水たまりが広がるその場所に入っていきます。

 各自、水槽型の虫カゴを肩から提げ、虫取り網を手に、二列に並んで先生の後に続きます。


 私と手を繋いでいたのはN君でした。

 幼稚園からずっと同じクラスで、特段仲が良い訳でもなかったのですが、苦手意識もない、そんな子でした。


「ザリガニ発見!」

「先生、トンボ取っていい?」

「もう少し待って。点呼してからね」


 そんな会話をよそに、私は黙々と歩きます。

 幼い頃から引っ込み思案で、あまり友達はいませんでした。

 手を繋ぐNくんも活発な方ではなく、私たちは黙って、水たまりに落ちないように湿地の中を歩いていたのですが……。


 それは、古い井戸のようなものがあるところを通った時でした。


「たすけてー」


 そんな声が聞こえて、私はギクッとしました。

 か細い女の子の声でした。

 悲鳴ではありません。泣きながら、自分の位置を知らせているような声。


「たすけてー」


 私は声の方に顔を向けました――井戸の中です。

 その井戸は、コンクリートの囲いが崩れ落ちてしまい、地面から穴の中が見えるようになっていました。


 ……その中に、女の子が立っていたのです。


「たすけてー」


 井戸の深さは三メートルほどでしょうか。

 地面から二メートルほどの位置に、その子の顔がありました。

 知らない子でした。私たちと同じくらいの年恰好のようです。


 同じ学年といっても百人いるので、知らない子もいます。

 他のクラスの子がうっかり落ちてしまったのでしょうか。


 ところが。


 私は背の順で真ん中くらい。

 先頭の先生も、前を歩くクラスメイトたちも、その子の事を全く気に止めていないのです。


「…………」


 私はどうすべきか迷いました。

 しかしここで、根っからの引っ込み思案が顔を出してしまいました。

 きっと、教え子たちを安全な場所に集めてから、先生たちで助けるんだ。

 そう思い、私は黙って井戸の脇を通り過ぎました。


 その後、井戸の中の女の子がどうなったのか、私は知りません。怖くて確認に行けませんでした。

 ザリガニやオタマジャクシを虫カゴいっぱいに集めるクラスメイトの間で、やっとバッタを一匹捕まえたのを覚えています。

 けれど、先生たちが大騒ぎになっていた記憶はありません。

 きっと、あの女の子は私の見間違いだったんだ。

 そう思うようにして、私はその事を誰にも言いませんでした。



 ────────



 ――それから十数年。

 大学を卒業したタイミングで、小学校の同窓会がありました。

 学生時代最後の記念という事で、私も参加する事にしました。

 小学校の時は引っ込み思案でしたが、中学、高校で仲の良い友達ができて、自分に自信がついたのもあります。

 会場は地元の料亭。宴会場でお禅を囲む形です。


 私の横には、N君が座りました。

 N君は、小学三年生になる前に引っ越してしまっていました。

 好青年に成長したNくんは、けれどもやはり、ままり活発に人に話しに行くタイプではありませんでした。

 隣同士、「何をしてたの?」というような話をする事になりました。

 N君は引っ越し後、他地方で暮らしていたのですが、両親が亡くなりそちらで就職。この日は同窓会のために帰郷したとの事でした。


 その話題を出したのは、N君の方でした。

「覚えてる? 二年生の時の校外学習。川沿いの湿地に行ったやつ」


 なぜそんな話をしだすのか。私は不思議に思いました。

 ――幼い記憶の中の映像は、フィルターをかけたように霞んでいました。

 けれどN君は、真面目な顔でビールをあおってこう言いました。


「あそこの井戸の中に女の子が落ちてたの、見てない?」


 私は悲鳴を上げそうになりました。

 この十数年、見間違いだと思い込んで、記憶の中で霞んでいた情景が、急にはっきりと脳裏に浮かんだのです。


「たすけてー」


 弱々しい鳴き声が、すぐ耳元で囁いているかのように脳裏に響きます。

 絶句する私の様子で察したようで、N君は語りだしました。



 ────────



 転勤族だったN君の両親が、そろそろマイホームを持ちたいと、この町で物件を探しだしたのは、二年生の終わり頃の事でした。

 大企業のベッドタウンとして開発が進む町でしたので、それまで使われなかった土地が次々と宅地として造成された時期でもありました。

 そして、N君の両親が選んだのは、件の湿地の、あの場所でした。

 校外学習のすぐ後、湿地は宅地として埋め立てられていたのです。

 市内でもあまり用のない場所だったので、当時の私はそれを知りませんでした。

 川のすぐ側で元は湿地。

 条件が悪いだけに、地元の人なら避けるような場所ですが、その代わりに格安で、特にこだわりのなかったN君の両親は、そこに決めたそうです。


 N君は、それを「嫌だな」と思っていました。

 なぜなら、校外学習の時にしまっていたから。


 N君は霊感が強い体質で、以前から何度か幽霊を見ており、この時も井戸の中の女の子が、この世のものではないと分かりました。

 もし、しまった時。

「気付いたと分かるとついて来てしまうから、無視をしなさい」

 彼の祖母にそう言われていたので、N君は知らないフリをする事にしました。


 ところが。


 手を繋いで歩いている私が、ギュッと手を握ってきたから、私もそれを見ている事に、彼は気付いたのです。

 けれど、私が何も言わないので、N君は私も人なのかもしれないと、その事に触れないようにしました。


「この場所は嫌だ」

 購入予定の家の場所を知り、N君は何度も両親に訴えましたが、彼らはN君の霊感に理解がなく、「これ以上いい条件はない」と、その建売住宅を購入したのです。


 引越してすぐからでした。


「たすけてー」


 家にいる限り、もの悲しいその声がずっと聞こえているのです。

 夜も眠れず、N君は両親に訴えますが、「気のせいだ」とあしらわれるばかり。

 半年もした頃、N君はついに壊れてしまいました。


 叫び、暴れ回るN君に手がつけられなくなり、両親は彼を小児精神病院に入院させる事にしました。

 病院にいるうちは、N君は全く異常がなく、健康そのもの。

 しかし退院して自宅に戻ると、発作を起こしたように暴れます。

 そんな事を何度か繰り返した後、ついに両親は異動願を会社に提出し、家を売り、別の土地へ引越したのです……。



 ────────



 そんな辛い過去を淡々と語りN君に、私はどうしても気になる質問をしました。

「そんな大変な事があったのに、どうして同窓会に戻って来たの?」

 彼は弱々しく微笑んで私を見ました。


「実はもうひとつ、変な記憶があるんだ」


 それは、幼稚園に入るより前。

 この町に引っ越して来たばかりの頃は、アパート住まいでした。

 その時、妹がいた記憶があると。


「まだ赤ちゃんで、小さくて壊れそうだから、触るのが怖くて、少し距離を置いてたんだ」


 ――だからいつ、家から妹が消えたのか、N君は分かりませんでした。

 しばらく赤ちゃんを見ないのを不思議に思い、ある時、彼は聞きました。

「赤ちゃんはどうしたの?」


 すると、彼の母はこう答えました。

「何を言ってるの? 赤ちゃんなんていないわよ」



 ────────



「……ずっと記憶違いだと思ってきたんだ」

 N君は二杯目のビールをグイッと飲んで、それから低い声で呟くように言いました。

「でも、実は来月、結婚する事になっていて、披露宴に使うために、昔の写真を探していたんだ」


 古いアルバムを見ている時。

 不自然に隙間の空いたページを見つけ、N君は不思議に思いました。

 その中の写真の一枚に、妙に分厚いものがあり、彼はそれを剥がしてみたのです。


 写真はピッタリと二枚重ねになっていたため、その存在をは見落としていたのでしょう。

 裏側に当たる写真には、一家で赤ちゃんを囲む様子が写っていました。



 ────────



「…………」

 私はどう答えていいか分かりませんでした。

 しかしN君は、吐き出すように続けました。

「どうして俺があれだけ反対してもあの家を買ったのか。今になって、やっと分かった」


 ――写真の妹が、あの湿地の、あの井戸の底に眠っているから。


 で亡くなってしまった妹を、両親はあの井戸に隠したのでしょう。

 もしその場所が、他人の手に渡ってしまったら。

 後年、掘り返した時に見つかってしまうかもしれない。だから……。



 ────────



 久しぶりに通った湿地の跡地。

 一部、民家は残っていますが、今では駐車場や貸倉庫になっている場所がほとんどです。

 景色はすっかり変わってしまい、あの井戸、そしてN君の家があった場所は、面影すらありません。


 同窓会の後、N君とは連絡を取っていません。

 その後の同窓会でも、彼を見る事はありませんでした。


 N君はあの日、妹がいたという証拠を、両親と暮らしたこの地に探しに来たのでしょう。

 そして、既に家はなく、アスファルトで覆われたこの地を見て、何を思ったのでしょうか。

 どんな思いで、私にあの告白をしたのでしょうか。


 どうして私があの女の子を見たのか。

 霊感の強かったN君の影響だったのかもしれません。

 これまで生きてきた中で、幽霊らしきもの見たのは、その時一度限りですから。

 しかし今でも、あのもの悲しい声だけは、耳の奥に焼き付いたように、私の記憶にこびり付いているのです。


「たすけてー」

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