第三話 ハラが減っては魔法が使えぬ(一)
「五十七、五十八、五十九……」
事務所の壁にかけられた時計の秒針を見つめながら、ウッキウキでカウントアップしているエルミヤさん。
「はい、ちょうど六時になりました! さあリュージさま、お家に帰りましょうか!」
「あのなあ、エルミヤさん。残業のある奴だっているんだからよ……」
俺は、半ばあきれたような口調になって言った。ていうか、終業時間を心待ちにしている営業部長秘書ってどうなんだ?
「リュージさまは、まだお仕事終わっていらっしゃらないんですか?」
「いや、今んところはそんなことねえが」
「じゃ、大丈夫ですね! 参りましょう」
そう言いながら、エルミヤさんは俺のデスクに駆け寄ってくると、マウスを操作して手早く俺のパソコンをシャットダウンしてしまった。このところ彼女は、電子機器の扱いにもすっかり慣れてしまっている。
「あー、……まいっか。じゃ、
「みなさま、お先に失礼いたします!」
「
「した!」
「した!」
社員(組員)一同からの挨拶を背に、俺とエルミヤさんは営業部を後にした。
事務所の外に出た、ちょうどその時のことだ。例の「あの音」が聞こえてきた。
チリンチリン♪
もう説明の必要もあるまい。自称・正義の警察官、
オガタは、伍道の見立てよりもさらに早く、あの騒動の二日後にはもう職場復帰していた。見たところ、心身ともに健康そのもの、以前と変わった様子はまったくない。ちなみに
「あ、
「よ、よう、オガタ。元気んなったか?」
彼女と目が合った俺は、少々気まずい感じで声をかけた。だが予想に反して、オガタの表情は明るくハツラツとしたままだった。
「なーに言ってるんっスか!
「オガタさん、この前はその……私のせいで、いろいろと申し訳ありませんでした」
続いてエルミヤさんが、謝罪の言葉を口にするも
「何がっスか?」
「いえあの、オガタさんの、リュージさまへの本当のお気持ちを表明させたりとかして……」
「は? 何のことか、さっぱりわからないっスね。ていうか、お嬢さんだれっスか?」
(コイツ……)
(まさか……)
どうやらオガタは、完全にしらばっくれることで、あの告白を丸ごと「なかったこと」にしようとしているらしい。
その証拠に、視線が挙動不審に泳ぎまくっている。ごまかそうと口笛を吹くも、息ばかりで音が出ていない。見ての通り、つくづくウソをつくのが下手すぎる女だ。
「じゃ、じゃあ、
そう言って敬礼すると、オガタは自転車のペダルを漕ぎはじめた。
だが彼女は、数メートル先でピタッと止まると、振り向きもせずにこう叫んだ。
「――
そのまま全速力で走り去っていくオガタを、俺たちはずっと見送っていた。
車に乗り、事務所を後にしてからしばらく、俺たちは無言のままだった。だが、ずっと黙っているというのもなんなので、俺から助手席のエルミヤさんに話しかけた。
「……ところで、最近会社の方はどうだ? だいぶ馴染んできたようだが」
「そ、そうですね! まだぜんぜん、リュージさまのお役に立ててはいないんですけど」
エルミヤさんは少しホッとしたような表情になって、俺に返事をした。
「伍道さまをはじめ、針棒組のみなさんは本当にお優しくて礼儀正しいかたばかりですし。まあ、顔つきとか言葉遣いとかは、若干迫力がありますけど――」
「まあ、そうだな。みんな見た目はともかく、中身はわりと普通の会社員だ」
「それでですね。私、ひとつ思っていることがあるんですけど……。以前、リュージさまはご自分たちのことを、極道だとかヤクザ者だとかおっしゃっていましたよね?」
「ああ、言ったかもな」
「でも私、これまでリュージさまや会社のみなさまと過ごしてみても、そういう風にはどうしても思えないんです。毎日毎日きちんと仕事をなさってるし、乱暴するとか物を壊したりとか盗みを働くとか、そういうあくどいことをするでもないし――」
「ま、そりゃそうだ」
「それでは、みなさんいったいどのあたりが『ヤクザ者』なんですか?」
「…………」
俺はその疑問を聞いて、思わず一瞬絶句してしまった。ちょうど目の前が赤信号になったので、車を止めてしばらく考えた。そして信号が青に変わり、俺は車を急発進させながらまくし立てた。
「そうなんだよなー! じつはこのところ、ヤバい取引や他の勢力との抗争なんかもめっきり減っちまってな。あ、この前の泥縄組の鉄砲玉は、ひさしぶりの本格的なアレだったか。でも俺たちゃ別に、反社会的なことなんて何一つやってねえんだよ、これが。だから正直俺も、自分が極道者だということをたまに忘れそうになるぜ」
「そうなんですね。……ならば、もういっそのこと『ヤクザ者』っていう看板を、下ろしてしまってもいいのではないですか?」
エルミヤさんの言葉に、俺はため息交じりにこう返した。
「難しいとこだな。任侠だの極道だのってのは、理屈じゃねえんだ。なんていうか、『生きざま』ってやつかな。このあたり、カタギの人間に語ってもなかなかわかりづらいだろうが」
「……私も、カタギかどうかわかりませんけど」
「ん? なんだって?」
俺は、エルミヤさんの言葉の意図がわからず、思わず聞き返した。
「いえ。――はあ、お腹すきましたね。晩ごはん、どうしますか?」
エルミヤさんはそう言って話を逸らしたが、俺もそれ以上突っ込むことはしなかった。車の中で、あまり面倒な話はしたくない。
「あー、そうだな。
「やすかろう?」
「そういや、まだエルミヤさんとは行ったことなかったかもな。ちょっと離れてるが、とにかくなんでもすっげえ安いスーパーなんだよ。このところ食う量が劇的に増えたから、少しは節約しねえとな」
「……あの、いつもいっぱい食べちゃって、申し訳ありません……」
エルミヤさんは、真っ赤になってうつむいた。彼女なりに、気にはしているようで安心した。
「気にすんな。育ち盛りなんだろ?」
「は、はい、ちゃんと育ってます!」
そう言いながら、ふたたび彼女は笑顔を見せた。ローブの下で揺れるたわわな果実が、またワンサイズふくらんだような気がした。
車を来客者用の駐車場に停め、入り口にあったショッピングカートに買い物かごを乗せると、俺とエルミヤさんは「スーパー安か郎」に入店した。店内はエアコンがほどよく効いていて、涼しげな空気が俺たちを包み込んだ。
カートを押しながら、俺は商品の陳列をしている店員の女の子に話しかけた。その娘は俺の顔を見ると、よく通る声で挨拶を返してきた。
「いらっしゃいませ! ……あ、竜司さん、こんばんは!」
続く
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