女系家族

 久しぶりに帰郷した。

 近々結婚する予定の私は、お盆のお参りを兼ねて、祖母と墓前に報告しに来たのだ。


 父は、私が小学生の頃に亡くなった。

 朧げな記憶はある。優しい父だった。

 ヴァージンロードは、母と共に歩く事になるから、その代わり、母の位置に、祖母に座っていてもうよう、頼もうと思った。


 実家は農家だ。先祖代々受け継いできた田畑がいくつもある、どちらかと言えば裕福な豪農の類だろう。

 広い土地に構えた日本家屋は、古いながらも大きくて、昔は何人もお手伝いさんを雇っていたらしい。けれど、今はそこまでの経済力はなく、母は常々、

「広いだけの家なんて、手入れが大変なだけで、ちっとも良くないわ」

 と、不平を言っていた。


 母は忙しい人だ。

 多くのお手伝いを雇って、農作業を回している。

 今は無花果イチジクの最盛期だから、この日も、家には祖母ひとりだった。


 進学を機に東京に出て、そのまま就職。

 仕事柄、まとまった休みが取れず、実家に戻るのは何年ぶりだろうか。


「ただいま」


 懐かしい匂いを思い切り吸い込んで、私は玄関を入った。

 祖母の返事はない。母と電話で話した時に聞いていた。近頃、すっかり耳が遠くなったと。


 案の定、祖母は仏間で手を合わせていた。

 お数珠を手にして、仏壇に向かって一心にお経を唱えている。


「ただいま、おばあちゃん」


 もう一度、少し大きめの声で呼び掛けると、祖母はようやく顔を上げた。

「おやまあ、おかえり。立派になって」

 と、祖母は皺だらけの目尻を下げた。

「一人なのかい?」

「うん。彼は今日まで仕事でね、明日来る予定になってるから」


 そうかいそうかいと、再び祖母は仏壇に顔を向けた。


 祖母はとても信心深い。仏壇には瑞々しい花が供えられ、清々しいお香の匂いが部屋に漂っている。

 昼下がりの縁側からは眩しい日差しが射しているが、日陰の仏間は驚くほど涼しく、扇風機の風が首筋に浮かんだ汗を乾かしていく。


 お供えの茶菓子を仏壇に供え、祖母と並んで手を合わせる。

 そして、鴨居かもいに並んだ遺影を眺めた。


 父、祖父、曾祖母、曾祖父、そして、見た事のないご先祖さま。

 黒い額に納まった白黒写真が、亡くなった順に並んでいる。


「お父さんが死んで、もう二十年か……」

 遺影の父は、まだ三十台。彼とそんなに変わらない歳だ。

 働き盛りで夫を失った母が、どれだけ苦労をしてきたか。今なら少しは分かる気がする。


 ……と、その横の祖父の写真も目に入る。

 彼の姿もまた、父と負けないくらいに若々しい。祖母も、若くして未亡人となったのだ。

 祖母の皺だらけの手にも、深く苦労が刻まれている。


 やがて、ふうと息を吐いて、祖母が顔を上げた。

 その目はじっと、仏壇の奥の阿弥陀如来を眺めている。

 ――その目に、すがるような色が見えて、私は常々、不思議に思っている事を聞いてみることにした。


「ねえ、おばあちゃん。どうしてそんなに信心深いの?」


 すると祖母は、少し驚いたように私に丸い目を向けた。

 そして、いつもの優しい口調で語り出した。


「おまえが幼い頃。まだおまえのお父さんが元気だった頃の話を、覚えているかい?」

「どんな話だっけ?」

「ほら、幼稚園に行く頃になっても、夜泣きが治らなくて、これはおかしいと、知り合いの祈祷師に見てもらった話」

「あぁ……」


 私に記憶は全くないが、祖母からも母からも何度か聞かされた。

 ――毎夜、寝入りはなになると飛び起きて、「虫が怖い、虫が怖い」と怯え、しばらく泣き続けたらしい。

 そして……。


「その原因が、おばあちゃんのおばあちゃん、私のひいひいおばあちゃんに当たる人が、集めていた古いお札だったんだよね」

「そうそう。古いお札の供養をしていないから、悪さをしていると言われてね。調べてみると、この仏壇の奥から、出てくるわでてくるわ。全部ご供養したら、嘘みたいに夜泣きがなくなったんだよ」


 その祈祷師は、会った事もない高祖母の容姿を言い当てた上に、仏壇の奥の古いお札の存在まで見抜いたのだ。

 それがきっかけで信心深くなったのかと祖母に尋ねると、けれど祖母は首を横に振った。


「信心深いのはね、お札を集めていた、おまえのひいひいおばあさまも同じなんだよ」


 祖母の言葉に、私は怯えのようなものを感じた。

 その意味が何なのか。

 聞いてみようと言葉を選んでいると、祖母は私に膝を向けた。


 その顔は、いつものように微笑んでいなかった。

 真っ直ぐ私を見て、揺らぎのない強い口調でこう告げた。


「いいかい、今から言う事を、よく覚えておくんだよ」



 ***



 うちは代々、女系家族だ。

 なぜか、女の子ばかりが生まれるのだ。

 そのため、うちの家系の男性は、全員婿養子である。

 父も祖父も婿養子なのは、私も知っていた。


 それには、原因があった。


 ――うちは、先祖代々農家である。

 農家とはいえ大地主で、小作人を抱えて、高利貸しのような事もしていたらしい。

 それは自ずと、恨みを買う立場である。

 貸した金を取り返すため、かなり強硬な手段も取っていたというのだから、尚更だ。


 貧しく、返済ができない家に対しては、「娘を売れ」と迫った。

 見栄えの良い娘であれば、側女そばめに寄越せと、止める両親を酷い目に遭わせて連れ帰った。

 ……中にはそれを拒み、自害する者もあった。


 そんな風だから、ある時、通りすがりの修験者に、村の人たちはこう頼んだ。


「あの家に、呪いを掛けて欲しい」


 娘を奪われないよう、あの家に男の子が出来ないようにして欲しい。

 あの家の男は、偉くなるまで長生きしないようにして欲しい。


 ……ところが。

 それがうちの先祖の耳に入ってしまったのだ。

 そして、その修験者の元に、刺客を送り込んだ。


 死の間際、修験者はこう言った。

「村人たちが望むようなむごい呪いを、赤の他人に掛けるつもりはなかったが、こうなっては仕方がない。末代に至るまで、おまえの家に、男が生まれる事はないだろう。そして――」


 ***



 祖母の目はゆっくりと泳いで、鴨居の祖父を映した。

「業の深い家系なんだよ、うちは」

「…………」


 初めて聞いた話だった。

 私も再び遺影に目を遣る。

 ……確かに、女性の顔立ちはどことなく似ているけれど、男性は全て違う顔立ちをしている。


「だから、この近辺で、うちに婿入りする男なんていなくてね。私もおまえの母さんも、遠くの女学校に出されたよ。婿を探しといでと」


 ツーと、冷たい汗が背筋を伝った。

 言われてみれば、父や祖父だけではない。母の義兄に当たる伯父も、祖母の義弟に当たる大叔父も、みんな早死にしている。

 それは、つまり……。


「旦那さんを、大事にするんだよ」



 ――そう言った、亡き祖母の顔に貼り付いた、酷く悲しそうな笑顔を、私は今、まじまじと思い出した。

「どうしたの?」

 私の膝で、幼い娘が私を見上げる。

「何でもないわ」

 私はそう答え、祭壇に置かれた夫の遺影を見上げた。

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