第8話「黒煙のうずまき」
「な…なんだ?」
「…いらっしゃぁい」
木造の建物に響く低音は、黒煙の流れと共にゆらゆらと揺れている。声はどこからともなく聞こえてきて、店内の空気を震わせていた。ウバイドは目を見開いてその声の主を見極めようとしたが、黒い気体の塊以外に他者の存在を見出すことはできなかった。
「だ…誰だ、どこにいる」
「ここだよぉ…」
黒い渦はその場で数回回転すると、ウバイドの座る席の方へと飛んできた。小さな黒い空気の塊は次第に大きくなっていき、人型のような影になっていく。風もないのにどうやって塵が移動できるというのだろう。黒い粒子はウバイドの上半身に絡みつき、旋風のように舞っては机の上のナプキンをひらひらとゆらした。耳元で再び人間の吐息が聞こえる。
「うまいかぃ…」
「…!何者だ」
ウバイドはナイフとフォークをテーブルの上に落とすと、黒煙を振り払うように立ち上がった。木製の大きい椅子が倒れ、ドタンと鈍い音を立てる。黒煙はウバイドの体から次第に離れると、テーブルの横にくるくると集まってその体積を凝縮させ始めた。粒子は雲のように柔らかい質感でもあり、ウバイドがこれまで遭遇した砂嵐のような鋭い流線とはまた違った気の流れであった。次第にその渦は人の形のように固まっていく。下半身は依然として黒い煙のようであるが、上半身はと言えばやや華奢な青年のようであった。肌はこんがりと焼けた肉のように黒く、髪の毛は炭のように黒い。悪戯っぽく笑う顔に無邪気さはなく、じっとりとした笑顔はどこか邪悪さを秘めていた。瞳には光はなかった。ゆっくりと広角が上がり、にやりと見える歯は彼の頬を切り裂いていく。
「…!ゆ、幽霊か!?」
「そう思うかぃ?…ヒヒ、そうだよぉ」
下半身の透けた男は、虚な目を細めて嬉しそうに笑った。
「ちっげーよ!幽霊な訳ないだろー!」
そう言いながら奥から飛び出して来たのはキョンだった。ぷんぷんと怒った様子で、ウバイドのテーブルに近づいてくる。洗い物をしていたのか、片手に泡だらけのスポンジ、もう片方に泡だらけの皿を持っていた。腰には元は白かったであろう、黄ばみがかったエプロンをしていた。
「ロウ店長!嘘言っちゃダメー!こいつ、この街に来たばかりなんだ!何でも鵜呑みで信じちまうぜ!?」
「おぉ〜そうなのかぃ?青二才かぃよく来たねぇ」
黒霧に包まれた彼がこの酒場Heart Beatの店長、ロウと呼ばれる人物なのだった。ウバイドは目の前で何が起きていたのか分からず、瞳をキョロキョロと動かすばかりである。
「ロウ店長!紹介するぜ、こいつはウバイドって言うんだ!」
「…よろしくお願いします。先程は驚いて失礼な態度をとったかもしれません、すみません」
「お堅い挨拶は好きじゃねぇんだぁ…俺はロウ。よろしくなぁ」
ロウは半身を少し浮き上がらせると、身につけている大きなぼろ布のローブをはためかせた。首には彼の体にしては大振りの、金属製のネックレスをかけている。色とりどりの宝石が嵌められているが一際目立つのは一番中央にはめられた丸く巨大な緋色の石であった。濁りのある鉱石のようなソレは、他の美しい宝石とは違い毒々しい血の塊のようでもあった。
「この店の料理はみんな、ロウ店長が作ってんだ!っすっげーだろ!!」
キョンは得意気に鼻からフンと空気を出すと、自慢気にウバイドの方を見た。
「ヒヒ、人間が食えるモンかどうかは知ったこっちゃねぇこどなぁ」
「んもう!また変なこと言ってる!ウバイド、間に受けんなよ!」
「あ、ああ、わかった」
ロウはキョンの耳元に口を近づけて何か小声で言うと、じろりとウバイドを見た。そして大袈裟にローブを翻して背を向け、厨房へと戻っていく。霧散するように次第にロウの輪郭はぼやけていき、戸の奥の影へと吸い込まれて行った。ロウ店長であったはずの黒い塵達は後を追うように空中を舞っていた。
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