第16話「目覚めた空腹」

誰か、冷たい手の持ち主が激しく頬を叩いている感触がする。青年は眠たい脳を無理やり起こし、ゆっくりと瞼を持ち上げた。遠くに聞こえていた音が、間近で鳴っていることに気づく。


「ウーバーイードー!!!!起きろーーーー!!!」


 キョンはウバイドの分厚い胸部に跨がり、思い切り頬を打っていた。手がやたらと冷たいのは冷蔵庫から出てきたばかりだからだろう。しばらくは状況が掴めずされるがままであったウバイドだが、いきなり上半身をぐっと持ち上げた。キョンはバランスを崩して転がり落ちると、ベッドの縁をも通過して汚らしい床へと頭からダイブする。


「ってぇな!!急に起き上がるなよ!!」


「それはこっちの台詞だ。頬を叩くな」


「だってさあ!!!!いくら呼んでも起きないんだもん!!」


 ウバイドは溜息をつくと、自分の耳から布の塊を取り出した。耳栓である。彼は神経質であるため、少しの物音でも眠りが浅くなるタチだ。子どもの頃から変わらない習慣であった。


「なあんだ!先に言っといてくれよ!」


「まさかお前に起こされるなんて思ってもいなかったからな。」


「早起きで健康的なゾンビだろ!俺!」


「そうだな」


 適当に返事をしつつ、ウバイドは身支度をし始めた。寝苦しさ解消のために脱いでおいた砂避けを頭部に着ける。キョンは特に着替えなかったのだろう、寝る前と同じ赤い中華風の子ども服だった。やけに気合の入った様子でキョンはウバイドの後をついて回りながら喋っている。


「今日はRyuRyu-Cのところに行こうぜ!!用件は忘れちまったけどさ!なんか面白いことがありそうだろ!?」


「そんなことで尋ねていい人なのか?」


「たぶん!俺、こう見えて仲良いんだぜ!!RyuRyu-Cと!」


 白装束を身に纏い、白砂漠に行けば間違いなく風景に溶け込むことができるであろう相貌になったウバイドは疑いの目をきょんに向ける。渋々、彼らはホテルを出た。ホテル代は勿論ウバイドのツケになったが、店員は貧乏そうな二人のたった一泊の料金などどうでも良さそうだった。早く店じまいしたいとでもいう様に、たった一人の店員は気怠げにエントランスの窓口から彼等の背中を見送っていた。



***



 朝でも変わらない空の色は、依然として紅だ。酸性雨でも降らせそうな黒々とした雲が空に散らばる燃え滓の様に漂っている。キョンはビルの集まるエリアに向かっていた。廃墟のように崩れかけたビルが立ち並んでいるが、そのほとんどの低層階には看板や明かりがついている。地下にも店などがあるのだろう、奥まった地下へ続く階段から光が上がり向かいのビルの高層を照らしている。頭から三日月の様な寝癖を生やしている少年は、白い布を纏った大男を率いてずんずんとビルの間を進んでいった。影になっている部分にはネオンサインが所々に設置され、バーや会合の場を指し示す。路地裏は排水管や電線が入りくんでおり、油に塗れた換気扇からは臭う熱気が吐き出されている。ウバイドは時々背を屈めながら、器用に進んでいくキョンの後ろを必死でついて行く。長らく放置されているであろうゴミ袋が大量に置かれた空き地に来た時、キョンが立ち止まった。ゴミに群がるハエなどの虫、ゴミを漁る鼠と烏をじっと見つめている。キョンは何かに操られているかの様に虚な目で生ゴミを漁る鼠へと近づいていく。その動作は非常に滑らかで足音ひとつ聞こえなかった。キョンはゆっくりと手を伸ばし、優しい手つきで鼠を捕まえる。あちこちにダニの付いた、ヘドロと糞尿の腐った様な滑りを足に付けたままの、汚らしい鼠である。鼠は手に何かの肉の破片を抱え、夢中で貪っている最中であった。食べ物に夢中になっている鼠を左手に乗せ、右手の人差し指と親指で尻尾をつかむ。ゆっくりと持ち上げ、無感情の瞳でぶらんと宙に浮く鼠の姿を見ていた。急に大口を開けたキョンは、そのまま汚い鼠を口へと頬張る。ぐちゃぐちゃと咀嚼音がゴミ置き場に響いた。血の生臭さが辺りに広がる。驚いた烏は飛び去り、鼠は血の匂いにおびき寄せられて、キョンの足元に駆け寄ってきた。鼠は生きるためならば同族でも迷わず貪り食う生き物だ。ウバイドはその壮絶な光景をただ呆然と見つめるしかなかった。ゴリゴリと鼠の骨を噛み砕いているキョンは、ごくりごくりと何度も肉を飲みこむ。口からはみみずの様に腫れぼったい尻尾が垂れていた。ひと通り噛み砕き終わると、麺を啜る様に尻尾を啜る。人形の頭を無理やり動かすかの様にウバイドの方を顔だけ向いたキョンは、お前も食べろよと言いたげに微笑みかけた。にっと笑った口にはさっき食ったであろう鼠の毛の塊が付着していた。ウバイドは引き攣った顔で首を横に振る。キョンは普通の表情に戻ると、まるで何事もなかったかの様に路地を進み始めた。ウバイドはしばらくその場を動けなかったが、キョンを見失いそうになり慌てて足を動かす。朝食を食べていない空腹がひもじかったのだろうか。ウバイドは自分の空腹をも忘れて、必死にキョンの行動の理由を探していた。あんなに綺麗好きだと豪語していたのに、ゴミを漁る小動物を口にするとは。やはりこの街の住人の言葉を間に受けてはいけないと改めて自戒するのだった。

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