学校の怪談

 学校、特に小学校に怪談は付きものです。

 かく言う私が通っていた小学校にも、例にもれずありました。


 仮に「K市立S小学校」としておきます。

 今でこそ、某大企業のベッドタウンとして、それなりに栄えているK市ですが、かつては田んぼの広がる農村でした。

 そしてS小学校は、戦後間もなく、人口の増加に従い建てられた、市内で二番目に古い小学校です。


 私が通っていた昭和末期の当時、建物は、改修は重ねられているものの、戦後に建てられたものでした。灰色のコンクリートに染みの目立つ校舎は、子供でなくとも怪談語りをしたくなるような、そんな雰囲気がありました。


 ほとんどの学校がそうであるように、南側に運動場が広がり、その北隣に教室が並ぶ校舎、中庭を挟んで、音楽室や図書室のある別棟、そして一番北に体育館、という配置です。


 ただ、他と違うのは、プールがない、というところ。

 どういう訳か、プールの時だけ、バスで市民プールを借りに行くのです。

 まちなかの小学校ではありましたが、何とかすれば、プールを作れない事はないだろうと、当時私は不思議に思っていました。


 それは一旦置いておき……。

 S小学校の校門には二宮金次郎の石像があり、校庭の隅にはやたら大きな銀杏イチョウの木がありました。

 音楽室にはベートーヴェンやバッハの肖像画が並び、理科室には人体模型が置いてありました。

 図書館横の階段の下には謎の扉があって、開かずの地下室があるという噂もありました。

 そんな、学校の怪談にありがちなお約束を全て備えているにも関わらず、S小学校で囁かれている怪談は、全く別のものでした。


 ――午後四時十三分に体育館に行くと、水の音に混じって、「助けて」と泣き叫ぶ声が聞こえる。


 体育館に水の音。

 不釣り合いな組み合わせですが、子供ながらに納得できる説がありました。


 その体育館は少し変わった造りで、先生たちの駐車場を確保するためでしょう、一階が駐車場で、二階が体育館となっていたのですが、その駐車場部分が昔、プールだったという噂です。

 体育館下には、駐車場の他にトイレと倉庫があり、そこに、かつてプールだった時の遺構が残っているのがその証拠、というもの。

 私も何度も、トイレにも倉庫にも入りましたが、確かに、壁にタイルで描かれたイルカの絵が、妙に端っこにあったり、倉庫の中に古い手洗い場があったりするので、ただの噂と聞き流すには、根拠が強すぎると思わせるものでした。


 ――昔、プールで溺死事故が多発したために、埋められて体育館に建て替えられた。

 しかし、溺死者の怨念はその場に残り、命を落としたその時刻に、断末魔が体育館に響くのだ――


 そんな風なので、下校時間の四時以降は、体育館は立ち入り禁止になっていました。

 ですが当然、その事が逆に、噂の信憑性を増すものだというように、子供たちは解釈します。


 そして、あれは確か三年生の時。

 体育館の掃除当番に割り当てられた同級生五人と、噂を確かめてみようとなりました。


 お兄さんが五年生にいる、やんちゃ坊主のY君が、掃除の途中、こんな事を言い出したのがきっかけです。

「俺の兄ちゃん、その声を聞いたんだよ」

「キャー!」

「嘘だろ?」

 掃除班の全員が舞台袖に集まって、モップをもてあそびながらY君の話に耳を澄ませます。

「本当だよ。兄ちゃんアホだけど、嘘はつかないから」

「でも、四時になると体育館閉まるだろ? どうやって四時十三分に体育館に入ったんだよ?」

「簡単だよ。……校舎側の入口は四時で閉まるけど、北側の非常口は、五時に用務員のおじさんが見回る時にしかチェックしないから、掃除の時、そこを開けておけばいいんだ」


 私たちは顔を見合わせました。

 Y君の説明が具体的で、嘘や適当でないと思ったのです。


「――一旦、帰るフリをして、四時に、非常階段の下に集合な」


 その当時は、今より子供たちの学校生活はかなり自由でした。

 一応、四時が下校時間となってはいましたが、校門が閉まるのは五時のため、それまで友達同士、遊具で遊んだり探検したりしたものです。

 なので、Y君の提案は、全く困難なものではありませんでした。


 六時間目が終わり、帰りの会が済むのが三時四十五分。

 私は、掃除の班が同じOちゃんと遊ぶ格好で中庭を抜け、体育館裏に向かいます。

 みんな、遅れてなるものかと、気がはやっていたのでしょう。四時前には六人全員が、非常階段の下に集まっていました。

「四時に鳴る、下校時間の放送の前に入っちゃダメだからな。鍵を掛けにくる先生に見つかったら終わりだから。放送が終わるまでここで待とう」


 しかし、そこで待っている事が、先生や他の子供にバレてはいけません。

 体育館下の駐車場は、早帰りする先生が来る可能性があります。

 非常口に向かう階段は、道路からは丸見えです。

 あと十分と少し、身を潜めるにはどうしようかと考えた末、階段裏の狭いスペースに寄り集まって隠れる事にしました。


 そこで、小声で私たちは作戦会議をします。

「黄色の安全帽は目立つから外せよ」

「ランドセルのキーホルダーが音を出すから、ランドセルはここに置いて行こう」

「階段を上がる時は、できるだけ目立たないように、身を屈めてな」


 そんな事をしていると、下校時間を知らせる「夕焼け小焼け」が鳴りだしました。

 放送委員の「下校時間です。みなさん、交通安全に気をつけて帰りましょう。また明日も、元気に学校で会いましょう。さようなら、さようなら」という、たどたどしい声が終わり、余韻を残して放送は終わりました。


 ……そろそろ時間です。

 みんなじっと顔を見合わせ、うんと頷き合うと、Y君を先頭に、階段の下から出ます。

 そして急ぎ足で階段に向かい、四つん這いでそこを上がります。

 普段使うことのない非常階段なので、そこを通るという罪悪感だけで、胸がドキドキしました。


 そして、階段を上がり切った踊り場に集まると、Y君が、先程鍵を開けておいた非常口の扉を、ゆっくりと引きました。

 小さくギギギ……という音がして、その隙間から中に入り込んだ私たちは、シンと静まり返った体育館の異様さに立ち竦みました。


 窓のカーテンが閉められ、真っ暗ではないにせよ、目を凝らさないと、反対側の扉が見えないほど。

 おおかたの子供は帰宅し、運動場からも遠いこの体育館には、誰の声もしません。

 血管を流れる血液の音が、ザーザーとうるさく感じるほどです。


 しばらくその場に立っていたのですが、やがてY君の隣にいたM君が、小さい声で言いました。

「――今、四時十二分だ」


 反射的に、舞台の脇にある時計に目を遣ります。

 カーテンの隙間から漏れる明かりで、辛うじて時計の針が見えました。


 ――それからの一分間。

 私たちは、微動たりともしませんでした。


 できませんでした。


 ただ暗いだけでは、ただ静かなだけではない、異様な空気を子供ながらの感性で、感じ取っていたのかもしれません。

 ここに来たのを後悔しなかった、と言うと、嘘になるでしょう。

 全員、私と同じ感覚だったに違いありません。

 でも今さら逃げ出すこともできません。


 ――既に存在する何者かに悟られないよう、薄闇の中でじっと身を潜めている。

 そんな感じでした。


 震えるほど張り詰めた呼吸音だけを聞きながら、私たちはじっと、時の来るのを待ちました。


 ……そして――。


 最初にビクッとしたのはM君です。

 そのすぐ後に、私は気付きました。


 ――水の音。


 流れるような滑らかな音ではありません。バシャバシャと叩き付けるような、激しい水音。


 それが聞こえているのが私だけではない証拠に、みんなビクッと肩を震わせて、一歩下がりました。

 肩を寄せるように寄り集まった私たちは、だんだんと大きくなってくる水音を、まるで金縛りに遭ったかのように、微動だにせず聞いていました。

 徐々に大きく、激しく、鮮明になる水音に、やがてブクブクという音、大勢が叫ぶような喧騒が混じり、そして――




 ……た……す……け……て……




 囁くようなその声だけは、耳のすぐ後ろから聞こえました。




「イヤーーッッ!!」


 J子ちゃんが叫んだので、金縛りが解けたようでした。

 私たちは一目散に非常口を飛び出して、階段を駆け下り、階段下のランドセルを取りに行く余裕もなく、駐車場を突っ切って、校舎の方へと走りました。

 今思えば、自分が悪い事をしたと白状しに行くようなものですが、それだけ動揺し、誰かに助けを求めたい気分だったのです。


 ……そんな私たちの前にやって来たのは、用務員のおじさんでした。

 おじさんは、作業着を着た腕を大きく広げて私たちを受け止めると、

「どうしたんだい?」

 と、驚いたような声を上げました。


「お、お化けが出た!」

「怖いよう、怖いよう」

 泣くやら叫ぶやら、パニック状態の私たちの様子を見て察したのか、おじさんは

「こっちにおいで」

 と、私たちを校門の横にある温室へと連れて行きました。


 温室は、植え込みの向こうの人目に付かない場所にあります。

 おじさんはここで、花壇に植える花の苗を育てているのです。

 その時期は、花壇に植えた余りか、マーガレットが咲いていました。

 おじさんは、育苗ポットが並ぶ低い棚に私たちを座らせてから、優しい声でこう言いました。


「体育館に、入ったんだな?」


 私たちは驚いて顔を上げました。

「どうして分かったの?」

 M君が聞くと、おじさんはハハハと笑いました。

「毎年、体育館に忍び込む悪ガキが何人かいるからな」


 そして、少し怖い顔をして、

「先生たちには内緒にしてやるから、もう、こんな事はするんじゃないぞ」

 と言いました。


 すると、涙を拭きながら、Oちゃんが聞きました。

「やっぱり、みんな、お化けを見たんですか?」


 おじさんはゆっくりと、首を横に振りました。

「お化けなんていないよ。いいかい? 変な噂を信じると、それが本当だと思って、本当はないものがら見えたり、聞こえたり、してしまう事があるんだ。だから、変な噂は、信じてはいけないんだよ」

「でも……」


 それまで黙っていた、Aちゃんが肩を震わせながら言いました。


「私、本当に見たんです。――真っ黒な人がたくさん、私たちに手を伸ばしているのを」


「私も……」

 最初に悲鳴を上げたJ子ちゃんもそう言います。

「だからね、それも幻なんだよ。噂を本当だと勘違いした脳が見せた、嘘なんだよ」


 私もY君もM君も、何も言えませんでした。

 ――私たちは、聞こえたけど、何も見えていなかったのです。


「こういうのを、集団幻覚というんだ。科学的に証明されている。だから、今日の事は忘れて、誰にも言っちゃいけないよ」


 ……おや、と思いました。

 先程は、私たちの悪さを先生に黙っていてやると言っていたのに、それがいつの間にか「誰にも言うな」となっていたからです。


 頭の良いM君も気付いたようで、彼はおじさんに、そのまま質問する代わりに、別の事を聞きました。


「体育館が昔、プールだったってのは、本当ですか?」


 おじさんは少し言い淀んだ後、こう答えました。

「あのプールで死んだ子は、いないよ」



 ━━━━━━━━━━━━━━



 ――十二年後。


 私は教員免許を取るため、教育実習生として、母校の教壇に立つ事になりました。

 歴史が専攻のため、郷土史を色々と調べているのですが……。


 あの時の、用務員のおじさんの言葉に隠された真相を知ってしまい、愕然としています。


 先述したように、S小学校のあるK市は昔、田んぼの広がる農村でした。

 ――そして、戦時中には、隣町に弾薬工場がありました。

 そこが、某大企業の前身となっているのですが、ご存知の通り、戦時中には、軍に関わる施設は、ことごとく空襲を受けました。


 K村も例外ではありません。

 通りがけの爆撃機に爆弾を落とされ、村も田畑も、焼け野原になったのです。

 そして、焼夷弾の炎に呑まれた防空壕から焼け出された人々は、ため池へと逃げました。


 ため池は、雨水を農業用に貯めておく池。

 人工的なもののため、見た目より深く、かつ岸が滑りやすくて、一度入ったら自力では上がれず、溺死してしまう不幸な事故が、現在でも少なくないほど危険な場所。


 炎から逃げ惑う人々が飛び込んだ先にあったのは、救いのない結末でした。


 資料に記述が残っています。

 ――昭和二十年三月。

 午後三時半頃からの空襲により、K村のため池で百二十人余が溺死。

 午後四時十三分に確認したところ、その水面は、亡骸と焼けただれた皮膚から流れ出た脂で、見るも無惨な様相を呈していた、と。


 そして、先述した通り、ため池は構造上、非常に危険な場所です。

 遺体を池から引き上げる作業は、当時困難を極めました。

 しかし、遺体は腐敗をし、感染症の発生源となる恐れがあり、衛生的に良くありません。


 そこで、遺体ごと、ため池は埋められたのです。


 ――そして戦後。

 開発の進むK村に、小学校がもうひとつ欲しいという話が出ました。

 ところが、適当な場所がありません――手付かずになっている、あのため池の跡しか。


 仕方なく、ため池の周囲を買収し、そこに小学校が建てられました。

 しかし、埋め立て地に建物を建てるのは、耐震性の不安があります。

 そこで、ため池だった場所は、プールにされました。


 資料を調べているうちに、竣工当時の写真も見付けました。

 タイルでイルカの描かれた壁に、見覚えのある形の洗面所――。


 ……ところが。

 そのプールで、原因不明の事故が多発したのです。

 突然、複数の子供が同時に溺れだしたり、一晩で水が赤黒く汚れてしまったり……。


 事故の当事者や目撃者の中には、

「黒い手に足を引っ張られて沈められた」

「たくさんの人の『助けて』という声を聞いた」

 と言う子もいました。


 幸いにも、死者は出なかったようですが、あまりに多発する不可解な現象に、プールは埋められる事になったのです。

 そして代わりに、体育館が建てられました。壊し切れなかった、コンクリートの遺構を残して……。




 ……教育実習最終日。

 別れを惜しむ子供たちの中に、恐る恐るという様子で寄ってきた子がいました。

 彼は言いにくそうにしながらも、上目遣いにこう言いました。


「先生、この小学校の卒業生なんですよね? 体育館がある場所に、昔はプールがあって、人が死ぬ事故があったって、本当なんですか?」


 ――怪談は、まだ生きていた。


 この十二年の間に、校舎はすっかり建て替えられ、真新しい白く明るい小学校へと変貌しています。

 しかし、二階建てから一階へと姿は変わったものの、体育館のある場所は同じです。


 ……まだ、午後四時十三分に、あの水音と、あの声は、聞こえるんだろうか。


 戦時中の悲劇は、語り継がねばならないと思います。

 けれど、澄み切った瞳を輝かせるこの子たちに真相を伝えて、怖がって学校に来れなくなってしまったら、本末転倒です。

 ――いつか、自らの意思で、真実にたどり着いてくれる事を願いたい。

 とはいえ、嘘や誤魔化しは、教育者として言いたくない。

 私は、少し言い淀んだ後、こう答えました。


「あのプールで死んだ子は、いないよ」

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